佇む小さな影
真っ白な世界に落ちてきた一滴の雫は、世界を侵食するようにじわじわと広がっていく。
たまに訪れる時に見る赤い花が咲くのではない状況に、俺はここがいつもの謎空間ではないことを自覚する。
世界全体が真っ白なので距離感がうまく掴めないが、見たところ黒いシミはかなり小さい。
何か行動を起こすなら今のうちかと思った俺は、背後に庇っているソラに話しかけようとする。
すると、
『……して』
「ん?」
不意に誰かに話しかけられたような気がして、俺は顔を上げる。
「ロキ、何か言った?」
『ん? 何も言ってないよ』
ロキは不思議そうに小首を傾げ、耳をピコピコと動かす。
『ボクもソラも何も言ってないけど、コーイチには何か聞こえたの?』
「ああ……だけど空耳だったのかもしれないな」
大事な決戦を前に、少し気を張り詰め過ぎていたのかもしれない。
緊張も大事だが、過度な緊張は体が硬くなって動きが悪くなってしまうので、少し落ち着いた方がいいかもしれない。
心を落ち着けるため、一度大きく深呼吸をすると、
『……どうして…………できないの?』
「――っ!? まただ!」
やっぱり気のせいじゃない。
「また声が聞こえた。幼い子供の声が……皆も聞こえただろう?」
確認するようにソラたちに声をかけるが、彼女たちは揃って困ったように眦を下げる。
「い、いえ、何も聞こえませんでした」
『ボクも聞こえなかったよ。本当に子供の声なんてしたの?』
「したよ。間違いないって……」
俺より遥かに耳がいいソラたちに否定されると途端に自信がなくなるが、今度は間違いないという確信があった。
「子供の声で『どうして』ってさ、他にも何か言ってたような気がしたけど、何かを必死に訴えようとしていたんだ!」
どうしてソラたちには、あの声が聞こえないんだ?
「もしかしたら……」
あの声は、レオン王子の声なんじゃないだろうか?
黒いシミの奥にレオン王子がいるのではと目を見張っていると、
『……ねえ』
再び子供の声が背後から聞こえ、俺は弾けたように後ろを振り返る。
すると、目の前に知らない子供が立っていた。
「うっ……」
全く予期していなかった突然の不意打ちに、間抜けにも口を開けて固まってしまう。
顔は前髪で隠れてよく見えないが、頭に見える丸い耳と綺麗な金色の髪は、何処かで見たような気がする。
「き……みは?」
もしかして、レオン王子なのか?
そう問いかけようとする俺に、目の前の子供は口が裂けているのかと思うほど口角を上げて似たりと笑う。
『君は……僕…………いる……だね』
呆然と立ち尽くす俺に、子供が無線越しのようなくぐもった声を上げながら手を伸ばしてきて頬に触れてくる。
「――冷たっ!?」
まるで氷にでも触れたかのような冷たさに驚くと同時に、
「あ……れ……」
全身からみるみる力が抜け、堪らず膝を付く。
「コーイチさん!」
『コーイチ!』
俺の異変に気付いたソラとロキが悲鳴にも似た声を上げるが、その声も随分遠くで喋っているように聞こえる。
一体、何が起きたんだ?
必死に頭を働かせようとするが、夢の中にいるかのように考えがまとまらないし、手足は鉛のように重くなって自力で持ち上げることもままならない。
真っ白な世界にいるはずなのに、視界がどんどん暗くなっていく中で、
『…………お願い、助けて』
耳元で子供の声がハッキリと聞こえたかと思うと、俺の意識はブラックアウトしていった。
目を開けると、真っ暗闇の中にいた。
「……ここは」
目を開けたはずなのだが、一滴の光もないからか俺の目は何も捉えることはない。
だが、つい先ほどまでいた白の世界も似たようなものなので、そこまでの混乱はない。
「体は……動くな」
全身の力が抜けて指先一つ動かせなかったのだが、今は全身を包んでいた謎の倦怠感はなくなっている。
冷たくも暖かくもない、不思議な感覚の床に手を付いてゆっくりと身を起こした俺は、あることに気付く。
「手が……」
痛くない。
レオン王子を殴り続けた反動で骨が折れたはずの左手が、最初から折れてしまったかのように痛くなくなっていた。
ただ、どれだけ目に近づけても何も見えないので、この手が本当に治っているのかどうかすら確認できないのは不安だ。
それに、変わったのは手の怪我だけじゃない。
ついさっきまで感じていた、圧倒的ともいえる力の感覚がなくなっていた。
「これってつまり……」
この状況についてひとつの仮設が立てられたが、まだ結論を出す時ではない。
「ソラ、ロキ、いるのか?」
すぐ近くにいたはずのソラたちに声をかけるが、予想通りというか返事はない。
意識ははっきりしているし、手足の感覚もある。
だが、怪我したはずの左手に痛みがなかったり、ロキとの同化が解除されているのは、ここが夢の世界だったりするからだろうか?
確証はないが、ただ一つ言えることは、
「ここに俺を呼んだのは、君か?」
そう言って横を向くと、年相応とは思えない不気味な笑みを浮かべて立っている獣の耳を持つ子供がいた。




