07 激情のマリルさん。~婚約者なんて聞いてません~
場所:タークの屋敷(バスルーム)
語り:小鳥遊宮子
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「僕の役目は完了したね」
ターク様の部屋に戻り、だれもいないのを確認すると、ライルはささっといなくなってしまった。
――もっとゆっくり、可愛い猫耳を見ていたかったな。そのうちまた会えるかな……?
書斎のソファでぼんやりそんなことを考えていると、アンナさんがバタバタと駆け込んできた。
「ミヤコさん、困ったことになったわ。あなた、どこかに隠れていたほうがいいわよ!」
「な、なにごとですか?」
「いまね、ターク様の婚約者の、マリル様がこちらに向かってるの。きっと、お部屋に女性がいるのを見たら、気分がよくないと思うから」
「え……? 婚約者ですか?」
思いも寄らないことを言われ、私は後頭部を石の壁に打ちつけられたときのような、凄まじい衝撃を感じていた。
あんなに毎日私を隣に寝かせていたターク様。治療のためとはいえ、彼は私の傷口に、何度もキスをしていたのだ。
そんな彼に、まさか婚約者がいるなんて、本当にまったく、想像もしていなかった。
こんなのはまるで信じられない、夢か異世界の話に思える。
――う、う、うそでしょ?
でも、アンナさんの言うとおりだ。婚約者さんがいるなら、この状況はまずいに決まっている。
「えっと、私は、どこにいれば……?」
「そうね、どうしましょう? ライル君がいないと部屋からは出せないし……。マリル様が帰るまでバスルームにでも隠れていてくれる?」
「わかりました!」
私は青い顔で、あたふたとバスルームに移動すると、口をパクパクさせながら心のなかで叫んだ。
――婚約者なんて、聞いてないですよ!? ターク様!
だけど、よく思い返してみると、マリルという名前に聞き覚えがあった。
――魔力を貯めないとマリルがうるさいって言ってたっけ。あれは婚約者さんのことだったんだ。
きっと、ターク様の婚約者さんは、私なんかより、もっとずっと前から、彼の心配をしてきたのだろう。
――私ったら、ターク様の魔力を回復させてあげたいだなんて、なんて出すぎたことを考えていたの……?
私はなんだか自分が恥ずかしくなって、スカートの裾を握りしめた。なぜだかとても、やり切れない気分だった。
しばらくすると、どうやら客人が来たらしい気配がした。
だけど、バスルームは客室との間に、書斎とベッドルームをはさんでいるため、話し声などは聞きとれない。
――ターク様が留守なのに、いったいなにしにきたのかな……。
聞き耳を立てようと、バスルームの扉に寄りかかったとたん、突然扉が開いて、私は前のめりに倒れ込んだ。
「きゃ!?」
「あぁら、こんなところにいましたのね」
無様に床に転がった私。見あげると、赤い髪を縦巻きにした少女が、ひどく冷たい表情で私を見下ろしていた。
背が小さめで、まだ中学生くらいに見えるけれど、すごく華やかで可愛らしい人だ。まるでフランス人形のような、豪華なドレスがよく似合っている。貴族の御令嬢なのは、まず間違いなさそうだ。
彼女なら、光り輝くターク様の隣に立っても、なんら遜色がないだろう。すごくお似合いのカップルだと思う。
――可愛い! こんな状況でなければ、ゆっくり愛でたいくらいだわ!
――ターク様はどうして、こんなステキな婚約者さんがいることを一言も言ってくれないの?
……と、思ってみたけれど、ターク様はそもそも、重要なことをなかなか話さない。
とりあえず、マリルさんは命の恩人の婚約者様だ。隠れておいて今さらだけど、丁寧にご挨拶しなくてはいけないだろう。
「ひ、ひゃ、こにっちゃっ」
あせって変な声を出してしまった私を見て、マリルさんは眉をひそめ、クスッと笑った。
「あら、ごめんあそばせ。わたくし、ゴイムの言葉はわからなくてよ。だけど、なんて珍妙なのかしら。珍獣好きのターク様が、餌の世話をしたくなるのも納得ですわね。わたくしは少し、珍獣は苦手なんですけれど」
「はひゃ……!?」
可愛い顔をこれ以上ないくらいに歪め、完全に私を蔑んだ顔をしているマリルさん。
――なんて迫力なの!?
寿命が縮むのを感じた私は、首をすくめて口をパクパクさせた。
「あら、やっぱり意思疎通は難しいようですわね。だけど、そんな惨めな姿で、ターク様の同情を引いて居座ろうだなんて、なんて狡猾な珍獣なのかしら。お優しいターク様のお気持ちを想うと、わたくし、胸が詰まるようですわ」
「ふひっ……」
その上品でゆったりとした口調とは裏腹に、低く凄味のある声が、私の肩を縮みあがらせた。彼女の小さな身体から発されているとは、とても思えない威圧感だ。
氷のように冷ややかだったグレーの瞳に、しだいに激しい怒気が渦巻き、彼女の赤い髪が、まるでメラメラと燃えているように見えた。
――ターク様!? 婚約者さん、ものすごく怒ってますけど!?
私は床に手を付いたまま、彼女を見あげることしかできなかった。ヤキモチからくる女子の敵意に晒されるのには慣れているけれど、マリルさんはちょっと迫力が違う。
達也ファンの女子十人……いや二十人に取り囲まれたくらいは怖い。
いますぐ逃げ出したいけれど、すっかり怖気付いた私は、まったく腰に力が入らなかった。
見あげるばかりの私に、マリルさんは突然語気を強めはじめた。
「なにがゴイムよ! 魔力供給もできないくせに! それにこれはなんなのかしら? こんなものをデスクに置いて、まさか、わたくしのターク様に食べさせるつもりだったのかしら!?」
よく見ると、マリルさんの手には、さっき私が作ったクッキーが握られていた。
「そ、それは……! 恩返しのつもりで……」
慌てて手を伸ばす私の顔面めがけて、彼女はクッキーを投げつけた。クッキーは私の鼻に当たると、粉々になって床に散らばった。
「ひゃっ」
涙目になって鼻をおさえる私の顔を覗き込み、彼女はさらに罵倒をつづける。
「あら、綺麗な肌ですこと。やっぱり、ターク様の加護を受けたんですのね。ヒールではこんなに綺麗になりませんものね? 本当に、なんて図々しい奴隷なのかしら!? この、恥知らず! みにくい珍獣!」
そう言うと彼女は思いっきり腕を振りかぶって、私にビンタを喰らわせた。バチーン! と大きな音がバスルームに響き渡る。
「ぎゃぁっ!」
「まさか、あなた、あのベッドでターク様と、一緒に寝てたんじゃないでしょうね!? まさか……、ターク様の恋人にでも、なったつもりだったんじゃないでしょうね?」
彼女は私に馬乗りになると、握った拳を、何度も私に振り下ろした。
「ゆ、許してください、マリルさん、私そんなつもりは……っ」
見あげた彼女の瞳には、涙がたまっている。
――まさかターク様の婚約者さんに、こんな想いをさせていたなんて……。
――私、ターク様の優しさに甘えきってました……。
これは、なにかの天罰なのかもしれない。そう思った私は、彼女の小さな拳が振り下ろされるのを、じっと身体で受け止めた。
「いやだ。汚らわしい魔力が私に入ってくるわ……」
彼女はそう言うと、突然立ちあがり、パンパンとドレスをはたいた。
「いけない。あなたにケガをさせると、ターク様がまた魔力や加護を使ってしまいますわね。いいこと? 赤くなったところは氷水で冷やして消しておくのよ? 告げ口なんてしたら許しませんわよ」
「ふぁい……!」
「それから、ターク様はお優しいけれど、決してあなたを大切に思ったりしてるわけじゃないんですからね!」
「ひゃいっ」
「ターク様が大切にしてるのは婚約者である、この、わたくしだけなんですから。よく覚えておいてね! 自分がただのゴイムだってこともね!」
「ひゃい! わかりました! 気をつけます!」
早口でまくし立てる彼女に、私は必死に返事をした。
彼女は床に散らばったクッキーを丁寧に踏みにじって、すっかり粉に戻してから帰っていった。
しばらくして、放心状態の私のもとに、アンナさんがやってきた。彼女は黙ったまま、赤くなった私の顔を冷やしたり、粉になったクッキーを片付けたりしてくれた。
きっとアンナさんは、怒ったマリルさんを見るのが、はじめてではないのだろう。「やっぱりか……」という顔をしているように見える。
その日は、『王都で子供たちを治療する』と連絡があり、ターク様は帰ってこなかった。
私はアンナさんに、「このことはターク様には秘密にして欲しい」と、懸命にお願いした。そして、彼が帰ってくるまで、必死に顔を冷やしてすごしたのだった。




