09 沈みゆくターク。~死の淵で願う事は~
場所:ルカラ湿地帯
語り:ターク・メルローズ
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泥沼に一人取り残された私は、自分の身体がゆっくりと泥に沈むのを、ただ上を向いて待っているしかなかった。
足に巻きつけられた精霊用拘束具の効果は凄まじく、全く身体に力が入らない。
何も見えない真っ黒な闇のモヤの中、既に顎まで泥に沈んでしまった。闇に汚染された泥は、黒ずんで生臭い。
以前よく見ていた悪夢が現実になってしまったようだが、私は今、幸いな事に不死身ではなかった。
いつまでも痛む肩の刺し傷が、私を不死身の絶望から救っている。
――あー……ミヤコ。最後に一目お前に会いたい……。
突然訪れた人生最後の時間。
私の頭に浮かぶのは、ミヤコの顔ばかりだ。
後頭部が冷たい泥に沈み、「もうダメだ……」と、思ったその時、突然目の前のモヤが消え去り、私の目前に青空が広がった。
ドス黒かった泥沼も毒気が抜け、黄褐色に色を変えていく。
そして、空飛ぶ大きな四角い物体が、フワフワとこちらに向かってくるのが見えた。
強烈な金色の光を放つそれは、みるみる闇のモヤを吸い込みながら、私の上まで移動してきた。
――なんだ……? 脚が四本ついてるな。
唖然としながらその光景を眺めていると、それはゆっくりと私の横に降りてきた。
「ターク様! 大丈夫ですか!?」
闇のモヤを消し去って、光を失った薄黒い物体。
その上から何故か、ミヤコがひょっこりと顔を出した。
「ミヤコ……!?」
「ターク様、捕まって下さい!」
そう言って手を差し伸べるミヤコに、なんとか手を伸ばそうとするが、全く腕が上がらない。
「ダメだ、全然身体に力が入らないんだ」
「あっ大丈夫ですっ。すぐにガルベルさんが引き上げてくれますから」
ミヤコがそう言って体を引くと、空に浮いているガルベル様らしい影が見えた。逆光で黒くなってよく見えない。
途端に体が軽くなって、ズポッと泥から引き上げられた私は、ミヤコの乗った四角い物体の上にふわりと降ろされた。
――なんだ……これは? まさか、ベッドか?
見た事もない大きな鉱石の塊に、美しい宝石で飾られた豪華な背もたれが取り付けられている。
その見事な飾りの中に、よくみると動いている金の歯車。これは、明らかに父さんの手によるものだ。
ポカンとしている私に、ミヤコが突然抱きついてきた。
「ターク様! 間に合って良かったです!」
「わ、おい、汚れるぞ?」
離れようにも身体に力が入らない私は、ミヤコに押し倒され、ムギュムギュと頬ずりされた。
「うふふ、ドロドロですね!」
泥に汚れた顔を涙に濡らし、ミヤコが笑う。
――会いたかった。本当に!
身体が自由に動いたなら、きっと彼女を抱きしめてしまっただろう。今はこの拘束具に、僅かながらに感謝の気持ちが芽生える。
だけどきっと、この手に彼女を抱きしめたなら、この世界の幸せを全て手に入れたような幸福感で、心が完全に満たされたはずだ。
――ダメだ……涙が出る。
必死に堪えてみても、努力虚しく溢れ落ちる涙を、動けない私は隠す事も出来ない。
ミヤコは私が固まっているのに気づくと、親指の先で、私の涙を拭い、足に絡みついた拘束具を外してくれた。
「ありがとう。本当に死ぬかと思った」
「いえいえ! このベッドのおかげですよ! あれ? ターク様、肩に傷が……。癒しの光、消えちゃったんですか?」
「あぁ、シュベールに返したんだ」
「わぁ、それはホッとしましたね」
「あぁ、まぁ、そうだな」
有難い加護を失って、ホッとしてしまう私の気持ちを、目の前にいるミヤコが肯定してくれる。
――お前が居てくれる事がやっぱり一番ホッとするよ。
思わず彼女に手を伸ばしそうになった私の顔に、突然ばしゃっと水がかかった。
「なんだ?」と、改めて空を見上げると、ガルベル様の箒の後ろにカミルがまたがっている。
彼女はニヤニヤと笑いながら、私にアクアボールを投げつけた。
「ターク! 泥を流してあげるよ!」
「やめろ、ミヤコが風邪をひくだろ」
「大丈夫、ファシリアが乾かしてくれるよ」
そう言って両手を上に掲げたカミルの頭上に、池が作れそうな程の巨大なアクアボールが見る見る出来上がっていく。
「バカ、カミル、ミヤコがいるんだって!」
「そーれ!」
「ひゃぁ、冷たい! あはは!」
カミルが降らせたのは、広範囲にキラキラと輝きながら降り注ぐ雨のようなシャワーだった。
泥の大地に大きな虹が架かり、謎のベッドの上でずぶ濡れになった私達は、顔を見合わせて笑った。
「心配かけるんじゃないわよ」
ガルベル様のヒールも降ってきて、私の肩の傷が治る。
「ぐすっターク……」
何処からかイーヴ先生の鼻をすする音が聞こえて、ファシリアの放った温風が、私達をカラリと乾かした。
――こんな沼地の真ん中で、ミヤコとベッドの上にいるなんて、全く変な気分だな。
闇のモヤが消えた沼地からは、魔獣の姿もすっかり消えて、我に返った闇魔導師達が、人間の姿に戻り、呆然と立ち尽くしていた。
――あんな巨大な魔獣まで浄化してしまうとは、このベッドはいったい何なんだ?
視界が開けた今なら、逃げ去ったゼーニジリアスを容易に捕まえられそうだ。奴を捕まえ、シュベールを解放し、あの腰にぶら下がっていた精霊の秘宝を手に入れなくては。
「ガルベル様、私はゼーニジリアスを追います。ミヤコを安全なところへ……」
顔を上げた私が、そう言いかけた時、突然グラグラとベッドが揺れ、泥の大地が盛り上がり始めた。
「ひやぁ!」
叫ぶミヤコを慌てて引き寄せると、私達を乗せたベッドは、十五メートル近くも持ち上げられ、泥の波に乗るように、ゴゴゴ……と音を立てながら、第一砦に向かって流れ始めた。
必死にベッドに捕まっていると、イーヴ先生の風が、フワリとベッドを浮かせ、ベッドは泥から引き揚げられた。私達はそのまま、空飛ぶベッドに乗って第一砦に戻った。
大きな泥の波を食い止めようと、マリルが砦の手前で鉄壁を出しているのが見える。
「ダメだ、鉄壁より泥の方が背が高いぞ! マリルが危ない!」
私はベッドを飛び降りると、マリルめがけて必死に走った。
「マリル!」
泥が鉄壁を超え、頭上の光を遮ると、マリルは青ざめた顔で私を振り返った。
私が彼女に手を伸ばすと、彼女も私の方へ手を伸ばす。
お互い必死だったが、結局手は届かないまま、私達は濁流に飲み込まれた。
「ターク様ぁー!」
恐怖に強張った顔で、マリルが流されていく。
私は第一砦の壁に打ち付けられ、更に流れてきた何かに押しつぶされて、口からドバッと血を吐き出した。
不死身じゃないというのは、思った以上に死と隣り合わせらしい。
「かはっ……マリル、どこだ……!」
再建したばかりの第一砦が泥にさらわれ崩れていく。砦の中にいた兵士達も泥に飲み込まれていく。
――くそ……ゼーニジリアス……! あいつ、絶対許さない!
強い怒りが胸を貫いたが、 私の身体は、また動かなくなってしまった。
泥沼に沈みながら「宮子に会いたい」と願うターク様の元に、謎のベッドに乗った宮子が現れます。
彼女を抱きしめたいのをギリギリこらえ、ゼーニジリアスを追いかけようとするターク様ですが、泥沼が濁流に代わり、ポルールに押し寄せると、彼は流されてしまいました。
次回は宮子の語りです。流されたターク様をベッドの上から探し出した宮子は……。




