08 泥沼の愛憎。~さぁ、彼女に愛のあるキスを!~
場所:ルカラ湿地帯
語り:ターク・メルローズ
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突然体の力が抜け、泥の中をしばらく引きずられた私、ターク・メルローズは、黒く渦巻くモヤの中、闇魔導師達に抱えられ、泥の上に引き上げられた。
――ぐ……最悪だ。口の中に生ごみを詰められたみたいだな。
汚染された泥を散々飲み込んだ私の身体の奥から、鼻をつく嫌な臭いが込み上げてくる。
眉をしかめながら目を開けてみると、目の前にゼーニジリアスが立っていた。
彼の周囲三メートル程は、闇のモヤが近づかず、視界が開けている。
彼の腰には精霊の秘宝が黒々と輝いていた。彼が単身空を飛べるのは、精霊の秘法の莫大な魔力を使用しているためらしい。
ミヤコ達を日本に返すため、私はあの石を手に入れなければいけない。しかし今は、全く身体に力が入らなかった。
彼の足元には、哀れな姿の精霊が一人、泥の地面に手をついて横たわっている。
黒いモヤを黙々と吐き出し、非常にやせ細ったその精霊は、かつてここにあったルカラ湖を守っていたと言われている、水の精霊アクレアだろうか。
更に、ゼーニジリアスは、その手にもう一人の精霊を繋いだ鎖を握りしめていた。光もなく、痩せこけて、とても弱々しく見える彼女だが、私はすぐに、彼女が誰だか理解できた。
「く……ゼーニジリアス……なぜシュベールをお前が……?」
「ふふふ。遺跡の周りをうろついて居たから捕まえて来たのだ」
得意げに笑いながら、鎖を引き、彼女を引き寄せるゼーニジリアス。
首に繋がれた鎖を引かれたシュベールは、苦しそうに顔を歪ませた。
「哀れだろ? あの美しかった彼女が、こんな貧相な姿になって……なぁ、不死身のタークよ。助けてやりたくはないか?」
彼が手に持ったナイフを、シュベールの頬に滑らせると、彼女の窪んだ瞳が恐怖の色に染まる。
「何のつもりだ……彼女を離せ! お前はいったい何なんだ」
私が苛立った声をあげたその時、ゼーニジリアスの足元から、ぶくぶくと泥が盛り上がって、更にもう一人の精霊が姿を現した。
「ニジル、もうやめて。シュベールは関係ないじゃない。可哀そうだわ」
ゼーニジリアスを見上げながら、そう言った彼女は、下半身が泥と一体化しているように見える。どうやら彼女は大地の精霊のようだ。
ゼーニジリアスは、急にデレっと目尻を下げると、愛おしそうに彼女を見つめて言った。
「あぁ可愛いゾルドレ。大丈夫だよ。こいつから癒しの光を取り戻せば、シュベールもアクレアも元通りさ。私はお前に世界をプレゼントしたいんだ。愛しているよゾルドレ」
「私も愛しているわ、ニジル」
ゾルドレがそう答えると、足元に居たアクレアが、ますますもくもくとモヤを吐き始めた。
「憎い! 憎い憎い! 死になさいニジル! 死になさい! ゾルドレ!」
「いいぞ! アクレア。もっとだ! もっと闇を吐き出せ!」
気が狂ったように叫ぶアクレアを、ゼーニジリアスが楽しそうに煽る。
アクレアの頬を撫でるゼーニジリアスの手から泥が溢れ出し、彼女の顔を黒く汚した。
「お前、大地の精霊と契約を交わしているのか?」
思わず質問した私に、彼は得意げに答えた。
「あぁ、それにアクレアともな。もっともアクレアは力を私に投げ出して闇に堕ちてしまったが」
「お前! なんてやつだ。それは浮気じゃないか!? 二人の精霊から同時に力を得ようだなんて、とんでもないやつだな」
女心は今ひとつ分からない私だが、美しい湖と草原だったこの場所が、泥沼になってしまった理由が、今、はっきりとわかった気がした。
口に入った生臭い泥のせいもあって、胸がムカついて堪らない。
しかし、ゼーニジリアスは、全く懲りない様子でこう言った。
「ふふふ。凄いだろ? すぐにシュベールも私のものにしてやる。まずはターク、シュベールに加護を返すんだ。彼女に愛のあるキスをしてやれ」
「何をバカな……」
「ほら、早く力を返してやらないと、シュベールが死んでしまうぞ」
ゼーニジリアスはそう言うと、シュベールの胸元にナイフを突き立てた。
「きぁあぁ……っ」
消え入るような悲鳴を上げ、苦痛に顔を歪めたシュベールの胸から、血が吹き出している。
「や、やめろ!」
「さぁ、シュベールにキスをして、力を投げ出せ」
体が動かない私の顔に、シュベールの顔が押し付けられた。
――ゼーニジリアスに指図されるのはシャクだが、私は元々その為に彼女を探していたのだ。
――ポルールを奪還した今、躊躇する理由はない。
「シュベール……感謝してるよ」
私は八年分の感謝を込め、シュベールの頬にキスをした。
「感謝だと?」
ゼーニジリアスは不満そうに眉を顰めたが、シュベールの頬にみるみる赤みが差し、彼女は金色に輝き始めた。
ボサボサだった髪は美しく艶めき、背中に眩い蝶の羽が蘇る。
それと同時に、私の身体から、長年私を癒していたあの光が消えた。
「坊や……どうしてなの? 私は貴方を呪っていたのに……」
「シュベール、僕はずっと貴女の愛に守られていた。貴女への想いは感謝だけだ」
驚いた顔で私を見つめるシュベールに、はっきりとそう答える。この気持ちには嘘も後悔もなかった。
「はははは! やったぞ! これで癒しの力も私のものだ」
どうやってシュベールに愛されるつもりなのかは分からないが、ゼーニジリアスは自信満々にそう叫んだ。
二人の精霊に愛された自信が、彼をおかしくしているのだろうか。
「ふざけるな! シュベールがお前なんかに従うものか!」
「うるさい、お前は泥の底に沈め! ありがたいだろう? 長く苦しまずに死ねるぞ」
彼はそう言うと、私の肩に剣を突き刺した。傷口は塞がらず、いつまでも血が噴き出してくる。
それを見て思わず「おぉ……」と感動の声を漏らした私を、闇魔導師達はボチャンと泥沼の上に落とした。
――なぜだ? 精霊の力を失ったのに、身体に力が入らない……これでは本当にすぐに死ねてしまいそうだ。
「ははは。見ろ! アクレアが嘆いている。闇のモヤはいくらでも増えるぞ。水の国は闇に沈み泥沼へと姿を変えるのだ」
ゼーニジリアスは楽しそうに笑いながら、シュベールとアクレアをつれて飛び去ってしまった。
取り残された私は、為すすべもなく、ゆっくりと泥に沈み始めた。
泥沼の上ではゼーニジリアスが三人の精霊相手にずいぶん勝手なことをしていました。ゼーニジリアスに言われるままシュベールにキスをしたターク様。不死身の力を失った彼は、身体に力が入らないまま、泥の沼に沈んでいきます。
次回、泥に沈みゆくターク様。彼は突然訪れた人生最後の時間に何を思うのでしょう。




