はちみついろの幸福
「リズ! あれ買っていい?」
昼食後、カゴネ湖を後にして、城塞に向かいながらリタルサイドの街を散策していると、小さな広場で、素敵な屋台を見つけた。
サマルカンドとハーケンの二人には、先触れとしてリタルサイド城塞へ向かってもらっている。
「お昼食べたじゃないですか。デザート奮発して高級なやつも」
「それはそれ、これはこれ!」
屋台で売られているのは、トーストにバターをのせて、蜂蜜をかけただけのハニートースト。
しかし、私の勘がこう告げている。
間違いなく美味しい。
だから財布の紐を緩めるのだ、と。
観光地マジックの類かもしれないが。
「まあいいですけどね。お付き合いしますよ」
「リズも食べるの?」
「ええ、まあ。レベッカはどうします?」
「屋台で買い食いなんて久しぶりだしな。私も買おうかな」
「分かった。おじさん! ハニートースト三つ下さい!」
屋台の店主――ラトゥースとは随分雰囲気が違うが、薄茶色の毛をした狼の獣人らしいひとに、勢いよく注文した。
紺色のエプロンをした店主がにっと、牙を剥き出しにして笑う。
「あいよ。三つで銅貨六枚だ。それぞれ銅貨一枚ずつで蜂蜜を倍に増量出来るが、どうするね?」
「何を迷う事がありましょうか。増量で! ……いいよね?」
「ええ、まあ。っていうかマスターが買うんですか? 私達は自分の分、出しますよ?」
首を傾げるリズに、私は首を横に振って見せた。
「可愛い女の子におごるのは女の子の夢です」
「レベッカ、聞いた事あります?」
「男目線ならあるような……」
「というわけで、トースト三つ、全部蜂蜜増量でよろしくお願いします」
「おう。待ってな」
注文を受けてから焼き上げるタイプ。薄く小さめにスライスされた、白く美しい食パンが鉄網の上で焼かれ、じわじわときつね色に染まっていく素敵さ。
――大丈夫。私は焼き上がるまでに一時間掛かる鰻を待てる伝統を持つ日本人。待てる。大丈夫。
「マスター。落ち着いて下さい」
「うん。大丈夫。待てる……大丈夫……」
ぶつぶつと呟く。
「大丈夫か?」
「ありがとうレベッカ、大丈夫だよ」
「頭とか」
心配のベクトルが違った。
銅貨を置き、トーストが焼き上がるのを待つほんの数分が、どれほど待ち遠しく感じただろう。
美しく焼き上げられたパンに、バター壷からバターがのせられ、溶けていくバターの上に蜂蜜壷から蜂蜜が、大さじのスプーンで一たらし。
さらに増量してもらったのでもう一たらし。
溢れそうな黄金の海がトーストの上に生まれる。
「一つ目、出来たぜ。ほら、お嬢ちゃん」
「あ、彼女達から先に」
「あいよ」
「ありがとうございます」
リズが受け取る。
「……待ってな。すぐだから」
私はそんなに飢えた顔をしていただろうか。
手際良く二つ目をレベッカに、そして三つ目が、私の手元に。
待っててくれていたリズが、自分の分を一口食べ、そして口を開いた。
「マスター、一口下さい」
「はい、リズ。あーん」
私は笑顔で、ハニートーストをリズに差し出した。
ほのぼのとした日常の一コマ――何も知らない視点では。
リズが一瞬じっとりとした視線を向け、しかし大人しく口を開く。
「あーん……」
そしていい感じにバターまでかじりつくと、その一口を目を閉じてじっくりと『味わう』。
「ん、美味しいですね」
「そう? 良かった。後で一口ちょうだいね」
「ええ、まあ」
改めて自分の方を食べ始めたリズ。
「仲がいいなあ、嬢ちゃん達。でもどれもおんなじだよ!」
そして、はっはっはっと笑う屋台のおじさんに、無言で曖昧な笑みを浮かべるリズ。
私も無言で、けれど満面の笑みを浮かべた。
「ま、仲がいいのは、いいこったよ。うん」
その後もうんうんと頷くおじさん。
ちなみに、毒味だ。
私は最初『毒味』という行為そのものに――部下の命を危険にさらす行為に抵抗があった。
しかしリズは、力強く断言した。
(私を一口で殺せる経口摂取の毒とか、存在しませんから)
懐かしい過去だ。
その後、自分が作って味見した物以外、毒味としての一口を要求するリズに、こう言ったのだ。
『あーん』と言いながら差し出すから、それを受け入れないなら、こちらも毒味は受け入れられないと。
当然、「意味が分かりません」と言った彼女を、有無を言わさぬ笑顔と、背後の階級と、いつでも命令出来るという圧力を盾に、平和的に押し通し今に至る。
懐かしい過去だ。
今でも目で抗議されているのが分かるが、それでも随分と慣れた様子。
私も急いで、未だ焼きたてのトーストに取りかかる事にする。
リズの可愛い歯形がついたバターを、さらに半分にするように、パンにかじりついた。
さくり、という食感と共に、もふー、と頬が満足に緩むのが分かった。
リタルサイドは最前線と言えば最前線だが、確かに事前情報通り、ここはリストレア魔王国の中でも豊かな地域だ。
なにしろ食べ物がどれも美味しい。高級ホテルやレストランは当然として、街の屋台に至るまで、だ。
「美味そうに食うねえ。こっちまで嬉しくなっちまうよ。お客さん、リタルサイドの人じゃないのかい?」
ちらりとリズに目配せする。
「ええ、王都から、用事がありまして」
リズが代わって、嘘はつかずに当たり障りのない説明をする。
「そうかい。用事の合間に、リタルサイドを楽しんでいってくれよ。美味いもんが一杯ある。このパンの小麦も、バターも、蜂蜜も、全部リタルサイドで採れたもんだしな」
「そうなんですか?」
レベッカが口を開き、補足する。
「来る時に花畑を見ただろう? 蜂蜜の供給元は主にあそこだな、果樹園や菜園の受粉も大切だが、やはり蜂蜜を目的にした養蜂が盛んな地域だから」
「え、あれ商売物?」
「むしろ何だと思ってたんだ」
「いや、こう……花壇的なものかと……」
「どんな余裕だ、それは」
確かに。
慣れたつもりだったが、まだ現代日本の感覚が色濃く残っているのだなと思わせられる。
「ところで秋にも採れるの? 蜂蜜って、春のイメージなんだけど」
「確かに春から初夏にかけてが一番で、秋は蜂蜜が多く採れる時期ではないが、それでもあの規模ならそれなりの量になるからな。単一の品種ではなく、複数の品種を常に咲かせるようにしているんだ」
「……詳しいねえ、そこのお嬢ちゃん」
「ん、ああ……。私は、ここに住んでいた事もあるから」
「なるほど」
そこで屋台の店主が私を軽く手招きする。
何事かと思って近付くと、耳打ちされた。
「そこの屋台のじゃがバターとか、どうだい?」
「なんて素敵な響き」




