空の上で
私は、空の上にいた。
前にいた世界では、飛行機に乗った事はあったが、空を飛ぶ経験はそれだけだったような気がする。
ヘリコプターで通勤するようなセレブでなかったのは間違いないし、パラセーリングやスカイダイビングをした記憶もない。
そして、地球で今の私のような体験をした人は……少なくとも、現代にはいないだろう。
今私は、グリフォンのリーフの上に乗って、空を飛んでいるのだ。
打ち合わせ通り、乗り手であるアイティースと、私、リズ、サマルカンドの四人で行動している。
次の目的地であるリストレア南端の街への移動中だが、遙か眼下のリストレアの景色が飛ぶように流れていく。
飛んでいるのだから、当然か。
薄い雲に突っ込み、すぐにそれを抜ける。
一段と冷えたような感覚があるが、厳密な寒さとしての感覚はない。
「空の上って、もっと寒いイメージだったよ」
「寒いよ。サマルカンドさんよ、あんたの"冷気耐性付与"は、私のより優秀だな。助かる」
アイティースは、カーキ色の飛行服だ。軍服とツナギの中間のようなデザインで、軍服と同じくオーダーメイドのはずなのだが、何故か胸の所がはちきれそう。
成長期なのかもしれない。
もちろんそれだけでは空の上の寒さは防ぎきれないので、サマルカンドに"冷気耐性付与"を、リーフを含めた全員に掛けてもらっている。
さらに"冷気耐性付与"では目が風で乾く問題は解決出来ないので、防風用のゴーグルを装備している。
ちなみに私は仮面でも良かったのだが、みんなとお揃いが良かったのでゴーグルがいいと希望した。
サマルカンドが、珍しく素直なアイティースに深く頷く。
「うむ。我が主の素晴らしさの一端である」
「……なんでそうなるんだ?」
「主の素晴らしさは、部下によっても示されるもの。今褒めてもらった能力は、我が主の力も同然」
「それはちょっと拡大解釈が過ぎると思うんだよねえ」
「……なんでこの頭おかしいやつの方がまともな事言うんだよ」
「アイティース。私が"病毒の王"と呼ばれたのは、頭おかしいように見えるのに、根本がまともだからなんだよ」
「……ちょっと何言ってるか分からん」
「私はね。美味しいご飯とか、着心地のいい服とか、寝心地のいい布団とか、住み慣れた家とか、可愛い女の子とか大好きだよ」
「なんか最後おかしくなかったか」
「おかしくありません」
「……まあいい。で?」
「私は、その全てを壊せって命令した。弱い部分から、人間の国で、その日その日を暮らしている人達から、その全てを奪えって命令した」
アイティースが、ばっと後ろの私を振り返る。
私は、微笑んで見せた。
アイティースが、そっと視線を前に戻して、呟いた。
「……お前の血が青いのは分かった」
「ちゃんと赤いよ? ……私達は、同じ血の色をしてるのにね」
私達は肌の色は違っても、同じ血の色をしている――地球で、平和を願う時によく使われる謳い文句だ。
血の色が同じだけなら、大体の哺乳類はそうなのだが。
鳥類も、爬虫類も、両生類も、魚類に至るまで、血は大抵赤いのだ。
人間は、違う事を理由にしたがるけれど。
私は多分、同じだからこそ、ここまでしているのだ。
私を裏切ったのは、違う世界の、違う生き物では、なかったから。
「まあそんなわけで、アイティースもうちにいる間に、私からちょっとでも、何かを学んで帰ってね」
「"第六軍"で学んだ事が、"第三軍"では生かせないような気がするんだが気のせいか?」
「微妙な所だね。それぞれの領分があるから。それは、ラトゥースも、カトラルさんも、分かってくれると思うよ」
アイティースがまた振り返り、ゴーグルの向こうの緑色の瞳を細めて、じろりと私をやぶ睨んだ。
「……お前は、ラトゥース様のなんなんだよ」
「安心して。私はアイティースが大好きなラトゥースに対して、恋愛感情は一切ないから」
「え!? はっ!?」
アイティースの顔が真っ赤になる。
それでもリーフの手綱を持つ手を、無闇に動かさないのは立派だ。
「な、何言って」
「気付かない方がどうかしてるよね」
「そんなんじゃ……ていうか、ラトゥース様の事は、獣人の女のほとんどが、隙あらば狙ってるし……憧れっていうか……」
ごにょごにょと口ごもるアイティース。
私はラトゥースの歳を正確に知らないが、今も生きているだけで十七人の子供がいると聞いて、彼は手が早い方だと思っていた。
けれどもしかしたら、彼は物凄く紳士なのかもしれない。
「まあそれはアイティースが決める事だけど。私は敵じゃないよ」
「……本当なんだな?」
「本当だよ」
「気には掛けてくれているようですけれどね。うちのマスターは、ごく普通の人間のくせに無茶をしますから」
リズの言葉に、振り向かず笑って答えた。
「そりゃあ、ごく普通の人間が人類絶滅させようっていうんだから、多少の無理はしないと」
「無理と無茶は違いますよ……」
「……ほんとに絶滅させちまいそうなのが、怖えな。お前はよ」
アイティースが、力なく笑った後、前を向く。
人類絶滅。
それはただの、妄言だ。
人という種族のしぶとさは、私が一番よく知っている。
けれど、所詮大陸一つ。
未だ他の大陸の有無は分からず――ないのかもしれない――空を飛ぶ技術はなく、海を渡る技術はなく。
逃げ場のない世界で、一つの種が滅びた例など、いくらでもある。
私の国でも、エゾオオカミやニホンオオカミは、絶滅した。
人間の手で、絶滅させられた。
オーロックスやドードー、リョコウバトなど、有名すぎるほど有名な絶滅種達に混じって私が思い出すのは、それらに肩を並べるほど有名な逸話を持つ、スティーブン島のイワサザイの事だ。
灯台守が持ち込んだ、ティブルスという名のたった一匹の猫によって、一つの種が滅びた。
……というのは、ちょっと誇張されたエピソードらしいが。
猫の名前さえ真実だったかも定かではない、約二百年前に島で起きた事を語る『伝説』の中、確かなのはたった一つ。
島の名を冠したその鳥、スティーブンイワサザイは、その島から姿を消したという事。
それは、飛べない鳥だったのだ。
猫は優秀なハンターであり、ハトやスズメなどの飛ぶ鳥さえも狩る。
現在の定説では、外敵のいない島で繁殖し、定着した猫によって島中のイワサザイが狩られたという事になっている。
かつて大陸が地続きだった時代からの名残。その島だけに生き残る飛べない鳥達を、猫達は約二年で狩り尽くした。
人間の愚かさが、そして一つの種が一つの種をごく短期間で狩り尽くす事で滅ぼしたという、未だ種の保全や外来種の危険に対する認識の甘かった時代を悔いるような教訓と共に語られる、伝説だ。
けれど、私の心に残ったのは、ある時目にした、その伝説のしめくくりだった。
その鳥が滅びたとされる年から、三十年後。
野生化した猫達は、人間の手で狩り尽くされた。
その島に、本来いなかったイエネコ、それも飼い主のいない野猫など。
まだ島に生き残る、外来種に狩られるはずでなかった種のためなら……と。
そんな結論が出る事は、分かる。分かってしまう。
けれど、その結論は。
それは、あまりにも寒々しい。
それに痛みを覚える権利など、私にはないのかもしれない。
保健所で犬猫やその他のペットが、新しい飼い主に巡り会えぬまま『処分』されていく事を、知識として知っていた私には。
今、自分に最も近しい、一つの種を滅ぼそうとしている私には。
私がこの世界で人類絶滅を果たした時、絶滅史に一つエピソードが、加えられる事だろう。
違う世界から持ち込まれた人間が、一人で同種を全て滅ぼした……と。
それは、スティーブンイワサザイの絶滅にまつわる伝説のような、誇張されたものだけど。
全て間違いと言うほどには、ひどく間違ってはいない。
私は、リーフの背中の上だからこそ見える、広大な世界を見やった。
やはりこの世界も、球形の惑星という事でいいらしい。
人間国家の方は、緩やかに湾曲した地平線が見えているが、リストレアの方は、方角によっては海が見える。
もしも、この世界の海に大海蛇がいなければ、違っただろうか?
この海が、私達を閉じ込める天然の水濠でなかったのなら。
この海が、安全で、どこまでも行ける、未知への世界へと続くものだったら。
そこでふと、コロンブスとか、ピサロとか、そういう言葉が頭をよぎる。
文化の違い、宗教の違い、不幸な行き違いで片づけるには、あまりに陰惨な歴史を、私の世界は送ってきた。
それでも私がいた世界は、一つずつ、前に進んできたのだ。
この世界もまた、私の世界と同じく、道の途上だ。
魔族が人間を滅ぼしたいと思って戦っていない事を、私は知っている。
『魔族』にとっては、これは防衛戦争だ。
種族としての生存さえ認められないというならば、戦うしかないではないか?
それでもこの国の人達は、四百年、防衛戦に徹してきた。
攻めるには国力が足りないという現実的な要素もあれど、大軍を用いない戦い方なら、出来なかったはずはない。
なにしろ、ふらりと現れた私が出来た事だ。
いつか誰かは、考えた。
それでも、それを選ばなかった。
私の考え方も、行動も、この優しい人達が住む国にとっては、病であり、毒なのだろう。
けれど、それで優しい人達が、優しいままに生きられる世界になるかもしれないと、思えるなら。
私は、"病毒の王"。
種族、人間。
目標、人類絶滅。
心の中の、覚悟を確かめ直すような呟きは、何度目かも分からない。
その寒々しさに凍えそうになった瞬間、不意に、後ろのリズが私のお腹に手を回して、軽くぎゅっとしてきた。
弾かれたように振り返ると、リズが心配そうな顔をしている。
「リズ?」
「マスターが……寒そうに見えて。違い、ました?」
「……違わない、けど」
落ちないように身体を繋ぎ止める騎乗帯があるから、密着してはいないけれど、心に陽が差したようだった。
私は、自然と微笑んでいた。
彼女の温もりが、きっと唇の強張りを溶かしたのだと思う。
「今、寒くなくなった」




