病毒の王の館
リストレア魔王国。
その王都の郊外に、一軒の館が建っている。
煉瓦塀に囲まれた館の門の横には、一枚の紋章旗が下げられている。
短剣を口にくわえた、蛇の紋章。
病毒旗。
"第六軍"の紋章。実質的に、"病毒の王"を指し示す旗だ。
誰もが、館に住まう者の事を知っている。
"病毒の王"。
魔王軍最高幹部にして、手段を選ばぬ非道をもって人類絶滅を宣言した、冷酷な大魔法使いだと。
ゆえに、その館には誰も近付かない。
近付いてはいけないと、誰もがささやく。
だから、わざわざ近付く人影があった。
人影は、三つ。皆背丈が低い。
つまり、子供だった。
獣人が一人に、ダークエルフが二人。一人のダークエルフが女の子だ。
『絶対に近付いてはいけない』ときつく言われている、"病毒の王"の館に、昼過ぎの明るい時間を狙って探検に来たのだ。
しかし、女の子の表情は浮かない。
「ねえ……やっぱりやめない?」
「うるさいなあ。そんなに嫌なら一人で帰れよ」
「まあまあ……入ったりしないよ。門から中を覗くだけだから……」
「いくぞ」
そろそろと、見るからに腕白そうな犬系の獣人の男の子が先頭に立ち、格子状になった鉄の門の隙間から中を覗く。
「……黒妖犬だ……」
全員が、ごくりと唾を呑む。
庭をうろついているのは、漆黒の体毛を持った犬。けれど子供でも――あるいは子供だからこそ――分かる、ただの犬とは明らかに違うその姿。
黒一色の毛は毎日のように撫でられ、ブラッシングでもされているかのように、ふんわりと艶めいていた。
そして魔力反応が、微かにしか存在しない。
門の隙間からの視界でも、十匹以上が見えているのに。
これなら、ただの犬の方が魔力を持っている……ように見える。
つまり、群れで囲まれても、きっと死ぬ瞬間まで気付かない。
「裏に回ってみようぜ」
「もう帰ろうよ」
「そうだよ。中は見たよ」
「裏から何見るの?」
「そりゃあ、やっぱり"病毒の王"を一目見たいだろ」
「それはそうだけど……」
そこで男の子二人は、ダークエルフの女の子の顔が、褐色肌なのに、はっきりと分かるぐらい青ざめている事に気が付いた。
「どうしたよ?」
「どうしたの?」
「二人共、誰と話してるの……?」
しん……と沈黙が落ちる。
太陽の光に照らされて地面に伸びる影は、四つ。
一つだけ、背が高い。
「あ、あの……僕達……」
がたがたと震えながら、ダークエルフの男の子が、精一杯の勇気を振り絞って口を開いた。
「"病毒の王"の顔を、見たいと言ったな……?」
地獄の底から響くような、重低音の声に、なけなしの勇気が潰えた。
さっき聞こえた、優しそうな女の人の声は、人を安心させるための囮だったのだ、と、子供達は幼心に理解する。
「"病毒の王"を見て、それと分かるのか?」
「お、おれた、あの、ぶ、ぶ、ブロマ……ド、とか、み、見て」
歯の根が合わず、がちがちと牙を鳴らしながら、それでも獣人の男の子は、質問に答えなければ殺されるという確信に従って、必死に答える。
それはほとんど言葉の体を成していなかったが、『ブロマイドを見ているから分かる』と言いたかったのだろう。
「ほう……」
心の底から、面白がっているような、声。
そして、それきり沈黙する。
爆発的に膨れあがる恐怖に耐えかねて、三人は一斉に振り向いた。
「それは、こんな顔だったかい……?」
三人は、同時に仲良く悲鳴を上げた。
目深にかぶった深緑のローブの陰から覗くのは、オレンジ色に怪しく揺らめいて、怪しい光を放つ単眼だった。
滅茶苦茶にわめきながら、三人は脱兎のごとく逃げだし――身体が追いつかず、転んで、それでも必死に立ち上がり、走って。
「ま、待って……」
女の子は、転んだまま、立ち上がれないでいた。
ザリ……と、地面の砂と靴裏が擦れる音がする。
「悪ふざけが過ぎたようだな……」
がたがたと震えながら、顔を上げずに地面を見つめ続けるだけの事に、女の子の短い人生で一番の努力が必要だった。
「リズ」
「はい、"病毒の王"様」
重々しい重低音の後に、柔らかい女性の声が、聞こえた。
「落ち着かせてやってくれ。怪我をしていたら、治療も頼む。レベッカは軽い怪我なら治せたな?」
「はい、分かりました。館に招いても?」
「万事、任せる」
そして一つ分の足音が、遠ざかり、門が開けられる音がする。
可動部にしっかりと注油されているのか、拍子抜けするほど、普通の音だ。
「お前達。分かってると思うが、リズと一緒にいるのは客人だ。襲うなよ」
そろそろと視線を上げると、深緑色のローブをまとった後ろ姿が見えた。
尻尾を振って寄ってくる黒妖犬の首筋を順番に撫でながら引き連れ、遠ざかっていく。
現実とは思えない光景に呆けていると、声をかけられた。
「さ。立てますか?」
落ち着かせるような優しい声色にそちらを向くと、メイド服を着て、銀髪をショートカットにしたダークエルフの女性が、手を差し伸べていた。
「は、はい」
「痛かったら、言って下さいね」
すっと膝を中心に、手が素早く身体を撫でる。
「っ……」
「軽い打ち身と、擦り傷ですね」
ひょい、と抱え上げられる。
「あ、あのっ!」
「大丈夫ですよ。治療をするだけです」
「で、でも、ここは――」
"病毒の王"の、館。
両親や近所の大人が、冗談かと思うぐらいに何度も何度も、絶対に近付いてはいけないと口を酸っぱくして言い聞かせる場所だ。
「大丈夫ですよ。……その、"病毒の王"様は、非道の悪鬼として名高いですが」
びくりと震える。
「あの方は、リストレア魔王国が誇る魔王軍最高幹部。この国の、守り手です」
微笑む彼女の顔は、確信に満ちていて。
幼心に、一度は死よりも恐ろしい何かを覚悟した女の子に、この人がそう言うのならば、きっとそれが真実なのだろうと思わせるだけの力があった。




