明白な異常
私は、家――与えられた屋敷――に、帰ってきていた。
しかし、『家に帰ってきた』感が薄い。
理由は明白だ。
「リズ。抱きしめていい?」
「もちろんですよ、マスター」
リズが、にっこりと微笑んで、両手を迎え入れるように広げて――あまつさえ、彼女の方から抱きしめてくれる。
何の罠かと怯えながら、それでもリズを抱きしめる機会を逃す事は出来ず、しばらく抱きしめて――抱きしめられて――いた。
恐ろしい事に、全身に伝わってくるのは、優しく、壊れ物を扱うような力加減だ。
それも、力を入れていないのではなく、心地よい限界を見極めて力を入れて、ぎゅっとしてくれている。
「レベッカ。ちょっと眼鏡掛けた姿を一時間ぐらい眺めてもいいかな」
「……なんだ? 随分とお気に入りだな。しかし一時間か」
顎に手を当てるレベッカ。
既にこの時点でおかしい。罵倒されてないのがおかしい。
「読書しながらでも、いいか? それとも、お茶の時間にでも?」
「……お茶にしようか。リズも呼んで」
「ああ」
眼鏡を掛けたレベッカと、途中で眼鏡を借りたリズとを眺める、素敵なお茶の時間だった。
「ハーケン。何か面白い小話を頼む」
「ふむ。先日死霊軍時代の同僚の骸骨にこう言われたのだ。『ヘイ、ハーケン! お前の新しい勤め先が評判になってるぜ。血も涙もないヤツにしか務まらないってよ!』とな。ゆえに我はこう答えた。『ハハハ、ジョージ、俺達はスケルトンだぜ? 血も涙もないなんて当然じゃないか!』とな」
「「ははは!」」
つい合わせて笑ってしまったが、何故エセアメリカン風。
口調おかしいし、そもそもジョージが実在かどうかも怪しい。
しかし、最近ハーケンが外出した事もあるし、最近リストレア内においては改善されつつあるとはいえ、"第六軍"の評判は彼の言った通り。
やった事のない無茶振りをしてみて、ノータイムで披露された小話にしては、妙に真実味がある。
もしかして、友人相手だとそんなふざけた口調だったりするんだろうか。
「サマルカンド。限定二十名様のアップルパイが食べたくなった。明日、朝一番で並んで買ってきてくれ」
「喜んで」
「……近所の主婦に大人気だそうだぞ。デーモンは目立つと思うが、本当に大丈夫か。後、確実に手に入れようと思うと、多分早朝というより深夜になるが」
詳しい事を聞く前に即答した彼が、あまりに心配になってしまった。
一度小耳に挟んで食べたいと思ったのだが、リズにせよサマルカンドにせよ、さすがにその手間を掛けさせるのは悪いと思って、一度はやめた案件だ。
当のサマルカンドは、何故か頬を緩める。
「我が主。どうぞ能力の限界までご命令下さい。いえ、能力の限界を超えてなお、我が尊きお方のご命令ならば、歓喜と共に果たしてみせましょう」
「……うん、アップルパイだけでいい」
サマルカンドだけは、いつも通りだった。
皆の様子が、おかしい。
具体的に言うと、とても優しい。
仏様や聖女のような微笑みを浮かべて、それとなく体調に気遣い、欲しいものはないか、やりたい事はないかと聞いてくる。
理由を聞くと、黙ったまま微笑んで誤魔化して、答えようとはしない。
さらに、日々のたわむれにおいて、明らかに許されるラインが変わった。
――明らかに異常だ。
ていうか怖い。
なので私は、サマルカンドを部屋に呼んだ。
「サマルカンド。呼ばれた理由は、分かるか?」
「いいえ、我が主」
片膝を突いてひざまずいたサマルカンドが、首を横に振る。
「――契約は健在。間違いないな?」
「はい、我が主」
サマルカンドが、首を縦に振る。
「一切の虚偽を許容しない。私の質問に明確に答えろ」
「はい、我が主」
「お前以外の皆の様子――特にリズとレベッカがおかしい。知っているか」
「……私以外の……ですか?」
「ああ。お前はいつも通りだが、ハーケンも何かおかしいな。しかし、リズとレベッカは……」
私は、ため息をついて首を軽く横に振った。
最近の二人の態度を一言で表すならば、デレ期だ。
嬉しい。可愛い。そして――怖い。
なにしろ、心当たりらしい心当たりが、ないのだ。
なのに、美少女じゃなかったら――あるいは美少女だからこそ――心が折れそうな、ばっさりいく毒舌を、最近聞いていない。
何の前触れもなく、唐突にあの二人が私に対する態度を変えたのは、何か理由がある。
そしてそれを聞くのにサマルカンドを選んだのには、二つの理由がある。
一つは、サマルカンドの態度がいつもと変わらない事。
一つは、彼と私の間には"血の契約"が存在している事。
彼だけは、偽物、演技、虚偽、そういった可能性が存在しない。
「まず、聞くぞ。これは擬態扇動班の『訓練』ではないな?」
「はい。擬態扇動班の、我が主周辺での活動はございません」
神聖王国の作戦に参加した者は休暇中のはずだし、それ以外も穴埋めローテーション中のはずだ。
訓練という名目で、私を騙くらかして遊んでいる暇はないだろう。
しかし、一番穏当な可能性が消えた。
「精神魔法を使用された兆候はあるか?」
「ございません」
「お前も行動は変わらないが、何か隠しているな。私が感じている違和感について、お前が知っている事を答えろ、サマルカンド」
「はい、我が主」
サマルカンドが頷いた。
「我ら四人は、我が主を甘やかすべきであるという結論に達しました」
時間が止まった。
「……んん?」
彼が言い直さないのを確認したところで、ようやく遅れて変な声が漏れる。
虚偽はない――だと?
何を言っているんだこの黒山羊さんは。
いや待て。彼は悪魔だ。
話す言葉の重さが一々おかしく、日頃のコミュニケーション自体は問題ないが、私の言葉を全肯定して、私を崇拝するという不思議な感性の持ち主だ。
「……すまない、サマルカンド。お前の種族の……独特の言葉か?」
「いいえ我が主。字句の通りでございます」
「言い換えは、可能か?」
「困難です。しかし強いて補足するならば、我ら四人は、主の信頼と、これまでの行動に敬意を表し、我が主を甘やかすと決めました」
「……そうか」
何を言っているのか、よく分からない。
いや、違う。
分かりたく、ないんだ。
「お前達の忠誠……いや、気持ちを、ありがたく思う」
「はっ」
「下が……いや。すまない。少しだけ」
命令を下そうとして、私はそれを取りやめた。
彼は――彼だけは、私の味方になるだろう。
"血の契約"を盾にすれば、サマルカンドは私の言う事を聞く。
他の全ての要素を、無視して。
「一人にしてくれ……」




