四人だけの話
一人にしないで。
その言葉を最後に、彼女――"病毒の王"の身体から力が抜けた。
リズが、自分の膝の上に頭を預け、頬に涙の跡を残して、いとけない子供のような顔で寝息を立てる彼女の頭を、ゆっくりと撫でた。
「……一人になんて、しませんよ」
届かないと知りつつ、優しく声をかける。
「……部屋に、寝かせてきますね」
レベッカが頷いた。
「ああ。リズ、一緒にいてやれ。私達は、この場の後片付けをしておく」
「うむ。酔っておらぬ者としては当然であるな。……だが、その前に、我らが主殿のお言葉について、我ら四人には、考えるべき事があるのではないか」
「ハーケン殿。それはどういった意味か?」
ハーケンの発言に、サマルカンドだけでなく、リズとレベッカも彼に注目する。
「我らが主は、重責を担っておられる。誰も親しき者のおらぬ世界で、『非道の悪鬼』『人類の怨敵』とまで呼ばれながら」
「……ええ。ですが、今は私達が……」
リズの言葉に、ハーケンが目――の鬼火――を細めた。
「『親しき者』であると?」
「……ええ。そのつもりでいます」
ハーケンが、顎骨を一つ打ち合わせて、わらった。
「リズ殿においては、それが仕事であらせられるな」
「ハーケン! 私は!」
「リズ!」
声を荒げたリズを、レベッカが鋭く名前を呼んで落ち着かせる。
「ん……」
リズの膝の上で、話題の当事者が身じろぎした。
「……マスターが起きる」
「誤解めされるな。リズ殿のお気持ちを疑うわけではない。……仕事と割り切れるものでは、あるまい。共に重責を担い、死線をも共にされたのだから」
ハーケンが口調を柔らかい物に変えて続けた。
「だが、それでも先程我らが主君はこう仰られたのだ。『リズ殿の言う事を聞く』『ちゃんと"病毒の王"をする』『人類を滅ぼしてみせる』」
そこでハーケンは一度言葉を切って、皆を見渡した。
「――『だから』と」
全員が、リズの膝の上で、未だこの世全ての悪を知らぬような顔で眠る――魔族の基準では幼いとさえ言える――女性を見た。
「ああ、我らは部下だな。この方より給料を頂き、契約において忠誠を捧げておるな。それゆえに、我らは裏切らぬ。……この方が裏切らぬ限り」
「奥歯に物の挟まったような物言いですね、ハーケン。マスターが……"病毒の王"様が、裏切る可能性があると?」
「そのような事は言っておらぬ。だが、この方は、全てを失われたのだ」
「すべて……」
リズの声が、震えた。
「この方はよくお笑いになる。……無理に明るく振る舞っている時すらあるのではないかと、思うほどに」
「それは……」
リズがうつむいた。
薄々と感じていた事だ。
ふざけるような言動の裏に、ふと、何をしても埋まらないのではないかと思うほどの深く暗い穴が垣間見える。
だからこそ、時折たわむれに応え、主が本当に満ち足りた顔を見せる時……少しでもその穴を埋める手助けが出来たような気になる。
それでもまだ、「一人にしないで」と言わせるほどに、その穴は深いのだと思い知らされた。
「名前も、家族も、生活の基盤も。――幸せの記憶さえ、残骸と成り果てた。せめて真っ白になっておればと……我は思ったよ。骨の身になった時にな」
「……私も、そうだな。記憶はあっても……『生前』の全てが……ない」
レベッカが、頷いた。
「私にとっては、それはもう四百年も前の事だ。私はこの国で望まれた役割を果たし……今の立場を、得た」
「マスターもです!」
「ああ。だが、主殿はそれゆえに苦しんでおられるのではないか。自らで勝ち取った『"第六軍"魔王軍最高幹部"病毒の王"』という立場しか、持たぬと」
サマルカンドが、ハーケンを睨む。
「それ以上のものが、必要か? 我らが主の立場は、今日の戦いを経て、最早盤石と言って過言ではない。"第二軍"のブリングジット様も、"第三軍"のラトゥース様も、何かあれば間違いなく味方になろう。"第一軍"のリタル様とも信頼関係を築かれたと聞くし、"第四軍"のエルドリッチ様も、レベッカ様やハーケン殿を派遣されたのは信頼の証であるはず。"第五軍"の"旧きもの"様も、陛下への忠誠は疑いようがない。陛下の信頼厚いこの方を害しようなどとは、思わぬであろう」
「うむ」
「ならば、リストレアある限り、"病毒の王"様の立場は揺らがぬ」
「その立場こそが、この方を苦しめておるのではないか」
「……立場こそ……が? ハーケン殿。何を?」
「主は存在さえしなかった、六人目の魔王軍最高幹部という立場を勝ち取られた。――ゆえに、それにしか、この世界の自分の価値がないと思っておられるのでは、ないか?」
彼は、言葉を続けた。
「我らは、本当にこの方が"病毒の王"でなかったとして、ここにいるだろうか?」
沈黙が落ちた。
「それを言うのは……卑怯では、ないですか? そういう出会いしか……私達は、出来なかった。過去は変えられないし……私は、この方が"病毒の王"を名乗られる前も知っております。それはもう、前提と呼べるものでしょう」
「確かに"病毒の王"暗殺を命じられなければ、私はこの方と出会わなかったかもしれぬ。だが……私は、この方の言葉に、深く心を打たれた。ゆえに命さえ賭して、この方に仕えると決めたのだ」
「ああ。ハーケン。我らがここに来たのは、配属上の事情だ。だが……それだけで、ここにいるつもりは――ない」
リズ、サマルカンド、レベッカの言葉に、ハーケンが頷いた。
「うむ。そうであろうな。……この方は面白きお方よ。我らのような面々に、心底仕えたいと思わせるほどにな」
「……では、何が問題だというのですか?」
リズの問いに、ハーケンは重々しく頷いた。
「問題は、それが主にはっきりと伝わっておらぬという事よ」
その言葉を受けて、三人がばっと視線を"病毒の王"に向けた。
「……そのような事はないと信じておるが……仮に陛下の命令であっても、この方を殺せと言われれば、我らは最後まで抗うであろう。納得出来ぬとあれば、剣を抜く事も辞さぬであろう」
反逆とも取れる言葉を、淡々と口にするハーケン。
「この方は、自分の立場の価値をよく理解しておられる。……理解しすぎている、と言えるやもしれぬな」
愛しいものを語る口調で、ハーケンは続けた。
「我らは、この方に言われたのだぞ。一人にしないで、と」
「ええ……それは我らの……いえ、私の、無力の証明です」
耳を下げて、うつむくリズ。
「それは違う、リズ」
レベッカの言葉に、リズがそろそろと顔を上げた。
「うむ、リズ殿。そなたと共にいる主を眺めるのが、我らの喜びとも言えような。無力などで、あるものか」
「そうでしょうか……?」
「うむ。この方は、一人になる事を恐れておられるやもしれぬ。そして持たぬ者はそんな事を恐れぬ」
ハーケンは頷いた。
「……そして、我らと共にある事を、この方は疲労と酔いに薄れる意識の中で、望まれたのだ。同じ種族の人間や、向こうの世界に置いてきた大切な者達よりも、だ」
皆が、はっとした表情になる。
「ゆえに我らは、行動で自らの価値を示したこの方の信頼に、行動で応えるべきであると、確信する」
全員が、顔を見合わせて頷いた。
「ハーケン。……何か考えが、あるのですね?」
「うむ。だが、これは困難を伴うやもしれぬ……」
「構いません」
「ああ」
「主のための困難を厭う者が、我らの中にいるだろうか?」
皆の視線を受けて、ハーケンは顎の骨を一つ打ち鳴らして、宣言した。
「この方を、我らの全力で甘やかすのだ」




