"雪崩"
私は、城壁の上にいた。
曇天の空、降りしきる雪の中、"病毒の王"の正装で佇んでいる。
「エトランタル神聖王国より、『聖女様』と『天使様』をリストレア魔王国にお迎え出来るとは、光栄だ。歓迎の準備は整っている」
仮面の音声変換機能と、拡声魔法はきちんと声を届けてくれた。
「私は、"病毒の王"。魔王軍の最高幹部として、魔王陛下より、神聖王国よりおいでになった皆様方の歓迎役を仰せつかった。――ああ、不法入国を責めるつもりなど、ないとも」
地獄の底から響くような重低音。
"病毒の王"として、作られた声だ。
「だが……どうした事だろうな? お二方の姿が、ないようだが」
私の言葉に、皆が一斉に二人がいた場所へと視線を向けた。
視線の先には、純白の鎧だけが、持ち主が唐突に消え失せたような形で、残されていた。
天使の姿など、無論ない。
誰も一言も発しない、肌の粟立つような恐怖に満ちた静寂の中、二羽の白い鳩が、降りしきる雪の中を飛び、私の差し出した手と、肩に舞い降りる。
「案内役、ご苦労」
そして労をねぎらった。
「聖女様と、天使様をどこにやった!?」
恐怖に満ちた――演技をした――声。
うちの擬態扇動班の声は、よく通る。
ざわめきが広がり、恐怖が増幅していくのが分かる。
「――これは驚きだ」
そこかしこに潜んだ忠実なドッペルゲンガー達が、完璧に仕事を果たしている。
到着を知らせるための歓声を始め、ここまでの発言は全て、ドッペルゲンガーのものだ。
「どうやら聖典も暗記していない、浅い信仰のようだな」
だから私も、仕事を果たすべく、毒をたっぷりと舌に塗って眼下に展開する大軍を嘲笑った。
「神は、裁きの日まで姿をお見せにならぬと、はっきり書かれていると言うのに」
最近のマイブームは宗教談義で、愛読書は聖典です、と言えるほどに読み込んでいる。
擬態扇動班の皆と一緒に、だ。
「御使いたる天使ならば別だと? 神のお言葉を村娘が預かるならばよいと? ――『与えられた土地』を自らの力で切り開き、産み増やし、信仰を広げる事だけが、お前達の神がお前達に期待している事なのだろう?」
歴史上、天使が姿を見せた事は幾度となくある。
――神聖王国以外の歴史には、天使など一言も記されていないという、客観的な事実を付け加える必要はあるだろうが。
それが弱い人の心が作り出した妄想だったのか、幻影魔法だったのか、『天使が姿を見せた』と歴史書に記す事が大事だったのかは、分からない。
ただ少なくとも、天使や、まして神が、リストレアに剣を向けた事はない。
「何故信じたのだ? ――何故、そんな都合のいいものを信じたのだ? 今まで神は一度として人間に手をお貸しにならず、『信仰を試されて』いたというのに」
エトランタル神聖王国の、根幹たる聖典と信仰。
聖典は、悪い事は言っていない。
魔族の存在を認めない教義さえなければ、信仰したいほどだ。
信徒同士の争いを禁じ、窃盗を禁じ、姦淫を禁じる。
神を信じ、徳を積んだ者は死後に天国へ。
神を信じず、唾を吐いた者は死後に地獄へ。
「何故、今になって、そんなにも都合良く神の助けが来ると信じたのだ?」
全くもって為政者に都合のいい宗教だ。
何か天災が起きたり、悪政やらかして悲惨な事にもなっても、敬虔な信徒にのみ使用を許される必殺決まり文句『神の試練』があるという安心感。
この聖典を書いたやつは、全くもって神様など信じていなかったに違いない。
「私は、"病毒の王"。――自分達が信じているものさえ、本当に理解していなかった愚かな子羊達に、病と毒の王が慈悲深き死を与えよう」
レベッカの言葉が、耳の奥に蘇る。
ああ……兵が哀れだ。
だから、せめてこれ以上は苦しませず、全ての苦痛を終わらせてやろうという気持ちになった。
私が直接殺した人間は、片手の指で足りる。
そして今日、十万に迫る。
「天国に最も近いこの白き山で、永遠の眠りにつくがいい」
敵軍が、抜剣し、深い雪の中を怒号を上げて急な傾斜を駆け上ってくる。
先陣を切るのは、磨き抜かれて白く輝く、美しい鎧の騎士団だ。
あれが、"福音騎士団"なのだろう。
白い鎧の騎士とは、なにかと縁がある。
私は杖を掲げた。
そして、"攻撃魔法"を詠唱する。
「"雪崩"」
杖の青い宝石が、強く輝く。
ズズン……という、不気味な振動が、足下を伝った。
さらに、ズズン、ズン、ズズズン……と、ほとんど時を同じくして、同じ振動が何度も繰り返される。
揺れが大きくなり、ふらついた私は、杖を突いて体勢を保った。
ふらついたのは、そのせいだけではなく、さっきの『詠唱』でごっそり魔力を持って行かれたというのも大きい。
ここは、リタル山脈の山頂。
それほど標高が高い所ではないとはいえ、万年雪の積もる、雪崩の巣。
眼下の軍勢が、大雪崩に飲まれた。
白い波が、神聖な全てを侵していく。
正義が、秩序が、白い濁流に飲み込まれていく。
雪崩は、信仰の有無を区別しない。
十万に近い軍が、雪の下に埋まった。
だが、十万の軍を一瞬で瓦解させる攻撃魔法など、存在しない。
これは、ただのトラップだ。
各所に計算して仕込まれた爆発系の罠を、詠唱をキーに同時起動。
爆発の衝撃と振動、それに熱で限界まで積もった雪を刺激し、雪崩を起こす。
魔力充填済みのトラップとはいえ、直接起動には少々魔力が必要とされる。そしてまとまった量となれば、それなりの量だ。
イメージ戦略的にも、戦場での魔法戦に全くもって向いていない私が魔力タンクになるのが最適。
少し、こちらに来たばかりの頃を思い出すので、リズに心配されたが。
八羽の鳩が今も地響きと共に滑り落ちていく雪崩の上を滑るように飛ぶ。
「お疲れさま。合流して、下がっていてくれ」
肩と手に止まっていた二羽も空に舞い上がる。途中で聖女役を交代していなければ、どっちかがクラリオンのはずだ。
眼下を見た。
「……全く、しぶといな」
ざっと百にも満たない数だが、確かに動く人影があった。




