雪の中の露天風呂
「マスター……その……」
タオルで慎ましい身体を隠しながら、ぺたぺたと近寄ってきたレベッカ。
珍しく歯切れの悪い彼女の姿に、ぴんときた。
「ねえ、レベッカ。命令してもいーい?」
「……命令による」
「背中流させて」
レベッカが虚を突かれたように目をぱちくりさせ、そして微笑んだ。
「……命令では仕方ないな」
なんだろう、この可愛い生き物。
思わず抱きしめたくなったが、お互い全裸だと洒落にならなさそうなので、ぐっと我慢する。
代わりに聞いた。
「背中以外も洗う?」
「いや、それはいい」
上司にノーと言える部下だ。
洗い場の椅子に腰掛けたレベッカの背中を改めて見ると、細い。
っていうか小さい。
「レベッカ、ちゃんと食べてる?」
「……なあ。それはもしかして、発育に関する質問じゃないだろうな? 私が不死生物だとか、忘れてないだろうな?」
「ごめん、つい」
レベッカがたまに私を人間だと意識しないのと同じように、つい、普通の女の子扱いしてしまう。
そして『つい』、滑らかで白い背中を、つうーっと指で一撫でしてしまう。
「ひゃっ!?」
いつもと違う可愛い声が聞けて満足だ。
しかし、その代償は大きく、身を縮こまらせて警戒感をあらわにした彼女に、涙目で睨み付けられた。
レベッカが、いつもよりなお、せっかくの可愛い声帯を生かさない方向に傾けた、低い声で『忠告』する。
「次やったら……分かるな?」
人差し指を一本伸ばし、その先にぽうっ……と青緑の鬼火が灯る。
「うん、ごめん。つい出来心で」
こうなるのが分かっていたのに、やらずにはいられなかった。
真面目に、石けんを手とタオルで泡立てて、ふんわりさせると、彼女の薄い背中を丁寧に洗う。
肉付きは、リズの方が好みかも。
しかしやっぱり、妹を思い出す。
記憶は、所々、怪しい。
元々人間の記憶とはそんなものかもしれないが、私の場合は、この世界に来る際に、色んな記憶が『壊れた』。
それでも、それを愛しいと思った事だけは、覚えている。
「ねえレベッカ」
「なんだ?」
「お姉ちゃんの妹になる気ない?」
「拒否する」
「そっか……」
振られた。
次の機会を待とう。
「――寒っ……」
内湯と露天風呂を隔てる木製の扉を開けると、ぶるっと身体が震えた。
板壁で仕切られた男湯から、サマルカンドとハーケンと思われる、笑い声が聞こえた。貸し切りだし、顎骨を打ち鳴らす音が聞こえるという事は、まず間違いないだろう。
二人はもう露天風呂に浸かっているらしい。
……何話してるんだろう? と思いつつ、話し声までは聞こえそうになかったし、何より寒さでそれどころではない。
小走りで、精一杯の優しさである、すのこが敷かれていてもなお寒いゾーンを抜けると、足先でちょいと温度を確かめ、全身を白い濁り湯に滑り込ませた。
「――っ……はあ~……」
ぴりぴりくる温度に身をよじらせたのは少しの間で、すぐにお湯の温かさが全身に染み渡る。
今は雪は降っていないが、温泉の熱気が届かない隅の方は、踏み荒らされていない真っ白な雪が分厚く積もっている。
その対比がまた、冬の露天風呂の醍醐味だと思うわけだ。
同じように温泉に入ったリズとレベッカが、肩の力を抜く。
「……実は私、温泉って初めてなんですよね……」
「え、そうだったの?」
リズもレベッカほどではないがベテランなので、当然温泉経験はあるものだと思い込んでいた。
「私もリストレアの温泉は初めてだから、お揃いだね」
「マスターの故郷の温泉と比べて……どうですか?」
「遜色ないよ。それぞれの良さがあって比べるのも難しいけど……温度も少し熱めで気持ちいいし……あ、でも。一つだけ悲しい事が」
「……なんですか?」
リズの顔を、ふっと不安げな色がかすめる。
「お湯の色が濃くて二人の身体が見えない」
「全くもって悲しくなかったです」
「さっき見ただろ」
正論だった。
「後は月見酒とかあってねえ」
「……月を見ながらお酒を飲むんですよね?」
「うん。それの温泉入りながらっていうのも、私の故郷では定番」
「死にたいんですか?」
「……リズ。そこまで言う?」
「いや……意外かもしれませんが、特に一般のダークエルフと獣人の死因は、事故死が多いんですよ。水場とか……」
「なるほど」
長く生きるという事は、当たり前を積み重ねていくという事。
当たり前の動作に、いつもの毎日に、事故の芽は潜んでいる。
「特にそのー、獣人は……たまに酔っ払ってお風呂に入って溺死とか……外に出て凍死とか……」
「……なるほど」
「まあ、入浴に使う"粘体生物生成"を攻撃手段にまでしたのは、うちのマスターだけですけどね」
「むしろ誰もした事なかったのが意外」
「『日常生活用魔法』というのは、実戦で使うには弱すぎるか、そのためにわざと弱く調整された魔法の総称だからな。"粘体生物生成"は前者だ」
レベッカの言葉に頷く。
確かに、戦闘中にアレを生成して、一体何になるのだという話だ。
「あんなでも、生命生成魔法の奥義なんだけどな」
「え、奥義?」
「召喚系に分類される事もあるが……あれは『生命の創造』だ。魔法とは魔力の組み替えだが、短時間で消滅するとはいえ、生命と呼べるものを生み出すに至ったという点で、あらゆる魔法使いが今まで果たした全ての頂点に位置する偉業だぞ」
そこでレベッカが目をそらす。
「……まあ、あれより複雑な生き物を、今に至るまで誰も生成出来ていないから……もう、まともに研究されていない分野なんだけどな」
切ない。
レベッカの横顔に、ふっと妹のものが重なる。
その瞬間、脳裏に記憶が蘇った。
「……髪伸ばしてた理由……思い出した……」
「え? ――ああ、そういえば、マスター色々と面倒くさがりな割に、ロングヘアですよね」
「うん……これ、ね。妹が言ってくれたんだ……」
サイドに垂らしている髪を軽く手に握り込む。
「『お姉ちゃんは、髪長い方が可愛いよ』って……」
忘れていた。
前髪をたまに切りそろえる以外、放置していたらセミロングになった頃に、そう言われて。
面倒な事も多かったけれど、長く伸ばした髪を妹が気に入って、褒めてくれるのが、私も、嬉しくて。
そんな、大切な事を、忘れていた。
そしてもう、この記憶に意味はない。
私の長い髪を褒めてくれる人は、この世界にいないのだから。
「……思い切って、切っちゃおうかな」
「長い方が、マスターらしいですよ」
「ああ。長い方がいいんじゃないか」
「……そう?」
微笑んだ。
「じゃあ……このままで、いようかな」
もう少し。
もう少しだけ、このままで。
私がいつか、要らなくなるまで。
私がいつか、許されなくなるまで。
もう少しだけ。




