城壁の上のウサギたち
はるか遠い地平線――人間国家の領土へと落ちていく夕日を、私は一人、城壁の上から眺めていた。
「すまない。遅くなった」
「ううん」
返事をしながら声をかけられた方を見ると、ブリジットが、急な石造りの階段を登ってきていた。
訓練の時と同じ軍服姿で、腰に剣帯で、長剣と短剣を吊っている。
「ひさし……ぶり、だね」
「……ああ」
どうしても、お互いにぎごちなくなる。
事務的な会話は、何度もかわした。
お互いに魔王軍最高幹部として、話さなければならない事はあり、そしてブリジットが胸の底に何を秘めていようと、彼女は私情を優先させるような真似はしない。
「まず、合同訓練の参加に、改めて感謝する。暗黒騎士団のみならず、リタルサイド駐留軍の皆に、随分気合いが入った」
「どういたしまして」
微笑んだ。
「……あんな手紙で、よく来てくれたな」
「これでも最高幹部だからね。……いや」
首を軽く振った。
「友達……でしょ」
ブリジットの顔から、表情が消えた。
……いや、違う。
消えたんじゃない。痛みを見せないために、隠したんだ。
もう、違うのかな。
私とブリジットは――もう、お互いの立場を気にせずに話せた頃とは……違うのかな。
「……私を、まだ友人と呼んでくれるか?」
「もちろん。……ブリジットは……違うの?」
ブリジットの瞳が揺れた。
唾を飲み込み、少し視線をそらし……また、私に向き直った。
躊躇いを見せながらも覚悟を決めたのか、口を開く。
「……私は……ずっと、お前に言えなかった事がある」
「なあに?」
「ガナルカン砦での、事だ」
――ガナルカン砦。
私とブリジットが、初めて出会った場所。
私は、城壁の上にいた。
「私は、お前に気付いた。城壁の上で、防御魔法の担当を突き落として……取り押さえられたお前に」
彼女は、私に気付いてくれた。助けてくれた。
だから、私は生きているのだ。
「何が起きているかは、よく分からなかった。おそらくは……反乱の一種だろうと、思った」
「間違いではないね」
私はかつて、貴重な魔法使いの魔力を肩代わりさせるための生贄、魔力タンクとしてこの世界の人間に召喚されて、城壁の上にいた。
本来、不死生物や黒妖犬以外の、特殊な魔力吸収能力を持つ種族以外は、他者の魔力を自分の物に出来ない。
ただ、精神魔法で隷属させれば、蛇口を捻って水を出すように、魔力を奪い取る事は出来る。
蛇口と違うのは、閉める方法はない、という事だろうか。
私は精神魔法に抵抗し、理不尽に抵抗した。
私がこの世界の人間国家側の勢力だった事はないので、反乱とは少し違うが……まあ、結果を見れば似たようなものだ。
「……お前が、二組を突き落として、一組に取り押さえられるのを見て、私は……好機だと、思った。思って、しまった」
「……ブリジット?」
ブリジットの顔が、くしゃりと歪む。
手を額に当てて、それでも彼女は義務感に突き動かされるように喋り続けた。
「私は、命令した。――命令したんだ。あそこに攻撃魔法を叩き込めと。あそこを突破口にしろと」
彼女の目尻に、涙が滲んでいた。
「分かっていた。あそこにまだ、人がいるって。敵じゃないひとが……いるって。でも、私は、最高幹部だから。騎士団長だから。だから私は、命令したんだ」
泣きそうな顔で、彼女はそれでも、告白をやめなかった。
「城壁の上の人間を、みんな殺せって、命令した……!」
そこで、ブリジットは痛みに耐えかねたように、目をぎゅっとつぶって、顔を背けた。
「私は、お前と、もしかしたらお前と同じ世界の人間を、みんな殺せって命令したんだ……」
目を閉じたまま、うつむいて喋る彼女の、名を呼んだ。
「ブリジット」
――彼女が、たまに見せた悲しそうな表情。
私が、彼女のしてくれた事にお礼を言う度に。
私がそれを言うのは当然なのに、どうしてだか、彼女の表情は少しだけ曇った。
これが、その理由。
「私は、お前の恩人なんかじゃない」
「命の恩人だよ」
私には命の恩人が沢山いる。
そして彼女は間違いなくその一人で……この世界で、一番最初に私の全てを助けてくれた。
「それからだって、私は団長としての体裁にこだわって、お前の待遇を悪くした。……お前は、こんな私の事、友人だって、言ってくれたのに」
「それは、私が望んだんだよ。私が、自分で言ったんだよ」
私が、彼女との時間を失った事に傷付いたように。
彼女も、私との時間を失った事に傷付いたのか。
「お前の優しさに甘えただけだ。責めてくれて、構わない。憎んで、罵ってくれて……」
彼女の中には、確かに私がいたのだ。
ただの人間の。
暗黒騎士団長という立場からすれば、何の価値もなかった、私が。
彼女は私の事を、一人の人間として、見てくれたのだ。
罪悪感で、自分を責めるほどに。
ただの人間の私に、優しくしてくれた彼女が得るべきは、自責の念による痛みなどではない。
そうであっていいはずがない。
「ブリジット!」
彼女の名前を強く呼んで、私は彼女をぎゅっと抱きしめた。
長い耳に口を寄せて、ささやく。
「私、生きてるよ。生きてるんだ。ブリジットが助けてくれたから、生きてるんだよ。あのままだったら、絶対に死んでた。その後だって、ブリジットが書いてくれた手紙がなければ、陛下に会える可能性なんてなかった。リズに会う事もなかった。"病毒の王"になる事も、なかった」
「でも……お前、"病毒の王"に、なったんだぞ……」
ブリジットの声は、震えている。
体も小刻みに震えていて、私の体に彼女の感情が伝わってくる。
「お前、当たり前の人間じゃないか。人殺しなんてしたくないって、言ったじゃないか。なのに私は……私達は、お前にまた、甘えた。人間に、同じ人間を殺させる命令を下させたんだ。その上、囮にされたんだろう? そのための地位と……名前なんだろう? ……何度もお前、死ぬところで。そんな危険な役割を、最高幹部の地位をエサにして、押しつけて……」
「馬鹿にしないで、ブリジット」
私は少しだけ怒りを込めて、彼女の肩を掴んで引き離すと、彼女の瞳をまっすぐ見た。
「私は、自分で決めたんだ。私は、望んで"病毒の王"になったんだよ」
私は、非道の悪鬼と呼ばれ、人類の怨敵と呼ばれた。
その称号に、何の嘘もない。
私の命令で作られたのはこの世の地獄。
けれど、それをこの国の誰かに強いられた事など、一度もない。
また、彼女を抱きしめた。
彼女が、私の肩に顔を押し当てる。
お互いに、お互いの痛みを分かち合うように、私達はお互いの背中に回した手に力を込めた。
「嬉しかったんだよ。本当に、嬉しかったんだ。どんな理由だって知らない。罪悪感からだっていい。でも、あれが全部嘘だったって、そう言うの? 覚えてるよ。熱に浮かされた私が初めて見たのが、ブリジットだった。起こしてくれた手つきが優しかったのも、毛布を肩まで掛けてくれたのも、覚えてるよ。様子見にきてくれる度に、顔を見るのが、嬉しかったよ」
私も、目尻に涙が滲んで、彼女の肩に顔を押し当てた。
「ブリジットって呼んでいいって言ってくれたのも。私の事を友人だって言ってくれたのも。家畜小屋に行った後も適当にせずに、色々手配してくれたのも。全部、全部嬉しかった。あの時くれた毛布の暖かさだって、まだ覚えてる……」
あのぬくもりが、なければ。
彼女がいなければ、私は死んでいた。
彼女がいなければ、"病毒の王"は生まれなかった。
「私にとっては、あの毛布一枚が、人類全部より、重かったんだ」
私は、計算が下手だ。
私の心の天秤は、自分の大切なものを、本当に重く扱ってしまう。
「……ただの、毛布だ」
ブリジットが、力なく呟いた。
「私にとっては、違ったの」
お互いにどちらからともなく、身を離した。
そして二人して、城壁の石積みに腕を載せて、遠い地平線に沈む夕日を眺める。
「お前がお願いがあるって言った時の事、覚えてるか」
「覚えてるよ。何でも用意するって言ってくれたよね」
「……物で済む話なら、って思ったんだよ。だから、お前が名前を縮めて呼んでいいかって聞いた時……そんな事を思った自分が、恥ずかしくなった」
「私は、嬉しかったよ。ブリジットって呼んでいいって、言ってくれたの」
「……友人になれば……もしかしたら、なかった事に出来るかもしれないって……思ったんだ。せめて傷付けた分……優しくできれば……って……」
「優しくしてくれたのも、嬉しかったよ。……それと、私が傷付いたのは、私をこの世界に召喚した人間達のせいだからね? そこの所は間違えないように」
彼女が攻撃魔法を叩き込めと命令しなければ、取り押さえられていた私は、間違いなく殺されていただろう。
「王城で剣を突きつけたの、覚えてるか」
「うん。しばらくここの髪が短くなった」
両サイドに垂らしている横髪の、右側に触れる。
「……あの時は、今ここで殺すべきかもしれないと、本当に思ったんだ。お前が、利用されてるって、思ってたから」
「まあ、それは否定しないけど……私、大人しく利用されてるタイプに見える?」
「今は見えない。でも、あの時はそう思ってたんだよ。……だってほら、信じられるか?」
ブリジットが、わざとらしく非難がましい口調と視線を向ける。
「自分で一筆書いたとはいえ、他に後ろ盾も何もないただの人間が、あの短期間で『非道の悪鬼にして人類の怨敵』こと"病毒の王"って呼ばれるようになったんだぞ?」
「うん、信じられないね」
詐欺にしても、もっと上手くやれってレベル。
「あまつさえ、"第六軍"が設立され、リストレア史上初の六人目の魔王軍最高幹部だ。絶対にこれは騙されて都合のいい囮に仕立て上げられてるって」
「全くそうでないとは言わないけど、作戦行動の基本プランは大体私の発案だし、部下も現地活動班は全員直属だよ」
囮の一種なのは、事実だ。
目立つのが仕事。憎まれるのが仕事。
でも、私の仕事は、それだけじゃない。
権限があって、部下がいて、予算があって――つまり特殊な小規模所帯とはいえ、私は間違いなく、リストレア魔王国の一翼を担う魔王軍最高幹部なのだ。
メイドさん付きの屋敷と、最高幹部のお給料も、ちゃんと貰っている。
お互いに顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。
「……ごめんね。何の相談も、しなくて」
「いや……いい。成り行きというやつだろう。私の方こそ、言えていなかった事、あったな」
ブリジットが城壁から身を離し、微笑んで右手を差し出した。
私も右手を差し出すと、ぎゅっと握手された。
「最高幹部就任、おめでとう。――心から歓迎する。リストレア魔王国を守る一員として。……友人として」
私も、精一杯の気持ちを込めて、握手を返した。
私達は、ようやく対等になれた気がした。
私達は、ようやくお互いがお互いを、胸を張って友人と呼べる気がした。




