第十七話 「魔導人形」
「”アイラ、その男を殺せ!!”」
その瞬間、私の意思を無視して右手が動き始めた。咄嗟に左手で抑える。でも、止まらない。それに段々と左手の力が抜けているのがわかる。自由が失われる。両腕の魔法陣が明滅する。空間魔法の魔法式、あのおぞましい空間魔法だ。
数日前の記憶が…心臓を鷲掴みにするあの音が聞こえてくる。ぐしゃり。少し水っぽい、本当にシンプルな音だった。今さっきまで生きていた二人の命が、感慨もなく、赤いカーペトのように薄く引き伸ばされていた。生前の面影一つ無く、それが自然のあるべき姿かのように…。
「あ…」
震える腕がユーリへと差し伸ばされる。正に今、ユーリを殺さんとする自分の腕。でも、どうしようもない。私はマスターの言いなり。命令されてしまったならば、仕方がない。だってそういう人形なのだから。逆らうことなんてできない。強制命令を出された時点で終わり。そう、それでもマスターならいいかなって、何時の間にか納得していた。
視界にユーリの顔が映る。見たことがないくらい余裕のない顔だった。ついさっきまで私にあんな恥ずかしいプロポーズをしてたのに。笑っちゃう。必死になって「今助ける!」って…。
閃光が闇を駆ける。ユーリとマスターの魂魔法、そのせめぎ合いの証だ。お互いの魔法が拮抗している。もうダメだ。何度も体験したからわかる。既に私の魔法は止められない。ユーリはマスターの魔法で手一杯だ。きっと助からない。あの時と同じように、彼をこの手で殺してしまう。
「いや…っ」
ユーリは、自分を…こんな歪な私を必要だと言ってくれた。私を…好きだと言ってくれた。素直に喜べるわけじゃない。見た目が少女になったからって、やっぱり同性にしか思えない。でも、それでも、こんな自分を、人間じゃなくなっても、まっすぐ見てくれる人がいることを、私は知らなかった。
「いやだっ!いやっ!」
「アイラ!?くそっ、もう止めるんだミレーナ!」
私は床に倒れ込んだ。上体を使って腕を押さえつける。受け身も取れず、重い痛みが脳へ伝わる。それでも、魔導人形の腕は動き出す。これだけじゃ足りない。何としてでも開こうとする右腕、その親指に満身を込めて噛み付いた。
「強制命令に逆らっているだと…アイラ!?何故だ!何故逆らう!」
そうだ。確かに私はマスターの命令に逆らってこなかった。幾度も命令される内に、自然と従うことが日常になっていた。でも、ユーリだけは殺せない。彼だけは、何があっても殺したくなかった!自分はどうなったっていい!
このままだと、私は多分死ぬ。この体に脳があるかはわからないけれど、現実との繋がりを失う感覚、魂と肉体の乖離を直感した。元の世界に未練がないわけじゃない。元の体に戻りたくないって言ったら嘘になる。それでも、流され惰性に生きてきた自分よりも、ユーリを殺したくなかった。助けたかった!
出口を失った魔力が全身を駆け巡る。両腕の魔法式がはちきれんばかりに輝き始めた。焼けるように腕が痛い。腕の痙攣が止まらない。心臓がはちきれそうだった。
「ミレーナ!彼女を止めるんだ!魔力暴走を起こすぞ!」
「何故だアイラ!私よりもその男が大事だというのか。私よりも…っ!!」
何秒か、何分か、時間の感覚もわからない。痛みに耐えるうちに、視力を失っていた。真っ青だ。私の魔力の色…。最初はあんな状況でも喜んだ魔法だったのに。覚悟も実感もない力なんていらなかった。魔法なんて子供が手にした実銃と同じだった。はしゃいで、後悔して、身を滅ぼす。
この世界に来て良かったと思えることもある。一ヶ月も経っていないけれど、これまでの人生以上に色々あった。恐ろしいほど美しい森、様々な動植物、超巨大な虫もいたっけ。街行く人々、気さくなお爺さんお婆さん。それに、あんなたくさんの魔女と出会った日本人は私だけかもしれない。
マスターとも色々あった。今考えても、やっぱりよくわからない人だった。狂人だったのかもしれない。
でも、今なら少し分かる。きっとこの人は孤独だった。孤独に慣れると、人は自分が孤独であることを忘れる。きっとミレーナは母親が亡くなってから、全てを敵視して生きてきたんだ。そして、私を作った。彼女に飼い慣らされるように、私はミレーナに依存し始めたと考えたけれど、それは彼女もそうだったに違いない。だから、改めて孤独になった今、こんなにも必死に取り返そうとしているんだろう。
恨みも、憎しみもある。でもどこかかわいそうな人だった。不仲な家族、亡くなった母親、距離感のある祖母…。手渡された棒菓子…おいしかったな。根は悪い人なんかじゃない。もっと違う出会い方をしたかったな。
そして、ユーリ。貴方に会えて良かった。魔導人形としてじゃない。日本に住んでいた男でもない。今ここにいる一人の人間として、彼は私を認めて、求めてくれた。自分は人間、そんなことを、私は認識していなかった。
魔導人形になってしまったから、もう人間じゃない。人形らしく過ごさなきゃなんて脅迫感に囚われてしまっていた。それに、元の姿でいた頃、人間でいることがあまりにもあたりまえ過ぎたから、そんなこと考えもしなかった。だから人間じゃなくなった時に、人間であることがわからなくなったのかもしれない。
マスターに逆らうことになる。でも、ユーリだけは絶対に殺せない。例え死を迎えるにしても、それだけは嫌だ!
体に力が入らない。瞼を開くことすら億劫だ。でも、これが最後だから。言わなきゃいけない。噛んでいた親指を放す。魔術式はもう滅茶苦茶だ。魔法という形で放たれることはない。全身を襲う痙攣はあっても、腕が勝手に動くことはなかった。
「ユー…リ…ありが、とう」
声に出せたかはわからない。監視なんて進んでやる人だから、読心術のひとつくらい持っているかもしれない。今まで何回も助けられた。宿の件、野盗との戦闘、裏路地での騒動。そして、数分前の告白。彼がいなかったら、私は生きてすらいなかったかもしれない。だから、お礼を言いたかった。
最後の言葉が、ありがとうで良かった。
「アイラぁあああああああああっ!!」
ふと体が軽くなった。溜まりに溜まった魔力が、空気に溶けるように失われていく。同時に、五感がわずかに回復した。誰かが目の前に立っている。
「…れだ!?」
「双方武……下ろ…な!」
マスターが見えない何かに押しつぶされるように倒れた。誰か、ユーリとマスター以外に誰かいる。
「年寄りを急がせるんじゃないよ全く…」
聞き覚えのある声だ。それも、数時間前に。
「どうして御祖母様が…」
間違いない。魔女協会で会った時とは違い、疲労に足を震わせてはいるが、そこにいたのは、マスターの御祖母様マドリー・グレッヘンだった。
「詳しい話は後だよミレーナ。お前さんがここで何をしようとしていたかはわかっている。おどき」
「例え御祖母様でも、それだけは!」
マスターが立ち上がり、マドリーの前に飛び出した時、マドリーが軽く手をかざした。それだけで、マスターの体が吹き飛び、重力などないかのように壁へ激突し、それきりうんともすんとも言わなかった。私のそれとは違う、加減された魔法だ。
「マドリー様!アイラを!」
「わかっているよ。今さっき魔力を胡散させたからね。しばらくすれば体も元に戻る」
ユーリが叫ぶ。それをマドリーは宥めるように語りかけた。
「良かった…」
私を見つめるユーリの視線があまりにも優しくて、柔らかくて、ドキリとした。心臓がまた痛くなる。何だか知らないうちに命が助かってしまって、力が蒸発するように抜けていたのに、また少し萎縮してしまう。
「はぁ、今回は私も冷や冷やしたさ。間に合ってよかったよ。これも孫から逃げたツケかねぇ」
「マドリー様…」
「無理すんじゃないよ。まだ安静にしてな」
孫から逃げた…いったいどういう意味だろう。そもそも何故マドリーはマスターを今まで助けてこなかったのかわからない。
「どうして…」
「うん?どうして助けにこれたのかって話かい?」
マドリーは私の言葉の意味を別に捉えたらしい。でも、確かにそれも気になる。そもそもどうやって異変に気づき、この場所が把握できたんだろう。
「お前さんに渡したものがあったろう。済まなかったが、あれは小さな魔力を発するものでね。場所や周囲の様子を追跡させてもらったよ」
「マドリー様…それって…つまり…」
震える声で、ユーリは尋ねた。
「ああ、あんまり野暮なことは言いたかないが…若いってのはいいねぇ」
う、お…おぎゃあああああああ!恥ずかしすぎる!言われる側だったけれど!それでも言いようのない羞恥心がある!何時の間にか隣に立つユーリも、私から視線を逸らして羞恥に震えていた。その姿を見て、頭のなかをグルグルと回る何かが加速した。それは、マドリーが「いい加減におし」と声をかけてくれるまで、延々と続いたのだった。
「元々、今日ミレーナと話をしようと思っていてねぇ。あの様子じゃあ街から逃げ出すかもと思っての対策だったけれど、こんな形で役に立つとは思わなかったよ」
「マドリー様…まだ魔女協会の仕事があったのでは?」
ユーリはまだ顔を逸らしている。ラブレターが発覚した気分なのかもしれない。あれだけ自信満々に好きと言っていたのに、それはそれでどうなのと思わないでもないけれど。
「ひっひ、街のど真ん中で魔法をバカスカ打つ馬鹿がいたのは直ぐに協会もわかったからね。難癖つけて抜けだしたんだよ」
正しく童話の魔女らしく、しわがれた甲高い声でマドリーは笑った。魔女協会での印象とはかなり違う。気さくで優しそうな人だ。こんな人がマスターを見捨てたというのは正直理解できない。
「お前さんもよく頑張った。魔法式形成の回路が完全にイカれちまってるねぇ。強い精神力がなけりゃ従属命令に逆らうなんてのは素人には中々出来ない」
マドリーが私の胸元に手を当てる。すると、血の巡りが良くなるかのように、体のダルさが解消された。マスターやその母親と同様、魔導人形の道に秀でた家系なのかもしれない。
「マドリー様、アイラの身の保証は…」
「その前に言いかえ?」
マドリーは「いたた」と腰を叩きながら、私の顔をのぞき込んだ。苦労を重ねた、シワだらけの顔だ。
「アイラ、あんたは元人間だね?」
「…はい」
刹那の気の迷いはあったけれど、素直に答えた。マドリーは視線は疑惑というより、確信に近いものだった。黙ったところで何も変わらないし、今はマドリーとの関係を悪くしたくなかった。
「はぁ、わかってはいたんだけどね。実孫がこんなことに手を染めたなんてのはお婆として辛いもんだ…」
マドリーとマスターの関係が見えない。マドリーの様子からは、孫を愛しているのか、それとも体裁を気にしているだけなのか判断がつかなかった。
「それにしても済まなかったねユーリ。孫がとんでもない迷惑をかけてしまったよ」
「自分で首を突っ込んだんです。覚悟の上でしたよ」
ユーリはきっぱりとそう言った。さっきまでの狼狽は無く、マドリーを正面から見つめる。笑顔ばっかりが印象だったユーリの真剣な姿に、釘付けになった。こんな男らしい顔も出来るんだ…。
「さて、それじゃあ詳しい話をしたいところだが…正直魔女協会の総意はミレーナの投獄だ。この子は確かにたくさんの罪を犯したが…それでも孫が鉄檻の中で泣き叫ぶ様なんてのは御免だよ」
嘘を言っているようじゃなかった。魔女協会での立場や、バライソでの様々な状況がこの家族をバラバラにしてしまったんだろう。私はもう、マドリーを疑うのを止めた。
「アイラ、あんたはどうだい。恐らくミレーナを憎いと思っているだろうさ。けれど、今回は見逃して欲しい。身内贔屓かも知れないがこの子はこの子で色々あったんだよ」
「私は………」
私にとってのマスター…ミレーナ・グレッヘン。何度その問を自問自答したかわからない。一言で言えるものじゃない。私はマドリーに答えることが出来なかった。
「結論から言わせれば、あんたの元の体は戻らない。だから私が出来る限り支援する。せめてもの罪滅ぼしさ。身分も私が保証する。あんたがどんな人間かどうかはユーリから聞いているからね。アイラさえ良ければ、グレッヘンの名を唱えてもらって構わない」
「そんな、私は…」
元の体が戻らないことは、何となくわかっていた。この世界の魔法はそんなに便利じゃない。四系統魔法以外は特に無いし、発火も水を生む事もできない。だからそれはいい。でも、勝手に罪滅ぼしだなんて一方的すぎる。贖罪だなんて望んじゃいない。人の意見すら聞かずに…。何時の間にか、私が人間だと考えている自分自身に驚いた。
「少なくとも、強制命令の類は絶対に外してやるから安心おし。積もる話はあるだろうが明日にしておくれ、時間がないんだ」
マドリーはそれだけ言うと、ガラスの砕け散った窓からマスターを抱えて飛び去った。力魔法の応用かもしれない。腰の弱そうなおばあちゃんが人を抱えて跳ぶ姿は中々にシュールだった。その光景に、少し心が安らいだ。
「アイラ、もう寝た方がいいよ。疲れたでしょ。俺もクタクタだよ…」
「でも、お金も払わずに…」
「俺がそうして欲しいんだ。あの言葉は…嘘じゃないから」
残された私達は宿の部屋を変え、私もそこに泊まることになった。お互い疲れきった私達は、部屋に入るなり直ぐに横になった。マスターの今後は気になるけど、それは明日マドリーと会ってからにしよう。今はもう難しいことを考えられないくらい疲れていた。
それでもベッドに入ってからも、ユーリのあの告白も相まって、あれだけ疲れていたのに眠ろうとしても緊張して眠れなかった。ユーリを極力見ないように壁を見る。後ろにユーリがいることを意識すると、どうにもダメだった。マスターとの時はむしろそんなことなかったのに。
「あのさ、よければ何だけど…」
ベッドに入ってから暫く経って、ユーリが独り言のように呟いた。ユーリも寝むれなかったみたいだ。お互い同じ気持ちなのかもしれない。
「明日の建国祭、知り合いのパティシエが凱旋広場でスイーツを振る舞うんだ。他にも色んな国から招待された腕自慢の職人が来る。一緒に行かない?」
矢継ぎ早にユーリは言った。スイーツなんて突然どうしたんだろうと、約十秒近くかかってそれがデートの誘いだと気づいて、どうしようもなく赤面してしまった。
私からしてみれば、男と男のデートみたいだ。だいたい元男だと言っているのにスイーツはどうなんだろう。オーバンさんにデートの誘い方でも教えてもらったほうが良かったんじゃないだろうか。
だけど、自分と真剣に向き合い、命をかけてまで行動してくれたユーリのために何かできることが嬉しくて、蝋燭の小さな灯に火照らされながら、私は掠れ消えそうなほど小さな声で「はい」と答えた。
生涯で一番恥ずかしい瞬間だった。
老婆に担がれるミレーナの今後や如何に




