6 展覧会
セカンド・インパクト事件、あるいはサイダーの一件以降、絵を描いている諸富を見にいくことはなかった。見れば、自分の絵の小ささに、いたたまれない気分になるのは嫌というほどわかったからだ。塾の夏期講習の合間を縫って、どうにかこうにか自分の絵を仕上げるので手一杯だったという事情もある。
高校生展の県中部ブロックの展示は、九月の第三週に行われた。
会場となった隣の市の市民ホールまでは顧問の屋島先生が車を出して絵を運んでくれた。部員は電車で現地に向い、人海戦術で展示を行った。
空間を仕切る有孔ボードのパーティションが広いホールに無数に立てられ、そこに無数の絵が掛けられている。
簡単な額装を施され、他の絵とならんだ自分の絵は、どこか、取り繕ったすまし顔に見えた。
それでも、完成まで描ききったという意味では、なんとはない満足感があった。オレ自身の美術部の活動を思い出す絵としては、やはり、ふさわしい感じがした。
世間的な評価とは別の感覚である。客観的に見ればそんなに面白くない絵で、屋島先生も、微苦笑で受け取ったものだった。
先ほど、主催者側の審査があって、県展への出品用に選出された作品には、絵のタイトルと作者を表示したプレートの左肩に、赤いバラの造花がつけられていた。もちろん、オレのプレートには、何もついていなかった。
誰の絵が選ばれたかを確認して、盛り上がる部員たちをよそに、オレは、諸富の絵を探した。
あの猫は、あの日、サイダーを飲みながら眺めたときの迫力はそのままに、少しだけ洗練されて、こちらをじっと見返していた。
『猫 諸富薫』と書かれた白いプレートの肩には、何もついていない。そのことに、ひどく落胆する気持ちと、一方で、奇妙で後ろめたい安堵を覚えながら、オレはほかの部員の元に戻ろうと、そこを離れた。
もう一度だけ、ホールにかかった状態の自分の絵を見ようと回り道して、パーティションで作られた角を曲がった時だった。
自分の絵の前に立つ人影が目に飛び込んできて、オレは反射的に足を止めた。
諸富だった。
彼女は、食い入るように、キャンバスを見ていた。
彼女の意識は、全力で絵に向けられていた。なんだか、泣きそうな顔に見えた。
ああ、この子は、絵と対話している。
そんな、普段の自分だったら鼻で笑ってしまいそうな詩的な表現が、ふと脳裏に浮かんだ。
あの日、たった一人、北校舎の廊下で絵を描いていた時の諸富と、同じ表情だった。
彼女の手が、ふわっと持ち上げられた。画面に触れる寸前で、彼女ははっとしたように指をひっこめ、その手を胸の前でこぶしに握りしめた。
釣り込まれるように絵に触れようとして、触れてはいけない、と我に返ったような仕草だった。当然である。油絵に素手で触れるのは、絵をやっている人間なら誰でもわかる、とんでもないマナー違反だ。
それでも、彼女が触れようとした指先のそのしなりがあまりに美しくて、オレは、腹を立てるのも忘れて、その光景に見入っていた。
◇
声も掛けられず、その場をそっと離れた翌日の明け方、オレは夢にうなされた。
夢の中で、オレの正面に立っているのは、諸富だった。
あの色素のちょっと薄い、大きな瞳で、じっとオレを見つめている。
泣きそうにうるんだまなざし、ほんのわずかに開いた、赤い唇。
差し伸べられた指先。
その指先がオレに触れた瞬間、何かがはじけた感触がして、飛び起きた。
白々と明けかかった朝の光が、カーテンの隙間から、うっすらと室内を照らし出している。
まとわりつく衣服が、じっとりと重い。
ひどい罪悪感にさいなまれつつ、オレはのろのろとベッドから這い出して、着替えた。
脱ぎ捨てた衣類とシーツを抱えて、急に洗濯をかって出る言い訳をどうしようかと些末なことに頭を悩ませていたけれど、そんな意識は、頭のほんの一部分でしかなかった。
胸のあたりに、夢の中でオレに触れた諸富の指先の感触が生々しく残っていた。
オレはそんな妄念を払うように手に持った汚れ物を洗濯機に放り込み、ついでに手当たり次第に脱衣籠の中から今日洗濯される予定だった衣類を追加してから、洗剤を少し多めに放り込んで洗濯機のふたを乱暴に閉めた。
ごぼごぼと洗濯機に水が吐き出される音を聞きながら、冷たい水で顔を洗った。激しい動悸は何とかおさまったけれど、重苦しい罪悪感は腹の底に沈んだまま、洗い流すことができなかった。
あの指先の感触と同じくらい生々しい意味で、オレは、諸富が好きなんだ、と気がついてしまったのだ。
それは、天使みたいに、この世のドロドロしたものから一センチくらい浮かんで生きているような諸富に向けるのには、およそ、ふさわしくない感情のような気がした。















