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バッドニュース


「構え! 遮光ゴーグルを、忘れるな!」



 ギュイイイイイン──機械の唸り声がだだっ広い転送室に全方位から響き渡る。それを繍うように、女性の低い声が駆けた。「はい!」という迅速且つ威勢の良い返答。ほぼ同時に軽量な機械の部品が擦れ合う音、衣擦れの音が重なる。不揃いだが、およそ二十名強の戦闘服の姿がそこにあった。


 彼らに指示を飛ばした女──オルガナの姿は銀色に光る地上にはない。転送室の半二階にせり出しているような場所に居た。黒いブーツを履いた長い脚を窓枠に掛けて半身を乗り出し、スコープの付いた狙撃銃(SR-25)を構えている──実際、これが彼女の本職であり最も得意とする所である。

 また、今は前線ではなく後部に回って戦況を見極め無ければならないという事情があった。


 彼女の背後にあるモニターでは、廊下を駆ける人々や、揃いの緑色の服を着た男女が一点を見つめて作業をしている。


 モニターのある部屋にいるのはほんの数名。管制室と呼ばれるそこには数名のオペレーターと転送装置に関する技術者が残っているのみであった。皆、緊張の面持ちである。もしもこれが()()()()()ならば、血で血を洗う事になるだろう。


 遂に、彼らの目の前に閃光が迸った。

 張り詰めていた緊張が更にピンと張る。それはさも、今にも切れそうなピアノ線のような鋭利な危機感。


 オルガナの眉がピクッと揺れた。引金に掛けていた指先をスッと話す。



「臨戦、解除! 武器を、下ろせ」



 彼女の視線は見慣れた制服を捉えていた。臙脂色のブレザーや同色の襟がついたセーラー服。赤いジャージも所々に混ざる。



「流石、だ」



 フッと笑みを零したオルガナは構えていた銃口を下げる。オルガナの指示はなかったが、下にいる人々はゴーグルを投げ捨てて走り出した。彼女も態々それを咎めようとはしない。


 光が消えた先にはたくさんの人影があった。双方から歓声が上がる。向こう側からも数名が駆け寄ってくる。

 オルガナは身体を管制室へと引っ込めた。



「怪我人おるから、誰か担架!」



 下では、若い女が叫ぶように呼びかけた。お互いの無事を喜びあっていた数組もそれを振り返る。

 声を上げた黒髪の女は赤い髪の青年に肩を貸している。さらに、その傍らには茶髪の女性が男の太い腕に抱かれ瞼を閉じていた。彼らの行動は素早い。必要な数の担架が奥の器具庫から運ばれて来る。


 意識を失ったままの夕妃が佐和山の元を離れて担架に寝かされた。更に、少し残念そうに渋る達哉も足を気にしながら乗せられる。怪我をしていたのは校舎裏で落ち合ったグループ以外にもいて、誰それの区別なく手当のため運び出されようとしていた。



「待て!」



 然し、それを遮った女が一人。先程の笑みはどこかへ置いて来たらしい。一同の視線が集まる。


 一部からはざわめきが生まれた。その容姿に驚いたのか、または彼女から発せられる威圧的なオーラを直感的に感じたのか──何れにせよ初めてオルガナを目にした外部の人間からすれば奇妙な女が現れたことに変わりはない。



「こんなに、多くの、外部の、人間を……」


「そんなこと言ってる場合じゃなかったんすよ、オルガナさん。現れた鬼は一体じゃなかった。彼等を見殺しにしろって言うんすか」


「そんな事は、分かって、いる!」



 内部の人間──特にオルガナと行動を共にすることの多い達哉達。この反応は、ある程度予想出来ていた。彩善を連れ帰った時も一番にメルデスへ突っかかったのは何を隠そう彼女だ。彼の反論を遮ったオルガナが銀色の髪を舞わせながら、つかつかと歩み寄ってくる。


 彼女を知らない外から来た生徒達がどよめいた。その服には誰のものかもわからない赤黒いシミまで付けているのだから。


 達哉だけではない。千鶴も生唾を飲む。「こいつらを追い返せ」そういう事も十分に想定できる。



「……此方の、受け入れが、間に、合わない。緊急性の、高い、人間のみ、移動、させろ」



 絞り出すようなオルガナの言葉。眉間には深いシワがよっていた。



「え、ええんですか?」


「堅物を、見るような、目で、こっちを、見るな。望月」



 彼等を見下ろすように立ちはだかったオルガナだったが、その口からは思っていたモノとは異なる発言が飛び出した。反射的に聞き返してしまった千鶴が睨まれる。

 はぁ、と嘆息したオルガナ。「ただし」と付け加える。



「それ以外の、部外者は、此処に、残り、此方の、判断を、待て」



 オルガナの強硬な姿勢にさらなるざわめきが起こる。半分動揺、半分反感……といった所だろうか。見慣れない場所、見るからに常人とは思えない女。さらに、よくよく見れば銃などを手にして武装した人々。先程の温かいムードもすっかり冷めてしまったらしい。



「あの……」


「誰だ、お前は」



 控えめに手を挙げた女が一人。豊満な胸を持つ妖艶な女性。オルガナの斜め後ろにしゃがみこんでいた。



「養護教諭の江口愛子と言います。その、アナタ達が異能力者なのも分かりましたし、助けて頂いたことも分かっています。間違っていたら謝りますからひとつ教えて下さい。アナタ達は、()()()()()()()ですか」



 人を寄せ付けないオーラを纏うオルガナ。彼女の顔を真っ直ぐに見つめた江口の視線は揺るがない。傍らの佐和山もまた、額に汗を浮かべて凝視する。


 ──ミュートロギア。その単語に多くの生徒や教員が息を飲んだ。勿論知らぬ者はいないだろう。国内外問わずその公式な見解は『反社会勢力』であり、誰もが忌み嫌う存在なのだから。今までクラスメイトや恩師だと思っていた相手が()()ミュートロギア。

 内部の人間もまた、息を殺した。



「そうだ。我々は、ミュートロギアだ」



 オルガナの肯定に、広い転送室が完全に静まり返った。生徒達の間に強烈な気まずい雰囲気が漂う。

 不機嫌そうに口を結んでいたオルガナ。ミュートロギアの面々は彼女の言動を恐る恐る見つめていた。自らが起点となってしまっているであろう険悪な空気感に、気の短い彼女はあからさまな不快感を露わにする。



「此処が、嫌ならば、去れば、良い。ただし、記憶は、消させて、貰う。その方が、我々と、しても……」


「感謝します。私達異能力を持たない人間はアナタ達のことを散々に言ってきた。でもそれは誤解だった。いや、私達教育現場は少なからず違和感があったのにも関わらずそういう教育をしてきてしまった」



 スッと立ち上がった江口がオルガナと正対する。ヒールを履いている彼女はオルガナとちょうど同じくらいの身長である。オルガナの言葉を遮り、皆に聞こえる声でそう呟く。そして、手を差し出した。少し汚れた白くて細い手。



「アナタ達の言う通りにします。アナタ達にも相当の事情があるでしょうから。生徒達には我々がしっかり言い聞かせます」



 オルガナという女を知らないからなのか、それとも彼女自身の基質なのか。何れにせよ、江口という養護教諭の立ち振る舞いは凛として、大人びていた。



「え、江口先生! しかし!」



 教頭が乱れた白髪頭もそのままに、口を挟んだ。続けようとした言葉を察した江口が首を横に振る。



「教頭先生、アナタも少なからずお思いになったでしょう、我々が子供たちに今まで言ってきたことが如何に異常だったか。現に今も、()()()()()()()()()()そう仰るんでしょう?」



 差し出された右手をちらりと見たオルガナ。



「私は、異能、だ。軽々しく、手など、差し出すとは。我々が、これ迄に、したと、された事には、真実も……」


「でも、今のアナタ達は?」



 江口教諭はぐるりとあたりを見回した。生徒は、あの中庭で見たよりも減っている。数名と目が合った。中には、不思議な力や手にした武器で自分の背中を守ってくれた子供の顔もある。皆、どこか怯えた顔をしている。胸が痛む。

 年配の教師達は、教頭と同じように虫の居所が悪いのか目を逸らし、俯く。


 そして、彼女は視線をオルガナへと戻した。相変わらずの仏頂面が対面した。



「私の勘ですが、アナタは悪い人には見えない。そして、他の方々も、勿論、生徒達も。それにほら、栁くんや望月さんの視線もアナタを頼っている。子供(せいと)の目は嘘をつきませんよ」



 ニコリと笑ってみせた江口。なかなか手を出さないオルガナの右手を強引に握ってみせた。未だにオルガナは怪訝そうに眉を寄せていたが、振り払うことはしなかった。



「それはそうと、早くけが人を運び出さないと。夕妃先生は特に酷そうです。外傷は少ないですが、かなり脈が弱まっています」


「あ、ああ」



 戸惑うオルガナを置き去りに、江口は担架に乗せられた一人一人の状態に対する所見を伝えていく。

 いつの間にか、先程までの緊張感は薄れてきていた。オルガナ自身、こんなにも調子を狂わされたのは久しい、いや、ほとんど無いかもしれない感覚だった。テキパキと怪我を見て回る江口と名乗る女がどうも不思議な生物に思えてならなかった。ミュートロギアという殺伐とした空気に慣れきっていた彼女には少なくともそう見えた。



「オルガナさん、設備はどれくらい使えます? はよ運び出しましょう」



 オルガナの背中に千鶴が訊ねる。ハッとしたオルガナがここまでの放心を取り繕うように返答した。その声は少しばかり穏やかだ。本人は恐らく無自覚だが。



「集中治療室は、使えない。それに、看護師も、確認を、せねば、ならないが、全員は、割けない。夕妃と、向こうの、ジャージ、二人を、処置室に、運び、残りは、もう少し、待てと、伝えろ」


「集中治療室が使えへんて、誰か倒れたんですか?」



 言ってからしまったと思ったオルガナだったが、今更遅い。「知らなくていい」とだけ伝えて踵を返す。襟につけたインカムのマイクをONにすると、耳元からオペレーターの落ち着いた声がかえってくる。



「応急処置室へ、動ける、医者、看護師、その他、手当が、出来る、者を、全て、集めろ」


【承知致しました】


「それと、グレンに、ありったけの、料理……そうだな、ざっくり、百人分程、作るように、言ってくれ」



 いつも通りの返答を待ってオルガナは通信を切る。そして深呼吸をして自分を落ち着かせた。戦闘における強襲部への指示と、このような状況に対する指示はやはり何かが違う。やはり、自分はあまりこういうことに向いていない、と再確認する。


 そして、少し冷静さを取り戻したオルガナは彼女にとって最も重要な事を思い出した。



「望月!」



 突然声を荒らげたオルガナに肩を震わせる千鶴。今度は何だと周りの視線が少し冷たいが、オルガナはしきりに何かを探す素振りをする。



「こだまは、こだまは、どうした!」


「え、ああ……こだまも無事ですよ。そっちに」



 呆気に取られた顔の千鶴は擦り傷だらけの手を部屋の奥へ向けた。銀色の髪を翻し、オルガナは指さされた方を見遣る。



「こだま……」



 やっと視線に止まったこだまは緑色のコートに身を包み、震えているようだった。俯いた顔面(かお)はマフラーに埋もれている。

 オルガナは何と声をかけようか迷った。去り際、レンからは「少なくとも手術が済むまでは何も言うな」と言われた。彼女もそれに同意している。

 真実を話せば必ずこだまは彼の元へ飛んでいくだろう。然しそれは許されない。医療チームの集中を削ぐ事にも繋がりうる上に、力づくで制するのも彼女の心を乱すだけ。ならば、秘匿するのがこだまの為。そう認識している。

 その時、こだまの姿を遮るように人影が躍り出た。



「オルガナさん、話があります」


「神威か。お前も、無事で、良かった」


「UNAと鬼が繋がっています」



 唐突に彼はそう切り出した。眉根を寄せるオルガナ。神威は長い睫毛を伏せる。



「どう云う、事だ。何が、あった」


「話せば長くなりますし、何よりうかうかしていられないと思います」



 さらに問いただそうとしたオルガナ。だが、突然うるさくなった回線に、神威を待たせて耳を傾けた。銀狼会の面々及びアキト達を回収しに向かったセギからである。



「何だと!」



 声を荒らげた彼女は、危うくイヤホンを投げ捨ててしまう所であった。だが、踏みとどまった。オルガナの耳に入った情報が何であったのかを神威たちには想像もできなかったが、明らかに動揺する姿に只事ではないと身構える。


 そしてオルガナはクルリと身体の向きを変えて引き返した。千鶴がその背中に何か叫んだが歯牙にもかけない。



「望月千鶴、神威、栁達哉! 私からも、話が、ある。教官室で、待機、しろ!」



 先程入ってきた管制室への扉に手を掛け、やっと口を開いたものの、名指しした三人の返事も待たぬまま姿を消した。大きな音を立てて扉が閉まる。


 しんと鎮まりかえった一面銀色の部屋。ドアが立てた音の余韻が染み渡るようだ。



「私たちがおらん間に何があったんやろ」



 ポツリと呟いた千鶴。


 だが、周囲の空気はむしろ危険人物らしき女の撤退により僅かに活気を取り戻していた。ガヤガヤという話し声が少しずつ音量を上げる。

 比較的軽症な生徒教員の元を江口がまわり、順に受け入れられる重傷者を普段は熱いあの男や武装したままのミュートロギア強襲部の男達が運び出す。



「どないなっとんねんほんま。オルガナさん隠そうとしとったけど、あれは明らかにメルデスさんになんかあったとしか思えんよな」


「ああ。それはオレもそう思うっす」



 常に冷静沈着なオルガナ。頭に血が上りやすいことは請け合いだが、これ程までに慌てふためく姿を見たことが無い。流石にそれを察することの出来ない彼らでは無かった。



「しゃあない。ウチが手当したるわ。脚出してみ」


「え?」


「教官室に来い言うたはったやろ。これ以上オルガナさんイライラさせたらヤバいしウチが診たる言うてんねん……それに、一応今回はあんたに助けられたから」



 語尾がどんどん薄れた千鶴。誤魔化すように、袖口からクナイを引き抜いて達哉の制服のズボンを破く。彼は千鶴の手際の良さに目を凝らした。刺さった木片などを器用に引き抜きつつも外傷の具合をしっかり見ている。それらをさも当たり前に行う千鶴。その真剣な目付きに彼の鼓動が早まった。頬が熱くなっているのに気がつく。

 さらに、赤いトランクスが微妙に見えてしまっているのにも気づいてしまった。



「ちょっ、パイセン大胆。ぱんつ……」


「甲賀は製薬を生業にしとったから、医者の真似事やったらウチも少しくらいは出来る。ほんで、何処が痛いんや。ここか?」


「いだぁああああああああああああああああああああ!」



 無表情の彼女の白い指が無慈悲にも右大腿部の外側を突き刺した。それと同時に響き渡る情けない悲鳴。「やかましい!」と一喝するその光景は何処か温かかった。

 達哉の脚に浮かんだ吸盤を見れば周囲の反応には異なるものが混ざったかもしれない。然し、偶然か、彼女なりの計らいか、それは千鶴の身体で隠されていた。


 この時、彼らは気づいていなかった。

 杏子色の髪の少女の姿が消えている事も、彼女に想いを告げた男の姿がない事にも。



 □◆□



「こだま先輩……」



 無機質な扉に呼びかける赤いジャージ。神威だった。応答はない。もう一度ノックしようとしたが、躊躇い、手をだらりと下ろす。

 彼は諦めたのかと思いきや、それを背に座り込んだ。磨きあげられた廊下の壁に自身の姿が映る。


 しばらく無言が続く。銀色は館内暖房があるにせよ少し寒々しく感じる。神威は元から黒いその手をじっと見つめ、息をかけた。



「私……解らないの。こんな時、なんて言ったらいいか解らない」



 その時、彼の真後ろからか細い声が聞こえた。少し鼻にかかったように感じるコロコロとした声。



「悩ませてしまったなら、ごめんなさい。ボクは言いました。この気持ちは一方通行でもいいと。だから、何も言わなくていいんです」



 彼の目の前の白いニット帽が薄らとぼやけた。

 お互いにまた黙り込んでしまう。


 神威は自分の言葉を反芻した。何も言わなくていい、そう言ったのに何故自分は此処に居るのか。何故彼女を追って来てしまったのか。その矛盾を正当化できない自分を冷ややかに見つめる。


 さらに今思い返してみれば、あんなにも多くの人の前で想いを伝えてしまった。五年もひた隠しにしていたのに。やはり秘めておくべきだったかと僅かながら反省した。

 これは、もう二人だけの問題では無い。組織の人間として恋慕は大なり小なり何かの皺寄せは覚悟せねばならない。



「だから、これからも今まで通り接してください」



 身勝手だ、と思いながらもそう告げる。組織がどうのというのはただの建前、正当化でしかないとも自覚していた。やはりここに来るべきではなかった、もう立ち去ってしまおうと脚に力を込めた時だった。



「カムイくん、『ボクが使っていいような力じゃない』って、どういう事なの?」



 背後でくぐもった鈴が鳴る。

 何かがズキリと彼の心臓を突いた。興味本位なのか、場を持たせたいのかは分からない。神威は自らのことを言うべきかどうか……悩んだ挙句天井を仰ぐ。だが、やはりそこにも自分の姿が写っているだけだった。



「ボクは単に、『神の威』を借りているだけに過ぎない。そして、ボクはその為の器でしかない……よく良く考えれば、鬼と大して変わらないかも知れません」



 自身にもあの力の全ては説明出来ない。何のための力なのか、自分の祖先はどうやってこの力を手にしたのだろうか。半分、自問するようにそう返答した。



「ただ、アレはボクが……いや、本当は誰も使ってはいけない力。他人の持ち物が他人の物であるのと同じように、神の持ち物は神の物なんです」



 結果的に一人で話してしまっている神威は、ちらりと背後を見た。やはりその扉は閉ざされたままだった。



「でも、もしまたこだま先輩が危険な目に遭うのならばボクは……」



 そういった途端、神威の背中が横向きに引っ張られた。引き戸が開いたのだった。バランスを失いかけた彼が見上げた先には、目を赤く腫らした少女がいる。



「私のため、じゃない……みんなの為にも使ってくれないの?」


「──あなたがそれを望むなら。あなたをそれで救えるなら」



 立ち上がった神威。彼らの視線は逆転する。こんなに神威が大きかっただろうか、とこだまはふとそんな事を思った。

 そして彼女は彼の胸にもたれ掛かる。杏色の髪をすり寄せる。



「ありがとう。カムイくん」



 彼女の言動に神威の心は少し痛んだ。



(きっと──ボクじゃない。解ってる)



 彼の顎の下で安らかな寝息が聞こえ始める。突然夢の世界に旅立ったこだま。よくある事だ、と神威は苦笑する。五年前に初めて目にした時も彼女は眠りこけていた。レンの白い病室で。



 こだまを抱える腕に力を込める。数年ぶりに入った彼女の部屋は昔と大して変わらなかった。食べかけのお菓子が放置されたデスクに白い壁掛けの時計。広くない、閉鎖的な空間。

 ベッドに沈んだ彼女の傍らにはウサギの可愛らしいぬいぐるみが寄り添う。神威のマフラーとコートに包まれたその上に、大きな布団をかけてやった。


 部屋を去ろうとした彼の視野の端に一冊の本が目につく。出入口付近の本棚の上。それは数学の参考書だった。バーコードのついた裏面がこちらへ向いている。此処には居ない、ある男の名が黒い字で明記されて。神威はそれをそっと手に取ると、表を上にして置き直した。


 細い光となった廊下からの明かり。それはどんどん狭くなり、部屋に暗闇をもたらした。

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