忍び寄る限界(リミット)
「ちづ姉もいこうよ! お餅つき!」
「餅つき? 何なんそれ」
スラリと背が高い黒髪の女の隣には、杏色の髪をした小柄な少女がいた。ピタリと密着しながら歩くその姿は一見姉妹のようにも見える。
廊下を何となしに歩いていた千鶴。だが、こだまに呼び止められてこうして共に歩いていた。
「知らないの?」
「ちょっと任務に行ってたからさ、知らんかったわ」
グイと見せつけられた携帯の画面。この画面の小ささと言い、それに比例した文字の小ささはこだまが持つ、通称『こども携帯』によるものだった。
目を凝らすと、確かにそこには【餅つき大会】の文字と【生徒会執行部より】という文字。自分のものは確認していないが、きっと見れば同じものが届いているのだろう、と彼女は思った。
「突然今年からどないしたんやろ」
「きっと、しずかがせーとかいちょーだからだよ! しずか、私の好きな食べ物知ってたんだよ!」
嬉々として語るこだまに目を細める。嫌いな食べ物なんて無いくせに……と心の中で思ったが、彼女はぐっと抑えた。
千鶴がこのミュートロギアに来たのは、こだまよりも少しあとだったと記憶している。だが、その頃からこだまは何も変わっていない。杏色の髪も、人懐こい話し方も、仕草も、爛々と煌めく双眼も。どういう経緯でこだまがここに居るのか、彼女には分からないが。
「ほなまぁ、私も行くわ。大晦日やんな?」
「おおみそか……?」
「12月31日やんな?」
「そうだよ! ちづ姉も行けるの嬉しい!」
一瞬、勉強しなければならない事も頭をよぎったが、その考えは山腹を駆け抜ける風の如し。一瞬にして消え去った。大晦日、及び正月は千鶴も含めた日本人にとってこの上なく大切なイベントである。過去を生きた先人達もまたこの日をたいそうに祝ったらしい。
そんな日くらいは、仲間とともに団欒を楽しむのもまた必要な気がした。
いや、それ以上に。隣でピョコピョコ飛び跳ねる彼女を喜ばせたかった。そして狙い通り、彼女は幸せそうな笑顔を千鶴へ向けている。
千鶴はそれで満足しているつもりだった。
以前は、本当に自分がこだまの姉かのように思っていた千鶴。だが、思考も大人びた今、彼女に本当の姉がいることを認識した。
しかもそれが、ミュートロギアと敵対する暗殺者である事も。
「じゃ、私そろそろ訓練場行くね!」
「せやな。遅れてオルガナさんにケツ叩かれたアカンで」
今年の八月初頭から任務に入っていた千鶴は、こだまとその実姉の間にあった話などは後付けで耳に入れていただけに少し彼女が心配だった。それに、彼女に勉強を教えていたというあの青年の行方も気になる。
だが、それは杞憂なのでは、とも思い始めた。
理由は明解。こだまがありのままの姿だったから。何も、変わっていなかったから。
明るく振舞っているだけなのか、これがこだまの真の姿なのか。
ただ確実なのは、その駆けていく背中に小さく手を振る自分は後者でしかないということだった。父親の影を追いかける自分は、一体何なのか。行き場のない自己嫌悪がそこにあった。
□◆□
「……間に合ったか。最近の貴様はどこかおかしかったが、まさか、こんな事を図っていたとはな」
金髪の男が呻く。苦悶の表情に冷や汗を浮かべる。腰の辺りから腹部にかけて、彼は赤黒い水溜りの中に浸っていた。
そして、彼に寄り沿うのは場違いな少女。小柄な体躯。掴むと折れてしまいそうな細い腕。クリクリとした瞳で、その男の顔を覗き込んでいる。
震える手を伸ばす彼。
「早く、あのお兄さん達のところへいくんだよ」
「めるです、あちいの? あせふいてあげる」
彼が必死に絞り出した声は、彼女には届かない。目を覚ましたばかりの彼女の視界には彼しかない。
少女がスカートのポケットから無造作に取り出したのは、白いハンカチ。金の文字で『Melldrece』と刺繍されていた。
状況の理解が出来ていない彼女。その時、白い小さな指先に、ぬるりとした赤い液が付着した。
「あか……」
「メルデス、その子供は……!」
「イャアアアアアアアアアアア!」
キンキンと耳に突き刺さる、少女の叫び。彼らに銃口を向け続けていた黒いコートの男も一瞬の怯みを見せた。そして、泣き叫び震える少女の背後から、それを引き裂くように発砲音が轟いた。
男がそれに気を取られている隙に、倒れた男と少女に駆け寄る人影……肩を強く掴まれる感触。
□◆□
「……デス、メルデス!」
「え、あぁ、セギか。すまない。眠ってしまっていたんだね……」
慌てて手の届く範囲を探るメルデス。
しかし、顔を覗き込むセギの顔がはっきり見えて自分が眼鏡をかけたまま寝ていたことに気がついた。それもその筈。時刻は昼の三時を回ったところ。大時計の振り子は相も変わらずコチコチコチコチと等速に揺れている。
夢の中で巻き戻った時間を現実へ引き戻すように、彼は大きな伸びをした。
「隠密からなにか……?」
「いやいや、それどころじゃないよ。これ……!」
「携帯、変えたのかい?」
「あーもう! なに寝ぼけてんのさぁ。これは菊川のだよ。そうじゃなくて、中身みてよ」
彼のとぼけは本当なのか態となのか、よく分からない。今日もメルデスは小さくしたを出して首をかしげ、「あれ、そうなのか」と笑っていた。
携帯をメルデスへ手渡したセギは、呆れたように首をふり、ずれたゴーグルきゅっと正す。
「これ……本当に?」
メルデスもまた、眼鏡をスチャと直した。やっと覚醒したのか、目付きが真剣なものになる。まだ少し、どこか虚空を見つめている気もするが。
「既にこれを送信した座標へ人を送り込んだ。持ち去られていたら見つからないだろうけど……」
「“ツケの清算”……か」
「ちょっとちょっと、まさか行くんじゃないよね」
メルデスは黙りこくってしまった。
刻々と時は過ぎる。
「何処にも、一人で来いとは書いていない。それに……」
何かを言いかけたメルデスが、突如咳き込み始める。口に手を当てて暫く苦しそうにしていたが、嵐がすぎたのか直ぐにケロッとした表情になる。
セギは勿論、心配そうに眉をひそめた。
「大丈夫?」
「変な所に空気が入ったよ。ちょっと、彼の行動が不自然だなぁって考えてたらね」
「焦るじゃんか……。で、不自然と言うと?」
「だってそうだろう。ただの文面しか寄越していない……つまり、このメールにはなんの仕掛けもないんだよ」
顎を押さえ、考え込む仕草をし始めたメルデス。
そのメールというのには、こう書かれていた。
【メルデス=サングシュペリに、ツケの清算をしたいと伝えろ。釣り銭は捕らえているガキ一人。拒否は認めない。fnb1231あの時刻に】
「まー、そう言われればそうだねぇ。添付ファイルだの何かしらの仕掛けを施しちゃえばこの場所も分かっただろうに。で、この最後の【fnb1231あの時刻に】って何なのさ」
「僕の記憶が正しければ……きっとあのビルだ。──flower north building」
「花北ビルって、あれだよね? 首都湾岸第三埠頭にある……いや、もう潰れたんじゃなかったっけ」
セギの言葉は正しい。一時、大型船舶が停留できる唯一の埠頭だったそこに建った、実に高さ580メートルの超高層ビル。だが、その後建設された第四、五埠頭の方に高速道路や空港などが接続されたことで機能が流出。八年ほど前から店舗の撤退が相次ぎ、今ではもぬけの殻になった幽霊ビル。
「初めて、菅谷と僕が事件を解決したのがあそこだったんだ……」
メルデスの経歴を知らないセギではない。そっかぁ、と頷く。
何がしたいんだろうねとボールペンをくるりと回し、とんがらせた口先に乗っけた。
菊川のものだという携帯をしばらく見つめ、片手で器用に触っていたメルデス。ふと顔を上げる。
直後。
コンコンと軽快に扉を叩く音。驚いたセギが軽く仰け反った。
入ってきたのは携帯の持ち主である彼だった。
「あ、コレかい?」
「そうです。その、アキト、連れ戻せそうですか」
「断言は出来ないけど、そうするつもりだよ」
菊川の口調が深刻そうなのも無理は無い。いつもの爽やかな笑顔さえも曇っている。突然ネメシスと思われる相手からのメールが携帯に届いたのだから。
それに、彼らの友が捕えられているのがこれで更にハッキリしたと言えるだろう。この状況で落ち着き払っている方が違和感がある。
「もう文面のバックアップとかは一通り取り終えたから持ってっていいよ。あ、でも万一またそういうのが来たらすぐに持ってきてね?」
「も、勿論です……」
彼の携帯は今、メルデスの手中にある。
菊川はその側まで寄って行った。個人の所有物であり、個人情報の塊である携帯。義務とはいえ、早く手元に戻したいというのが菊川も本音だろう。
彼とメルデスが正対した。
「あ、ダイキくん、ここで一つ質問ね。君って右利き?」
だが、何故かメルデスは彼の携帯ではなく、不可解な質問を投げつけた。何のことかわからない菊川だったがサッと箸と茶碗を持つような仕草をして、右手を丸くしている。左利きだった。
「じゃあ、心臓は君から見てどっち側?」
「えっと……」
何故そうも、意地悪な質問ばかりを投げつけるのか。ひたすらニコニコとするメルデス。
菊川は悩みながらも「利き手側です」と答えた。満足そうに頷く。
「からかわないでくださいよ、メルデスさん」
「あはは、ごめんごめん。また何かあった時にうまく誘導しないといけないからね。その確認だよ」
はい、と今度は素直に携帯を渡す。メルデスの嫌味に少し頬を膨らました菊川だったが、ホッとした顔でそれを受け取った。
部屋を後にする菊川の背中を見送る二人。そして、ひっそり佇む大時計。
「方向音痴っていうかぁ、不器用だよねぇ菊川クン」
「人には一つや二つ、欠点があるものだよ。セギは今からどうするんだい?」
さっきのことを思い出しながらヘラヘラと笑うセギ。
大きな伸びをひとつして、椅子から飛び降りた。
「アイツらに会うんなら相応の準備がいるだろ? 任せてよ。ギャフンと言わせるようなこと思いついたからさ。メルデスも暁人クンも……あわよくば岸野もこっちに戻すためのね」
「無茶はするんじゃないよ?」
「だぁーいじょうぶ。あ、銀狼会の連中にも手を貸してもらうよ。それと、夕妃は今回外すね」
「どうしてだい?」
面食らったメルデス。最近はオルガナとの諍いの影響もあって任務につくことが増えていただけに疑問を感じたのである。
「ほら、その日は学校で餅つき……? か何かあるらしいじゃん。あとまぁ、詳しくは言わないけど、夕妃は今それどころじゃないって言うかぁ……ね?」
メルデスもその言葉でハッと思い出す。どうしてセギがその事情とやらを知っているのかは察せなかったが言及するのも野暮である。
「その辺も含めてセギに任せるよ。いいかい?」
「うん。メルデスほど頭回んないけど、やれるだけのことはするよ」
軽いノリで返答するセギが肩を竦めてみせた。いつの間にか彼の手の中に戻っていたボールペンがくるりと一回転する。
「じゃ、メルデスはできるだけ休んでてよ。レンじゃなくても、顔色悪いのはボクも分かるんだから」
「そうかなぁ……じゃあお言葉に甘えて少し寝るよ。彩善さんたちにもよろしく言っておいてくれる? あと、ユーヒにもあんまり抱え込まないでって」
うん、任しときなって! とメルデスの肩をバシッと叩いたセギが軽い足取りで部屋を飛び出していく。そして、広い指揮官室に一人きりとなったメルデス。
薄暗い中、ふと斜め上を見上げればそこに人の顔がある。いくつも、いくつも。もちろんそれは生きている人ではない。平面に貼り付けられた顔たち。
それは一人で写っているものもあれば、パートナーとともに笑顔を見せるものまである。
これは、ミュートロギアが歩んだ軌跡だった。
握り締めていた右の拳をそっと開く。
赤黒いものがこびりついていた。軽く乾きかけているものの、強く握っていたところはまだぬるりとしている。気を緩めた瞬間に口内を占拠した鉄サビの風味に顔を顰める。
肺の辺りに残る不快感にも気が滅入った。
ついに来たか、という目を背けたくなる事実に締め付けられる心。
いくら腕の立つ医者でも、いくら素晴らしい薬でも。人の死を止めることは出来ない。分かっていたつもりだったし、それを拒むつもりもなかった。
なのに、彼は自分が『死にたくない』と毎日祈りながら眠っている事に矛盾を感じていた。
それは、彼が単に若いからでは無いだろう。三十年という歳月を短く感じるのは他所の視線。今の彼にしてみれば、それが八十年だろうが、十五年だろうが変わらない。
落胆したようにため息をついた。碧い瞳が暗い影を落とす。もう一度それを握りしめた拳が小刻みな振動を起こした。
カチカチと手元のレバーを操りデスクに戻った彼は、ボタンを押した。赤いランプが点灯し、女性の声が【こちら管制室。ご要件を】と、それに応える。
「忙しいところごめんね、レンを呼んでくれるかな?」
【承知致しました】
「あ、そうだ。こだまは今どうしてるのかな」
【この時間は訓練を受けている時間かと。彼女にもなにか御用ですか?】
「……いや、別になんでもないよ」
【では、ドクターのみお呼び致します】
事務的なその声はいつもと同じ。そして、メルデスの丁寧な口調も、明るい声色も。
レンがこの様を見れば、きっとセギ以上にやきもきするだろうと彼は何故か少し微笑んだ。能力に意識を澄ませば、大急ぎで廊下を移動する彼の気配を感じ取れた。レン特有のピリピリとした異能力の波長。
「僕に、時間をくれ……全てを見届けられなくてもいいから、罪を償う時間を僕にくれ」
彼は、血に染まった手を包み、額の前で祈るように手を組んだ。昔から、神に祈る時はこうするように教わってきたメルデス。
ごく自然な動作だった。
その時、黒いデスクの上に小さな光が一粒こぼれた。
□◆□
「手抜かりはないかしらァ? 前みたいにとんだヘマしないでちょうだいよ。ちゃんと接触して確かめ……そう、顔見知りなのね。世間のなんと狭いことか」
ギラりと暗闇の中で何かが光った。受胎の刻をモチーフとしたステンドグラスから差し込むそれは月光。地を縫うように走り抜ける赤の海。
祭壇の上には抜き取られたばかりの赤い臓物が積み上げられていた。
「だめね……あの小娘がこんな所に居るはずないのに、止められないわァ」
磔の救世主に捧げる賛美の代わりか、ピチャリピチャリというBGMの元に、低めの女声が独奏曲を響かせる。
それを聴く無数の人影は生気のない目を彼女に向ける。
音もなく駆け抜けた黒い影は女の手に登り、物事を静観した。
「今から送り込むわ。上面の感謝はいらないわよ、欲しいのは結果。リリー様に捧げる心臓よ。これが出来るのは初めに覚醒した私の役目なのだから……」
彼女は耳につけた丸いインカムで誰かと話している。相手は彼女の言葉に相槌を打った。それを聞き届けた女はニタリと醜く笑う。
大きく広げた腕。その片側は再び、月の光を受けて鈍く光る。そこから噴出した黒いオーラは何もかもを飲み込まんと大口を開けているようにさえ見えた。
刹那。
人だった影の姿が一度に消え失せた。
元から人気のない場所だが、完璧な静寂に包まれたそこに佇む女が異様な存在感を放つ。その足元でむしゃりと人肉を貪る黒い物体は、足が八本ある。大きな蜘蛛だった。
「タラちゃん……五番目はいつ現れるのかしらねぇ。早くあの坊やに会いたいのに」
返事などは期待していない。イヤホンからも応答はもうない。
くすんだ金色の髪を靡かせて、彼女は金属の腕を大きく振った。すると、祭壇の上の空間に円盤が出現する。無機質なそれは音もなく、だが、高速で下部を回転させていた。
軽い足取りで飛び乗った彼女。黒い蜘蛛もそれに続く。
腕をもう一振すれば、外界を隔てたステンドグラスが煌めく氷雨と化した。サラサラ、ピシャピシャと赤い水面へと降り注ぐ。
肌寒く感じるような透き通った風が雪崩込む。
「嗚呼、リリー様。貴女の復活はもうすぐそこで御座います」
彼女らを載せた円盤は、真っ直ぐに白月へと飛翔してゆく。女の甲高い笑い声とともに。
身を半分に削られた聖母の目からは、星屑の涙が滴り落ちた。




