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№35 人間道

№35 人間道

 火の手は屋敷全体に回っていた。


 屋敷の主人は家族と共に家財を馬車に積み込み、火事から逃げ出そうとしている。妻と子が怯えた顔をしているが、大丈夫だと言い聞かせた。


 ふと、炎の陽炎の向こうに隻腕の人影が見えた。焼けただれた地面を踏みしめながら、屋敷に火を放った張本人がやって来る。


「き、貴様……!」


 主人はとっさに妻子をかばおうとしたが、ジョンの最初の狙いはそこではなかった。


 大きく跳躍し、馬車につながれていた二頭の馬の首の骨を蹴り折る。ひくひくと痙攣しながら倒れた馬は、もう使い物にならない。


 まずは逃げる手段を奪う。


 そして、殺す。


「お、お前だな? あの奴隷女をさらおうとしたのは」


 ジョンは答えなかった。


「ひひ! あの奴隷女は死んだか? 俺が傷物にしてやったんだからな!」


 嘲る主人をまったく無視して、ジョンは馬車の中にいた子供をひとり、右手で心臓を貫いて殺した。あふれかえる血に、母親が狂ったような悲鳴を上げる。


 その母親も同じように殺し、ジョンは再び主人の眼前へと戻ってきた。


 一気に妻子を失くした主人は、呆気に取られてジョンを見ていた。


 そして、こびへつらったような口調で、


「な、なあ! いのちだけは助けてくれ! ここにある家財は全部やる! だから……」


 いのち乞いが終わるのを待たず、ジョンは主人の側頭部に回し蹴りを打ち込んだ。高所から落としたスイカのように主人の頭が爆ぜて壊れる。


 残った使用人や傭兵たちはとうに逃げ出しているだろう。今更追うつもりはなかったが、叶うなら全員虐殺してやりたかった。


 これで動くものは誰もいなくなった。


 やるべきことは終わった。


 ジェーンの元へ戻らなければ。


 ジョンは燃え盛る屋敷に戻り、横たえていたジェーンの遺体を片腕で抱え上げ、火の回った廊下を歩く。そして、屋敷の一番奥にある主人の居室らしい部屋の扉を蹴り開けた。


 かつては豪奢だったであろう室内も、火に巻かれても燃え落ち、もはや見る影もない。その中でも一番高級そうなソファに腰を下ろし、ジョンは隣にジェーンの死体を座らせた。半開きだった瞼を閉じてやると、まるで天使の寝顔のようだ。


 ジェーンの亡骸の肩を抱きながら、ジョンは考える。


 これからどうしようか。


 もう、神の声は聞こえない。


 あれはすべて、自分の頭の中のまやかしだったのだ。その手品のタネが割れた今、もう二度と神の声は聞こえてこないだろう。


 『最強』を狩る必要もなくなった。


 『最強狩り』などと言っても、守るべきものを守れなかった強さになんの意味があろうか。


 そんな強さの、なんとむなしいことか。


 ジョンにとって、強さは存在価値たりえなかった。


 結局なにも勝ち取ることができなかった自分には、なんの価値もない。


 最初から、主人を刺し殺した瞬間から、ジョンにはなにもなかったのだ。


 それを、神の声だなんだとまやかしにすがって生きてきたにすぎない。


 すべては妄想の茶番劇だったのだ。


 何のために生きてきたのか。


 どういう意味のある人生だったのか。


 生まれてきた理由は。


 そう問いかけるが、隣にはいのちを失ったジェーンが静かに座っているばかりである。


 存在価値を見失ってしまったジョンは、途方に暮れていた。


 これからどうやって生きていけばいいのか。


 どこへ行けばいいのか。


 ……疲れた。少し、休もう。


 休んだら、どこへ行くかを決めよう。


 生きていればきっと今日より良い日が来ると、ジェーンは言っていたのだから。


 その一言だけが、今のジョンの生きる支えだった。


 なかば意識を失うように、ジョンはジェーンの亡骸の隣で眠りについた。


 燃え盛る屋敷の中で息絶えるのも、また一興。


 それでもまだ生きていたならば、新しい場所を目指して歩こう。


 つがいとふたりで寄り添いながら眠るジョンを、炎が取り巻いていく。


 


 こうして、『最強狩り』は、永遠にその意味を失ったのだった。


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