第一章 吹き抜ける風が冷たくて(2)
列車は高く切り立った山々の間を縫うようにゆっくりと走っていた。長いトンネルを抜けた車窓からは山間にうっすらと宵闇が迫ってきているのが目に入った。気が付けばもう三駅も進んでいた。
好きな音楽を聴いていると時間の流れるスピードが変わるように感じる。その変化量はウサギとカメの歩くスピードのような差があって、いつの間にか経過する時間の速度に度々驚かされる。もし人生の殆どを好きな音楽を聴いて過ごしていると、人生があっという間に過ぎてしまうのかなぁと思った。時間が早く経つのはもったいないけど、好きな音楽は聴いて過ごしたい。
そんな事を考えながら、列車の窓ガラスに反射して映る自分の顔を見ていた。もうそろそろ南願谷駅に着く時間かも、とメモ帳に書いた到着時間をチラッと確認した。
*
南願谷駅への到着アナウンスが列車内に響いた。
「よいしょっと」
旅行カバンを持って席から立ち上がった瞬間、私は何かを感じた。
何だろう、この感じ……。
頭の中を一瞬、光が通り抜けるような感覚だった。周りを見渡すように振り返ったが、何も見当たらなかった。
そそくさと荷物を持って列車を出た途端、外気温との温度差に体が震えた。
「寒い、寒い、寒い、寒いーーー」
列車内の暖かさに身体が慣れてしまったのと、夕日が落ちてからの冷え込みが、この温度差を生じさせているのだろう。まるで温室内から冷蔵庫の中へ突然放り込まれたような体感温度だった。
「厚めの上着を持ってきてなかったかなぁ」
慌てて荷物の中を探しながら不安な声を出した。厚めの上着だったら、カバンの中に入れたりせずに普通は手に持ったりするよね。まさか列車内に忘れた?いいや、その前に家から持ってきた記憶が無い。
それにしても何でこんな服装だけで来ちゃったのだろう。赤とピンクのチェックのセーターに白いカーディガンとスキニージーンズ、近所に出掛けるような服装だった。
十一月下旬の山里への旅行する時は、風を通さないような厚めの上着が必要だと言う事を今ごろ気付いた。そんな事も予想できていなかったみたい、ぐすん。
最近、〝LIGHT□(ライトスクエア)〟というブランドのトレンチコートを買ったので、それを持ってくれば良かったのに。しょうがない、我慢、我慢。再び荷物を持って震えながら歩き出した。
この駅で降りる人は少ないようで、田舎の駅の静けさと寂の良さを感じた。尾根を吹き抜ける冷たい風が駅構内を駆け抜けた。私はこの空気が好き、森林の木の匂いと線路の枕木が湿ったような匂い。鼻腔の奥で一種のリラクゼーションのように心が癒される感覚を覚えた。
寒さで身を縮めながら、ジーンズのポケットの中に入れた切符を確認して、改札口へと向かった。
ん?
「使用済みの切符はこの箱にお入れ下さい」
このポストみたいなのに切符を入れるだけで、ここを通って良いって事よね。半分戸惑いながら改札口であろう狭くなったスペースを恐る恐る通った。
無人駅なのだろうか、駅長さんも駅員さんの姿も見ない。キョロキョロしていると周りには誰もいなくなり、一人ぼっちになってしまった。見渡してみたが、ベンチが疎らに並んでいる以外はがらんとしており、チカチカと切れそうな蛍光灯が一つ目に入った。
列車に乗る前に駅でお弁当をちゃんと買っておいて良かった。この小さな駅では売店なんてものも無く、あるといえば錆びて赤茶けた自販機ぐらいだった。もう誰も使ってなさそうな感じ。
一瞬、心の中に新鮮な空気が入ったような気がした。そして、私はカーディガンのポケットからICレコーダを取り出して操作した。これはちょっとした興味のあった事を録音して保存しておく時に使う。仕事でパソコン等を使うことが多いからか、便利な機器は積極的に使う傾向がある。このICレコーダも仕事で使っているのと同じ物を電気屋さんで探して購入した物だ。
「錆びついた自動販売機は、白髭を生やしたお爺ちゃんみたい」
私はそう録音した。
*
駅の出口で周りを見渡すと、周辺の全てが夜の帳に包まれていた。街灯の小さな明かりが道路を僅かに照らす程度で人通りも無く、ひっそりと静まり返った目の前の状況に少し不安を感じた。
さあ、早く今日泊まるホテルに行こうっと。
足早に一歩を進めたが、ホテルの名前が思い出せない。また、私の記憶の一部分がぽっかりと空いている。
「ん~」
思い出せるまで待てないので、メモ帳で泊まるホテルの名前が書いているか急いで調べた。こういう忘れそうな事はちゃんとメモしていたはず。
「あった、ロイヤルホテル南願谷」
ホテルの名前と横に手書きの簡単な地図が描いてあるのを見てやっと思い出した。インターネットでホテルを予約した時に自分で描いた簡単な地図だ。この地図を頼りに宿へと向かって歩き出した。
*
いつからだろうか、私の記憶に穴を空ける虫が現れたのは。ちょうど葉っぱをかじる虫のようなイメージを思い浮かべた。私の知らない間に私が忘れてはいけない記憶の一部分を食べてしまう意地悪な虫が頭の中にいるのだと思う。その虫をどうすれば退治できるのか、自分で考えようとするけど今の日常にはそんな時間的余裕も無く、ほったらかしなのが現状。
今のような時間がたっぷりある時に考えれば良いのね。でも、姿のみえない虫に対して、どう対処すればいいのだろう。いつもそこから進めないので、何か打破できる糸口を探している。




