36.剣に誓う
この剣に誓う。契約の証である、この聖剣に。そう、誓うから。俺はこの世界を救うと、誓う。
だからどうか、俺を見て下さい…………。
母と呼ぶことを、殆ど記号と変わらない認識しか、してくれないヒトだった。俺が勇者になった時に、初めて笑みを見せてくれた。けれどそれは、『救済の勇者』に向けられた微笑み。俺という、『フーア』という存在に向けられた笑みでは、なかったのだ。
旅立つ前、母に向けて、俺は微笑んだ。祖父と母の目の前で、俺は契約の剣を掲げ、そして、それが当然であるように、世界救済を誓った。その俺を見て微笑んだ、母の笑顔を忘れられない。
愛おしくて、苦しくなった。思わず抱きつきたくなって、けれど自制した。俺は勇者なのだ。そう言い聞かせるには、ひどく精神力を必要とした。仕方ない。あの時の俺は、まだ12歳の子供だったのだから。
言えば、怒るのだろうか。傍らの邪神は、瞑想中のこの男は、俺の本心を知った時、何というのだろうか。俺が世界を救う理由を知った時、彼は。俺をどういう眼差しで見るのだろうか。
怖いと、初めて思った。母親以外の誰にどんな感情を持たれても、俺は何の痛みも感じなかった。事実、今までそうやって生きてきていたのだ。
それなのに、今。一瞬脳裏を駆けた想像に、恐怖を抱いた。この邪神に拒絶されることを、俺は恐れた。それ程までに自然に傍にいるようになってしまったからだろうか。けれど、その感情はまだ、母への思いへは、追いつかない。
剣に誓った。この世界を救ってみせると。立派な勇者になってみせると。そう誓ったその時に、母は俺に向けて微笑んだ。それがどんな意味を持つモノでも、俺は良かった。その時初めて、母の眼差しは俺を見たのだから。
お母さんと、呼ぶことは殆どなかった。主席巫女様と、呼び続けていた。そう呼ばなければ、あの人は振り返ってすらくれなかった。例えその眼差しが俺を見ていなくても、俺の呼びかけに答えてくれるのならばと、そう呼び続けた。
苦しかった。そうだ、俺はただ、それが欲しかった。綺麗なヒトだった。穏やかな微笑みの似合う、優しい顔立ちのヒトだった。けれど俺を見る時の表情は能面そのもので、いつまでたっても俺は、優しい眼差しで見て貰える事はなかった。
それは、もう5年程前の事。それなのに、他のどの記憶よりも鮮明だった。忘れかけている最近の記憶よりも、尚の事はっきりしている。何故とは、言えない。その理由を俺は知っている。それだけ、俺にとって重要な記憶だった。
お母さん。俺は貴方が好きだった。俺は貴方が愛しかった。俺は貴方だけが欲しかった。他はどうでも良かった。
だから剣に誓ったのだ、貴方が望む、世界の救済を…………。




