31.涸れた泉
そこは、一滴の水もない、枯れた泉だった。けれど、精錬とした気配を称えたその場所は、確かに聖域であると彼らに思わせるには充分だった。そしてそれが解っているからこそ、フーアは泉に掌をかざした。
彼の掌から魔力があふれ、それに導かれるように、水が沸き出す。資格無き者には逢わぬ。そんな水の精霊神の意志を感じさせるような仕掛けだった。泉に水が溢れるようになった頃、フーアは小さく呪文を唱え始めた。それは異なる二つの世界をつなぐ、時空魔法。勇者たる者の証を示すため、彼は点に向けて言葉を放つ。
「我が名を解放の力の礎と成せ。今、我は請う。隔たりを持ちし水界との境をしばしの間取り除き、我が前に彼の水の精霊神の御姿を遣わし給え。」
水界『マーキュリー』を統べる水の精霊神・ウンディーネ。汚れ無き清廉なる乙女の姿を、フーアは脳裏に浮かべる。泉に光が溢れ、その中央に浮かぶ影が一つ。くるぶしまで届くだろう長い青髪に、澄んだ水色の双眸。柔らかな、それでいて心の強さを感じさせる美貌の女性が、まだどこか少女らしさを残した存在が、そこにいた。
穏やかな微笑みが、与えられる。既に、他の精霊神から話を聞いているのだろうか。フーアを見る彼女の双眸は、全てを知っていると言いたげだった。軽く会釈をして、フーアは足を踏み出した。泉の端にたたずみ、彼はウンディーネを見つめる。
「初めまして、救済の勇者。そして、最強の邪神。」
「お初にお目にかかります、水の精霊神。ぶしつけで申し訳ありませんが、貴方の御力をお借りしたいのです。」
「えぇ、承知の上です。……どうぞ、手を。」
促されるままに、フーアは掌を差し出した。そっと包み込むように触れられて、彼はそこに集中した力を感じる。水の精霊神の掌が離れた後には、宝石のような力の欠片が一つ。青く澄んだそれは、どんな極上のサファイアよりも美しかった。その石を、フーアは大切そうに懐にしまった。
既にそこには、光と炎の二つの力の欠片がしまわれている。かつんと音を立てて、3つの石がぶつかった。その軽やかな音を、フーアはどこか安堵して聞いていた。張りつめていた精神をほどくような暖かさが、あったのだ。
不意に、水の精霊神のまなざしが、アズルに向いた。火の精霊神と同じように、そこには懐かしむ色がある。それに気づいて、アズルは不快そうな顔をした。彼にはそんな眼差しを向けられる理由がない。けれど精霊神達は、確かに彼を知っているのだという。
「久しきことです、アズル。」
「……俺は貴殿を知らぬ。」
「いいえ。遠き昔、確かに私達は互いを知っておりました。…………そう、貴方が、邪神へと墜ちる前に、私達は……。」
「…………っ!!!!」
「アズル?!」
悲しげに告げられたウンディーネの言葉があった。そして、その言葉に反応するかのように、アズルが胸を押さえてうずくまる。苦しげに息を吐く様は、その事実を拒絶しているように見えた。心配そうに、フーアがアズルの肩に触れた。息を荒げたままでフーアを見たアズルの双眸は、常の深紅と異なり、あらゆる色を混ぜ合わせて作ったような、底の見えない、混沌とした黒だった。
けれど、彼が頭を振ったその瞬間、双眸は深紅に戻る。呼吸を整えた彼は、苛立ちを隠さずにウンディーネを見た。拒絶と憎悪を宿した双眸だった。それを見ても、ウンディーネは何もいわなかった。ただ、寂しげな微笑みを浮かべているだけだ。
「大丈夫か、アズル?」
「…………あぁ、平気だ。」
傍らの少年に、青年は平静を保って答える。記憶をかき乱されるような、頭の中を混ぜられるような、痛みよりも恐怖に重点を置きたくなるような感覚があった。そう、それは、彼が時空魔法を使った時の反動に似ていた。そんなことは、決して口にはしなかったが。
ウンディーネが、消えていく。彼女もまた、自らの世界を守護する立場を負っていた。感謝の意を込めて、フーアが彼女に一礼する。アズルはただ、消えゆく水の精霊神を見ていた。何の感情も宿さない瞳で。
——心を傾けすぎれば、いずれ貴方は、苦しむ事になりますよ……。
消える寸前、アズルの脳裏にだけその言葉が聞こえた。水の精霊神の残した言葉の意味を、彼は理解できなかった。何に心を傾けるというのだと、彼はいいたかったのだ。けれどウンディーネは既に水界に戻り、彼にはそれを確かめる術は存在しなかった。
「……どうかしたか?」
「…………いや、何でもない。」
虚空を睨み続けるアズルに向けて、フーアが問いかけた。その問いかけに、彼は頭を振るだけだった。あるいは、ウンディーネの言葉を、忘れようとしたのかもしれない。解らぬ事に揺さぶられる必要など、無いように思えたのだ。
ウンディーネの言葉の意味が解る日は、まだ、遠い…………。




