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虫食い姫は隣国の王太子殿下から逃れたい。  作者: 幽八花あかね
隣国の王太子殿下から逃れたい。2章

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26. ナイフぶっ刺し事件 「グロいグロい――……もしかして」

【注意要素】

殿下が手を怪我します。微グロ。



 今日のサイードは、昨日よりも顔色が悪かった。なんとなく足元がふらふらしていて、終始ぼんやりとして頭もあまり働いていなそうだ。


 魔法薬基礎の授業中、いつも通りにエリエノールが魔法を使わなくてもできる作業、サイードが魔法をかける作業で分担して調薬をしていたところ、ふわりと血のような匂いを感じた。


 最近の血の匂いといえば、サイードが触ってくる合図のようなもの。


 エリエノールがぱっと顔を上げてサイードの方を見ると、彼は何かに耐えるような辛そうな顔をしていた。


「……殿下、どうなさいました?」


 サイードはその問いに答えることなく、微かに震える手でエリエノールの手の中にあったナイフを取った。


 そしてそれを思い切り振りかぶると――己の左手に、ぐさりと突き刺したのだ。


「っ……」

「ちょっ、殿下!? 何をなさっているのですか!?」


 驚いたエリエノールの声に何人かがこちらを向き、サイードの姿を見た女子生徒が悲鳴を上げる。


 みんなの声のざわめきを背景に、慌ててサイードの方へ近づいた。アベルも一旦調薬をやめ、サイードのそばに寄る。


「殿下、今すぐ医務室に――」

「やめろ、来るな」


 サイードはエリエノールから離れるように身を反らした――いや、反らそうとしていた。

 けれどまるで何かに肩を掴まれたかのように、彼の身は途中でぴたりと止まる。


 別の机で調薬をしていたレティシアも、こちらにやってきた。


「サイード殿下、どうなさったのです!?」

「レティシア……。ごめん」


 彼の両の手が震えながらこちらにゆっくりと動いてきて、ナイフの刺さった傷口が拡がった。


 何故だろうとよくよくサイードの左手を見てみて、思わず声を上げそうになる。銀色のナイフの先が机に刺さり、手のひらを貫通していたのだ。


 レティシアもそれに気づいたのか、「ひっ!」と甲高い小さな悲鳴が聞こえる。


「待ってください殿下。傷が拡がりますから、動かさないで――」

「ごめん、やっぱり無理、だ」

「は……? いやいや本当止まってくださいグロいグロい――……もしかして、止まれない、んですか?」


 突然に、ある可能性がエリエノールの頭によぎった。


 最近嫌そうな顔でエリエノールに触っていたサイードは、何かにそれを無理やりやらされていたのではないかと。

 今こんなふうに傷が拡がるにも関わらず手が動いてしまっているのも、何かの力にやらされているからではないかと。


 サイードは苦しそうな顔をして、小さく頷いた。

 

 彼の左手はまだこちらへとじわじわと動いていて、傷がどんどん拡がっている。このままではもっと悪化してしまうだろう。


「……痛かったらすみません、机からナイフ抜きます」

 

 彼の手のひらと机の間にある刃先の方を指で挟み、手の甲側にあるナイフの身も指で掴んだ。

 ちらりとアベルの方を見ると頷かれたので、このままやっていいということだろう。


 こういう場合、手に刺さっているナイフを抜くと血がたくさん出てきてしまう。彼が左手を動かすのをやめられないなら、机に刺さったナイフの先だけをまず抜くべきだろう。


 伊達に虐げられてきたわけではないので、それくらいは分かる。


 できるだけ傷に障らないように気をつけて、ぎゅっと掴んで上に引くとナイフが机から抜けた。


 貫通して手のひらに穴が開いている様子をはっきりと見て、ああいう怪我をしたときの痛みを想像してしまい、ぞわぞわと鳥肌が立つ。


「エリエノール……ごめん」

「殿下」


 サイードはナイフが刺さったままの手を、エリエノールの背に回して抱きしめてきた。

 耳元でまた「ごめん」と呟かれてから、頬に柔らかな唇が触れる。またもや女子生徒たちの悲鳴が聞こえた。


「ごめん、本当、に」


 サイードはそう言うと突然力が抜けたように、こてんとエリエノールの肩に頭をもたれてきた。熱い息がこちらにかかる。


 レティシアの白い手がこちらに伸び、サイードの額に触れた。


「すみませんサイード殿下、少し失礼します……殿下、熱がおありですね?」


「エリエノール様、殿下を医務室に連れて行くようにと、先生が。この様子ですとおひとりでは無理でしょうから、わたしも付き添います。わたしたちが殿下のことはお連れしますので、レティシア様は調薬の続きをなさってください」


 いつの間にかアベルは、先生へ指示を聞きにいってくれていたらしい。アベルがサイードの体をエリエノールから離し、右腕の下に身を差し入れて彼の体を支える。


「左手は挙上させておけば良いですか?」

「はい、そうですね。お願いします」

「はい」


 サイードの左手を持って、彼の心臓より高い位置に挙げさせる。背の低いエリエノールでは少々不格好になってしまっているが、今はそんなことを気にしている場合ではないだろう。


「エリエノールさん、アベル。サイード殿下のこと、お願いしますね」

「はい、レティシア様」



 アベルとふたりで協力して、サイードを医務室へと連れて行く。廊下を歩いていると、ふとひとつの疑問が頭に浮かんだ。


「あの、アベル様」

「なんですか、エリエノール様」


「こういうときって、いつも生徒に医務室に連れていかせるのですか? 授業をしている先生は他の生徒のことを見なければならないにしても、普通はこんな危険な指示しませんよね?」


 授業中に何かあって医務室に行く際は、基本的にはペアで一緒に行くことになっている。

 だからエリエノールが付き添うのは当然のことだと言えるのだが、だとしてもエリエノールに医務室に連れて行くように指示をするのは、この状況だとどうにもおかしい気がする。


 アベルに言われたまま流されて、今はこのようにサイードを支えながら歩かせているが、刃物が貫通したような傷があれば普通は怪我人を歩かせたりしないはずだ。


 例えば担架を使って運ぶなどして、できるだけ安静にさせて医務室に連れて行くのが最適なはず。


「……言われてみれば、そうですね。何故わたしも気づかなかったのでしょう」


 やはり、最近何かがおかしい。サイードの従者であるアベルがこのことに言われるまで気づかないのも、先生があんな指示をしたことも。


 突然漂うあの血のような匂いが、何か関係していたりするのだろうか。


(血の匂い……でも、あれってなんか――)



 サイードを医務室に運び終えると、アベルは魔法薬実験室へと戻っていった。

 エリエノールはサイードに付き添い、学校医が彼の傷を治癒するのを待つ。


 人間が魔力を持つようになった後のこの世界において、人間は傷を治すときに、自然治癒力と魔力の両方を使う。


 サイードがエリエノールに今までかけてきた治癒魔法は〝完全治癒魔法〟と言い、魔法をかけ終えた瞬間に傷が治っているというものだ。


 これは術者の魔力を使って傷を治すものであり、軽い傷ならまだしも大きな傷にはほとんど用いられることはない。

 治癒師や医者が完全治癒魔法ばかり使っていては魔力がすぐに足りなくなって、多くの患者を治療することができなくなるからだ。

 サイードが毎度エリエノールに完全治癒魔法を使ってくれることは、かなり贅沢な扱いである。


 それでは治癒師や医者がよく使う治癒魔法は何かと言うと、それは〝治癒促進魔法〟だ。


 問題が生じている部分に治癒の流れを「教える」魔法をかけて円滑に治るようにさせるもので、治療には魔法薬や一般薬を併用する場合もある。


 治癒促進魔法は、例えて言うなら治癒魔法のレシピのようなものだ。これをかけられるとそのレシピに従って、魔力や自然治癒力が治療をしていく。


 例えば以前エリエノールの足の骨にひびが入ったときには骨の繋げ方を教える魔法をかけられて、エリエノールの自然治癒力がそれに従って足の骨を繋げてくれた。

 治癒促進魔法をかけてもらえれば治し方の道筋がはっきりとするので、変に曲がった状態で繋がってしまうことなどはない。

 

 今回のサイードの場合、皮膚の修復法は確実で、あとは筋肉や腱の修復法――刺さり方が悪ければ骨の修復法も教えられているのだろうか。


「終わったわよ、エリィちゃん」

「あっ、メリー先生。お疲れさまです。……殿下のご様子はいかがですか?」


 学校医のひとり、メリー先生とは合宿のときにお世話になってからまあまあ仲良しになっていて、「エリィちゃん」と愛称で呼ばれるような仲である。

 歳はそれなりにいっているそうなのだが、老いを感じさせない美魔女さんだ。


「左手の怪我は、少なくとも今日一日は包帯を外せないわね。体調の方はただの風邪のようだから、良ければ明日には戻れると思うのだけれど……。まあとにかく、エリィちゃんがしばらくそばにいてさしあげて」

「はい、了解です。もう入っても大丈夫なんですか?」

「たぶん大丈夫よ。一応声はお掛けした方が良いと思うけれど。じゃ、お願いね」

「はい、メリー先生」


 メリー先生が医務室の受付のところに去っていくのを見送ってから、エリエノールはサイードのいるベッドを囲うカーテンに近づいた。

 いきなり開けるのもいかがなものかと、カーテン越しに声を掛ける。


「殿下、お邪魔しても良いですか?」

「……うん」

「では入りますね。失礼します」


 白いカーテンをそっと開けて、中へと入る。


 サイードの左手は包帯でぐるぐる巻きになっていて、彼はベッドの上でぐったりとしていた。

 彼がこんなふうに弱っているような姿を見るのは初めてで、いささか衝撃的だ。


「左手の具合は、いかがですか」

「……そこそこ、痛いな。……座ったらどうだ?」

「では、失礼しますね」


 サイードに促され、お見舞い用の椅子に静かに腰掛けた。彼の体は熱のせいかじっとり汗ばんでいるようで、こめかみからすっと汗が落ちるのが見えた。


「汗、お拭きしましょう、か?」

「うん……」

「額のタオルも、冷やし直しますね」

 

 ベッド脇のサイドテーブルの上には、タオルや冷水を張った洗面器が置かれている。

 サイードの額の上のぬるくなったタオルを冷水に浸けて絞ってまた額の上に載せ、別のタオルも冷水で濡らして絞った。


 こめかみや首筋から滴る汗を、それで拭っていく。


「んっ……」

「すみません、冷たすぎましたか?」

「いや、それは大丈夫、なのだが……」

「なのだが?」

 

 サイードはにわかに苦しげな表情をして、エリエノールからぱっと視線を逸らした。

 ぎりっと歯ぎしりの音が聞こえた後に、絶望的だと言えそうな響きの「ごめん」の言葉が聞こえる。


「殿、下……?」

「エリエノール、ごめん」


 サイードの右手が、くいっとエリエノールの肩を抱き寄せた。


 そして後頭部に手を回され、彼の顔が近づき――唇に柔らかく湿った熱が、触れた。



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