13. 変わりたくない 「ひとりで苦痛に耐えるのはやめてくれ」
【注意要素】
痛い描写(禁呪による)、R15かもしれない
頭がくらくらして、目の前が霞む。
痛くて痛くて死んでしまいそうだ。
誰か、助けて欲しい。
「で――、っ……」
ついサイードに助けを求めてしまいそうになったが、どうにか口を閉ざしてその声を止めた。
こんな状態で、近寄られてどうする。
諦めて命令に従うと言うのか。
個室にふたりきりでエリエノールが服を脱いで誘惑なんてしていたら、彼の婚約者であるレティシアに顔向けができなくなってしまう。清くあらねば。
何も余計なことを言わずに済むように、唇を強く噛んだ。
ゆっくりと口の中に鉄の味が流れてくるが、そんなことはどうでもいい。
唇が切れる痛みなんて感じないほどに、すでに体は痛みで満たされている。
目を瞑ると、意識が遠退きそうになった。
もう駄目なのかもしれない。
ゆっくりとゆっくりと、暗い底へと落ちていくような感覚がする。
もう、死ぬのだろうか。
最期くらいは、安らかに終わりたかった。
いつも痛いことばかりの人生だった。
こんな場所で死んでしまったら、死体の処理はどうするのだろう。男子寮で女子生徒の死体が発見されたら、まあまあな事件な気がする。
サイードに嫌疑がかけられなければいいが――なんて、死ぬ側がわざわざ考える必要はないか。
そうしてわずかに残る意識が死を考え始めたとき、唇に何かが触れた。
落ちていた意識が、ほんの少しだけ引き上げられる。
「……血が出てるから、噛むな」
サイードの声が聞こえた後に一拍遅れて、いま彼の指が唇に触れているのだと理解した。
エリエノールが気づいていない間に、彼はこちらに近づいてきていたらしい。
彼の指が噛むのをやめさせ、唇の上をなぞる。ぬるりとした感触を覚えると同時に、血の匂いが微かに漂うのを感じた。
触られると、やんわりと苦痛が和らぐ。
唇にあたたかさを感じる。
目を開けると、霞んだ視界でも眩いオレンジ色の光が感じられた。
どうやら彼は、軽い傷なら無詠唱でも治癒できるようになったらしい。
指でもう一度唇をなぞられた後、身を起こされて抱きしめられる。
「っ……」
エリエノールは今、ほとんど流されそうになった。
服なんて脱ぎ去って蠱惑的に彼に迫ればもう楽になれるのだから、そうしてしまいそうになった。
しかし、本当はそんなことしたくない。
手を強く握って手のひらに爪を立てて、手が余計な動きをしないようにした。
今ある全ての力を手に加えていると言えるほど、強く握る。爪が手のひらに食い込む。
襲ってくる絶え間ない苦痛と、心の中を支配する不安と恐怖、魔法でつくられた自分の意思に反する偽りの欲と、それを煽るうるさい声。
そんなものたちのせいで、エリエノールはもうどうにかなってしまいそうだった。
理性で持ちこたえるのも、もう限界に近い。
サイードに触られたらいくらか楽になってしまったから、もっと楽な方に流されたくなってしまう。
その結果が凄惨なものになる可能性を知っているのに、意思が弱く、揺らぎそうになってしまう自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
頭の中の声は、まだうるさく騒ぎ立てている。
「やめて、ください。殿下。触らないで……!」
「こんなに苦しんでいるのに、放っておけない。どうすれば君を楽にできる?」
エリエノールは必死で耐えようとしているのだから、今、そんな甘い言葉を囁かないで欲しい。
『殿下を押し倒して服を脱いで見せつけなさい』なんて言う馬鹿な声を、必死に押し退けているのだ。
「本当に、やめてください……優しいこと言わないで……」
「君にかけられているのは、おそらく服従の魔法だろう。何を命じられた?」
「……っ、言え、ません」
ここで言って、どうする。
言って、それでサイードにまで「従ってしまえ」と言われたら。
きっと今のエリエノールの理性は、折れて従ってしまう。
本当はそんなことをしたくなくても服を脱いで、普段は出せないような甘い声で彼を誘惑してしまう。
そうしたら……その後は、どうなるのか。
「きっと本心ではやりたくないことをやるように命じられているのだろう。でもどうにか折り合いをつけないと、君が死んでしまいそうだ。一度の魔法で持続する効果は、長ければ三時間ほど。その間ずっと苦痛に耐え続けるのか? 服従の魔法は……本当に死ぬかもしれない魔法だぞ?」
エリエノールだって、こんな苦痛早く終わりにしたい。
こんな魔法で死にたくない。
だけども、サイードのことを信じられないのだ。
男の人は、誘惑されると狼さんになってしまうことがあるらしい。そうなって、食べられてしまったらと思うと恐ろしい。
「……おいしくないので、食べないでくれますか……?」
成人祭の日には、『食べたりはしない』と言った。
サイードが嘘つきでないなら、エリエノールが誘惑しても食べないでくれるのだろう。
けれどその前には、『僕も男だからな』と言っていた。つまりそれは狼さんになってしまう可能性があるということで、これではどっちなのか分からない。
もしこれで万が一のことがあったら、どうしよう。
今も服従の魔法のせいで痛くてたまらないが、食べられてしまうのもきっと痛い。
触れ合っていちゃいちゃするだけなら痛くないが、レティシアと婚約しているサイードといちゃつくのは悪いことだ。
清廉潔白な関係で、いたい。レティシアとは仲良くできる関係でありたいから、後ろ暗いことを抱えたくない。
「……ああ、食べない。君の本心が嫌がるようなことはしないと誓おう。できるだけ君の本心を尊重して、命令に従う方法を探す。だから、ひとりで苦痛に耐えるのはやめてくれ」
その声は、懇願しているようだった。
彼を信じてみてもいいのだろうか。
本当にエリエノールが嫌がることは、悪いことは何もしないでくれるだろうか。
サイードに触れてから多少は痛みが和らいでいるが、それでもまだ辛くてだんだん意識が薄れてきている。
いっそ気絶でもしてしまえば楽かとも思ったが、ここで意識を失った後に必ず生きていられる保証はないのだろう。
「本当に、嫌なことはしないから。信じてくれ」
「……殿下」
こうも請われたら、とりあえず信じてみてしまおうか。
サイードだって馬鹿ではない。成績の点においては抜群に優秀だし、多少我儘で自己顕示欲が強い側面があっても、王太子としての立場は一番サイードが理解しているはずだ。
〝食人事件〟なんて起こしたらきっと王位継承権を剥奪されてしまうから、サイードは狼さんにはならないはず。サイードとレティシアは仲睦まじい婚約者なんだから、その仲に亀裂が入るようなことをサイードがすることはないはず。
もういい、言ってしまおう。なるようにしかならない。何があったとしても死ぬよりはましだ。
どうにか少し顔を動かして、サイードの耳元に寄った。その動作だけでもかなり体力を消耗させられたように思う。睡眠不足と魔法で疲れた体はひどくだるく、変な熱を持って重い。
口にすることさえ恥ずかしい内容を、大声で言える気がしなかった。だから小声でも彼に聞こえるように、頑張って近づいた。
「あ、の……殿下……」
「うん」
震えた掠れる声で言葉を紡ごうとするエリエノールの背を、サイードがそっと撫でる。
ただそれだけのことなのに、目頭が熱くなってしまった。その手から優しさを感じて、本当に心から彼を信じてしまいそうになる。
とうとう消え入りそうな小さな声で、告げた。
「っ……殿下の前で服を脱いで……殿下を誘惑してこいと……そう、言われました」
背を撫でていたサイードの手が、ぴたりと止まった。
いや、手だけではない。
サイードの全てが、その瞬間に止まったようであった。呼吸すら止めているのではないかというほどに静止した、数秒間。
「あの、殿、下……?」
「あー……、うん。そうだよな。うん。なるほど、理解した。……まだ痛いし苦しいよな?」
「は、い」
早口で言ったサイードに、エリエノールは頷いた。まだまだ胸と頭は痛く、息は苦しい。先程床に倒れたときが頂点だったが、今もまだかなり辛い。
「手短に言おう。とりあえず服を脱げ」
「……は、い」
一瞬ためらったが、手は思いの外あっさりと自分の服へと伸びた。苦痛の中でも命令に従う動作は自然に行えるらしい。
すでにいくつか外れていたブラウスのボタンを外していくと、面白いほどに苦痛はどんどん和らぎ、頭の中の声も大人しくなっていった。
「いや、待て、ちょっと待て」
しかしそんなとき、何故かサイードがエリエノールの手首を掴んだ。なんとなく焦っているような、困っているような感じの表情に見える。
「なん、ですか」
「その、あの、あー……、そうだな。ローブでも被って、その下で脱げばいい。ほら」
サイードはまた早口でそう言うと、驚くほどの速い動作でエリエノールに自分のローブを羽織らせた。袖に腕は通さずに、一枚は普通の向きで着せられ、その上からもう一枚を前と後ろが反対の向きで着せられる。
すっぽりと体全体が紺色に包まれ、雨乞いの儀式に用いる古の呪具――てるてる坊主のようになった。
「これで大丈夫だ。さあ、脱いでいいぞ」
「……ありがとう、ございます?」
彼が何をしたかったのかいまいちよく分からなかったのだが、数秒した後になるほどと理解した。
サイードは、エリエノールが服を脱いだ姿を見せずに済むようにしてくれたのだ。意外と気を遣ってくれているようなことに驚くともに、感動さえ覚える。
ローブの中でもぞもぞとしながら、服を脱いでいく。その間は、苦痛をほとんど感じなかった。代わりにと言えばいいのか、多少の羞恥を覚えてはいたが。
その間サイードはちらちらとこちらを見たりそっぽを向いたりと、首が忙しそうだった。「殿下の前で」という命令ゆえに全く見られていないと不履行となりそうだから見られるのは仕方ないが、ちょっと目が合ってしまったりするとめちゃくちゃ恥ずかしい。
自分の服が下着まで、するりと全て体から離れる。
「あ、の……殿下?」
「な、何だ?」
「その……えっと……脱ぎ終わり、ました」
「……ああ、うん」
どことなく、気まずい空気が流れる。今のエリエノールは、自分の服は一枚も纏っていない。サイードに着せられたローブの下は裸である。
(やだ、変態みたいじゃん……)
改めてそんなことを考えると、顔が熱くなってきたような気がしなくもない。今の状況は、なかなかに危うい。
そんな中、『誘惑しなさい』という声が頭の中に反響してずきりと痛んだ。そういえば、脱いで終わりではなかったのだ。苦痛がまた、胸と頭にひっそりと燻り始める。
「殿下……、その。どう、しましょう」
「近づいても構わぬか?」
「え、ええ。どうぞ」
じわりじわりと痛み始めた胸を押さえながら、目の前に立ったサイードを見上げた。
「どうしたら良いのか、僕も判断に困っているのだが……君は、どうしている方が楽なのだ?」
「え、っと…………」
「うん」
これに関しては、服を脱ぎ始めたときよりもためらいが大きかった。しばしどう言うかと迷った末に、思い切り眉間に皺を寄せて、口を開く。
「殿下に……触れていると、苦痛が和らぎます、が」
「……そうか」
サイードが沈黙する。エリエノールもまた、黙ったままである。
……この微妙な空気は、どうにかならないのだろうか。先の台詞を言うのもかなり恥ずかしかったのに、この沈黙がいたたまれなくてもっと居づらくなる。
「触れても、良いか?」
「……はい」
普段なら速攻で拒否するようなことであるが、今日ばかりは仕方がない。サイードに触られるのは本望ではないが、こうしないと痛いのだから仕方ない。
サイードの腕が、エリエノールの背に伸びる。そしておそらく、今までで一番優しい抱擁をされた。まるでガラスでできた細工物に触れるときかのように、体がそっと触れ合った。




