25. 離れたぬくもりを忘れたい 「今までごめんな。もう、近づかないから」
「また、ミク嬢から聞いたことによると、君の古代魔術の教科書がごみ箱に捨てられていて、さらに表紙などに落書きがされていたと」
これは、きちんと持ってきたはずの教科書が鞄からなくなっていて、寮に帰ったらミクがごみ箱から見つけたと言って渡してくれたときのことだ。
表紙は折れて、乱雑な字で罵詈雑言が書かれていた。
「あれ、落書きしたの殿下ではなかったのですか?」
(殿下、今回は派手にやってくれたなぁくらいに思ってたんですけど)
「はぁ!? 僕がそんなことするような人間に見えるか?」
「……授業中、殿下はしばしばわたくしの教科書に落書きしてくるではありませんか。あれもやめていただきたいです」
サイードは、授業中にエリエノールに絡んでくる習性がある。落書きもそのひとつで、隣の席で授業を受けているときに教科書やノートによく分からない絵やら何やらを書かれた記憶がある。今後はそういったことも控えてもらいたいところだが。
「……僕は、君への悪口は書いたことはない」
「以前『ばか』と書かれたことはあります」
「それはすまない。だが、ああいう酷いことを書いたのは僕ではない」
「……そうですか」
サイードがしゅんと落ち込んでいるような感じになってしまったので、少し申し訳なくなった。
先程の口ぶりからしてミクから書かれていた内容についても詳しく聞いたらしいから、酷い言葉を書いたと思われていたことが心外なのだろう。
(誤解しててすみませんでした)
「あと、魔法史のときの貼り紙は明らかに虐めだろう。あのふざけた貼り紙のことだ」
「貼る場所を間違えられたのかと思っていましたが、違いましたか」
これは、何故かエリエノールの背中に「私と遊んでくれる男、募集中」と書かれた紙が貼ってあったときのことだ。
授業中にサイードが見つけて剥がしてくれたが、あのときの彼はかなり機嫌が悪そうで怖かった。
(あの日は殿下が怖すぎて、全然授業集中できなかったなぁ)
「君は、少しは危機感を持て。頼むから。一昨日だって……なんでこんな怪我をしたんだ?」
「カリン様の懐中時計を探していたら転んで崖から落ちました」
間のいろいろを端折ったが、嘘は言っていない。これは嘘をつかずに誤魔化せたのではなかろうか。
しかし、残念ながらサイードは納得しなかったようだ。
「へぇ? 館に来たカリン嬢は、『時計が見つかったので、エリエノール様は先に館に向かわれたはずです』と言っていたがな。時計は見つかったはずなのに、探していたら転んだなんておかしいな? それに崖の上の柵は折れていたが、君が転んだだけで柵が折れると思うか? 君の重さでは、転んだだけでは折れないと思うけど」
「……わたくしは嘘はついていません」
(せっかく誤魔化せたかと思ったのに……)
カリンは嘘が下手なのだろうか。それともエリエノールと気が合わないだけだろうか。嘘をつかずに誤魔化そうとしたのに、ここまで言われては誤魔化しようがない。
(誰かを悪者にしないで、平穏に終わらせたいのに)
「正直に言ったらどうだ? カリン嬢が君を落としたのだろう」
「……悪いのは、わたくしです」
「君の何が悪いと言うのだ」
「……わたくし、が……殿下を誑かした、から……」
エリエノールがサイードを「誑かした」から、レティシアが「悲しんだ」。カリンはレティシアの友人だから、レティシアを悲しませたエリエノールに制裁を与えたのだ。
こうして足を怪我したのは――罰を受けることになったのは、当然のこと。
「なるほど、理解した。つまり僕のせいだということだ」
「殿下が悪いと言いたかったのではありませんが?」
(どうしてそうなった??)
なぜ今の流れでサイードは自分のせいだという結論に帰着したのだろう。サイードに非がないとは言わないが、今はエリエノールの自業自得で怪我をしたという流れではなかったか。
「でも実際そうだろう? 君が学校で嫌がらせをされていたのも、崖から落とされたのも、君が僕と一緒にいることに悪感情を持った人たちの仕業だ。……僕は女の子からとても好かれるからな。人気者も大変だ」
さすがサイードは自分が人気であることを自覚している。ここでおちゃらけたように自慢を入れてくるのは、自尊心の高い彼らしい。
しかしこちらは真面目に話をしているのにその空気を壊されたようで、エリエノールは苛ついた。
(こんなときにふざけないでよ)
「殿下はおっしゃる通り人気――あの、殿下?」
「うん、何だ? 姫」
「何故いま抱きしめるのですか。離してください」
サイードはエリエノールを抱きしめてきていた。今までの話を聞いていなかったのかと思う。触らないで欲しいと言ったのに抱きしめてくるなんて、どうかしている。
(人の話聞いてました??)
「君が悪いのではない。配慮に欠けていた僕の方が悪いのだ。ごめんな」
「だったら、どうか離してください。わたくしがこうして不必要に殿下に触られていることがいけないことなのです」
エリエノールは、サイードから離れようと藻掻いた。しかし、サイードの腕はエリエノールから離れない。離れようとすればするほど、かえって強く抱きしめられてしまう。
(この馬鹿力!)
「ここにはふたりしかいない」
「人目がなければ良いとでもおっしゃるおつもりですか。こんなこと不誠実です」
そう言うと、サイードがまた抱きしめる力を強めてきた。正直、強すぎて苦しいくらいだ。なんだか頭がぼーっとしてくる。
「違う。今だけだ。学園に着いたら、もうこんなことはしない。誓う。だから今だけは、君に触れることを許してくれ」
どうしてまた、こんな台詞を哀切の籠もった声で言うのだろう。
サイードはエリエノールと一緒にいると不機嫌なことの方が多くて、絡んでくるのは、冷たくされるのに慣れていないから構って欲しいとかいうだけのことで。
つまりこの接触はサイードの不満を埋めるためのもので、そこに思いやりなんてなくて、彼は何もできないエリエノールのことなんて嫌いなはずなのに。
何故こんな寂しそうな、悲しそうな声を出すのだろう。
(仕方ない)
「……今だけですからね」
きっとこの我儘な王子様は、いくら拒絶したって今はエリエノールを離してはくれないのだろう。これからはこんなことはしないと誓ってくれるなら、今くらいはその我儘を許してやってもいいだろう。
これで無駄な関わりを絶って、ミクの不吉な恋の予言も絶てるなら、エリエノールは満足だ。エリエノールなんかがサイードと結ばれたって、誰も幸せにはならないのだから。
歩いていくと何時間もかかる道のりだが、飛んでいけば一時間もかからずに学園まで着いた。サイードは上空から学園の建物の輪郭が見え始めた辺りでエリエノールを解放し、そこからは必要最低限の接触しかしてこなかった。
学園に着いてから、ふたりは医務室へと向かった。途中松葉杖をついていたエリエノールが転びそうになったのをサイードが支えた以外は何の接触もなく医務室に到着した。
学校医にエリエノールが診てもらったら、足の回復は順調だが疲れのせいかどうやら風邪をひいているようだということだった。
合宿中も医務室で過ごしていたエリエノールは、学園でも一晩を医務室で過ごすことになった。一応念のためということで、明日の授業は欠席することにもなった。
これでエリエノールは合宿の日と合わせて計四日間、ほとんど何もせずに過ごすことになったということになる。今日は早く寝たほうが良いという学校医の言葉を受けて、夕方頃にはもうベッドに入った。
エリエノールがぼんやりと天井を眺めていると、医務室にサイードが入ってきた。サイードはエリエノールのいるベッド脇の椅子に座り、しばらく黙り込んでいた。
(ずっと黙っちゃって、何しに来たんだろう?)
エリエノールはときどきサイードの方を見ながら、天井を見たりベッドの周りのカーテンを眺めたりした。そうしてかれこれ五分程が経ったかという頃、サイードはようやくおもむろに口を開いた。
「関わらないようにするということだったのに、こうして訪ねてすまない」
ずっと黙っていた末の開口一番がそれかと思ったが、先程話したことをサイードがきちんと守ろうとしているのだと分かったことで少し安心する。
「どうしてここにいらっしゃったのですか?」
訳もなくここに来たのではないだろうと思ったエリエノールは、サイードに尋ねた。今のサイードは、どこか沈んでいるように見える。
(何かあったのかな?)
「ミク嬢に言われて……謝りに来た」
「ミクさんにですか」
ミクはいったいサイードに何を言ったのだろう。余計なことを吹き込んでいないといいが。エリエノールは影を帯びたオレンジ色の瞳を見上げる。
「僕が君を裸足のまま舞踏会まで連れ出したから、君は体調を崩したのだと。冷えは女の子の大敵なのに、と文句を言われた」
「……ああ、そんなことでしたか」
たしかに昨夜は裸足だと寒かったが、それだけが風邪をひいた理由でもないだろう。そんなにわざわざサイードが気にするようなことでもないのに。
「だから、それについて謝りたい。すまなかった」
「殿下のせいではありません。わたくしが体調管理を怠っていたところもありますし、何より単に疲労のせいでしょう」
「あと……僕は君の足枷にしかならないと。僕と一緒にいると嫉妬されて、君が辛い思いをするのだと。……だから、離れた方が良いと」
「それも、ミクさんが?」
「ああ」
驚いた。ミクは小説の影響を受けてエリエノールとサイードを一緒にしたがっていたから、サイードにそんなことを言うとは思ってもみなかった。彼女はいったい何がしたいのだろう。
「君やミク嬢の言う通りだ。僕が君と一緒にいるのは良くない。今までごめんな。もう、近づかないから。……お大事に。おやすみ」
そう言って笑ったサイードの微笑みが、なんだか痛々しかった。エリエノールの望み通りサイードから離れることができるのだから喜ぶべきなのに、その微笑みを見ると少し胸が痛んだ。
あんな辛そうな笑みを見せられたら、申し訳なく思ってしまうではないか。
「……おやすみなさい」
背を向けて去っていくサイードに、何かを言うことはできなかった。傷ついたような表情をした彼を慰める言葉は思いつかなかったし、ここで慰めたらきっと離れてくれなくなる。
うまくいったはずなのに何か後味が悪いような感覚を覚えながら、エリエノールは眠りについた。
夢の中で誰かに抱きしめられたようだったが、それが誰なのかには知らないふりをした。
起きたときにいつもより寒い気がしたのはきっと、ただの風邪のせいだ。寂しいなんて、思っちゃいない。サイードに抱きしめられたときのぬくもりが忘れられないなんて―――きっと、ただの気のせいだ。
合宿編終了




