30話『絶望の底、希望の赤』
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「こんにちは~、会長さんとのデートは上手くいきましたかぁ? しっらゆっきさぁ~ん?」
「――――」
「どこですか~……って、うわっ、何ですかこの惨状は……!」
俺は洗面所を訪れた花灯に、無言で右手をかざした。
何か、もう少しで、湿気った導火線に火を付けられるような気がするんだ。
だから少し静かにしていてくれと、行動で訴えたつもりだった。
しかし彼女は俺の真意を知ってか知らずか、いずれにしても無視して駆け寄ってくる。
「血ぃ、すごい出てるじゃないですか! 早く手当てしないと! と、とにかくこれ巻いてください……!」
右手にハンカチが巻かれた。
ああ、アドレナリンが出ていて痛みはないが、右の拳は鏡の破片が刺さって血だらけだったんだ。
目の前の紙切れに集中していて、忘れていた。
『靴底』――紙に書かれたこの文字は、決して意味のないものではない。俺にとって価値のある言葉のはず。
落ち着いて考えろ。油断すればすぐにでもバラバラに砕けてピースが分からなくなる。思考の仕方から思い出せ。これが俺宛てのメッセージだと仮定して、俺の持つ靴、あるいは俺が知り得る靴の底面に、何かがあるはずなんだ。
「ほら、早く立ってください! 病院に行って止血しないと……」
花灯が背後に回り込み、羽交い絞めにする形で立たせようとするが、なおも俺の視線は数センチ先にある紙切れから外れない。
「悪いが今それどころじゃない――」
「言ってる場合ですか! こんなに血が流れてるんですよ……!」
業を煮やした花灯は俺の右手を掴んで、目の前に持ってくる。
どうやら紙切れしか見ていないせいで怪我の具合を理解してないと思われたようだ。
「血はすぐにでも固まって止まるから心配いらな――――、」
そしてそれは、あながち的外れでもなかった。
右手からの出血は酷いもので、それこそ赤いペンキを入れたバケツに手を突っ込んだように、すべてが赤く染められていた。
一滴、二滴――ぽつぽつと床に垂れる水音が一秒の間に何度も聞こえる。
「――――」
痛い。
そう、徐々に神経を鋭く蝕む毒を知覚し始めた――そのとき。
これまで流れた血液の量が気になり下を向いた――そのとき。
血液でできた水たまりを踏みつけた花灯を見た――そのとき。
「――――――――――まさか」
突如、雷に貫かれたような衝撃が全身を駆け巡った。
駄目じゃないか白雪ィ、探偵役が直感で犯人を当てては駄目だろぉォ――。
否――と、フラッシュバックした彼女の声に、俺は答える。答えられる。
これは直感ではない。
論理を、そして推理をすっ飛ばした"直感"で辿り着いたわけでは――決して、ない。
きちんとした道筋で順序を守って、今、俺の脳には一つの閃きが舞い降りた。
「し、白雪さん?」
刹那の静寂。見開かれた両目。俺から何かを感じ取った花灯は怪訝な声を漏らすが、やっと、やっとのことで巡り出した思考はもう簡単には止まらない。
もしこの推理が正しければ、このメッセージに込められた意味は――。
「ッ――――!」
俺はすぐに花灯の手を振りほどいて、玄関へと走る。
「ちょ、ちょっと⁉」
目的は『靴底』。
しかしそれは"今日履いた靴の"ではなく、"八月三十一日に履いていた靴の"だ。
シューズボックスの前に辿り着いた俺はそれを取り出し、靴底を確認する。
そこには推測通り、未だ赤い――あの日踏みつけた夏野の血液がこびりついていた。
「これだ。これしかない。あのメッセージが俺に伝えたかったのは――ッ‼」
辿り着いた一つの答え。だけれど、いいや――まだだ。まだ欲しい。こんなんじゃ物足りない!
俺はもっと、確証が欲しい! 疑うことを続けろ! 疑心暗鬼になれ! 小さなこの火種を消さないように薪をくべ続けるんだ!
歯車を動かせ! 車輪を動かせ! 決して――思考を止めるな!
「ッ、く――‼」
慌てて靴を履いた俺は、そのまま洋館を飛び出した。
南坂を下り、町中を走り、奔り、必死に、がむしゃらに雑踏を駆け抜ける。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ――――ッ、‼」
息が苦しい。心臓が痛い。手の痛みなんかがどうでもよくなるくらいに。
こんなに走ったのは本当に久しぶりのことだ。
乾燥した口内を舌でなぞりながら、唾を飲み込む。
いつ倒れたって不思議じゃなかった。脳は軽い酸欠状態で、一秒後には足がもつれて転ぶというイメージが波のように押し寄せる。
だけど、それでも――俺は力強く一歩踏みしめて、走り往く。
早鐘を打つ心臓を抑え、生の実感ともに俺は行くんだ。
あの日、俺が背を向けて無様に逃げた――教会へ。
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「ッ……、着いた……!」
少し立ち止まると、全身の力が抜けて倒れそうになった。それを何とか堪え、額に滲む汗を拭う。
熱い。全身の血液が沸騰しているかのようだ。
定まらない焦点を無理やり合わせて、とにかく少しでも足を動かす。
「はあ、はぁ………ッ……‼」
昼間だからか、教会の扉は開いていた。
「お、おい、君⁉」
中に入るのと同時に、神父が驚いた様子で俺を見た。
当たり前か。誰だって、右手を怪我し息も絶え絶えな男が駆け込んでくれば警戒するだろう。
だが俺はその声を無視して螺旋階段を上る。
――八月三十一日。この場所で美原夏野は十七夜月さくらによって殺された。
死因はナイフで刺されたことによる失血死。
俺の中では、それが真実となっていた。
真実とは情報を多角的に見極めることで浮かび上がるものだというのに。
それを理解していながら俺は――見極めるどころか、目を向けてすらいなかった。
そう、俺は美原夏野のその身がナイフによって引き裂かれるところを、その決定的瞬間を――目撃していない。
眼前で彼女の命が奪われる現実を受け入れられなかった俺は、目を逸らした。目蓋を閉じた。
おそらくさくらは、分かっていたんだ。
俺が目を瞑ることも、直後に聞こえた"何かが床に倒れたような音"と"血液が垂れているような水音"によって誤解するところまで――全部。
よくよく思い返してみれば、さくらは一度だって遺体や死体という言葉を使っていなかった。
だからこれは、俺が思考を止めなければ分かったことなのだろう。
階段を上りきって踊り場に出ると、すぐに敷かれたカーペットへと目を向けた。
綺麗だ。既に新品に取り換えられている。あの日の痕跡はない。
だけど――飛び降り防止用の手すりに近づき、その根元を注意深く観察すると。
「あった……」
俺が見つけたのは微かに残った赤い線。
それはきっとあの日に付着した夏野の血液――いや違うな。これは血液なんかじゃない。その証拠が、ここに残った赤い線と、赤い靴底だ。
だってそうだろう。
本物の血液なら、数十分で変色が始まる。
鉄分が酸化し、鮮血はすぐに濁った茶色へ、最終的には黒くなるのだ。
丁度この、花灯のハンカチに浸みこんだ俺の血のように。
つまり俺がこれまで夏野の血液だと思ってたものは、そう思わせるための偽物だった。
血糊か何かで、あの死は演出されたもので――だから、それがどういうことかと言うと。
「夏野は生きてる」
静かに、言葉にして噛み締める。希望を、光を。
そしてもう一度。次は喜びと願いを込めて。
「夏野は……生きている……ッ‼」
八月三十一日以降、彼女の視点で何があったのかは分からない。
けれどあのメッセージは夏野が俺に送ってくれたもののはずだ。
その身を連れ去られても、遠ざかっても、それでも彼女はまた――俺の欠けた部分を埋めてくれた。
会いたい。夏野に、会いたい。
「なら、やることは決まってるじゃないか……」
右手を見る。あのとき、鏡に映っていた自分ではない自分はもういない。
俺がこの手でバラバラに砕いた。だから、もう。
悲しみに浸るのは――終わりにしよう。
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堕ちるところまで堕ち、欠けた部分を夏野に補ってもらって、ようやく全部の覚悟ができた。
――俺はこれから、十七夜月さくらという"特別"で"孤独"な少女のすべてを解き明かす。
だがその前に、翌日の月曜。俺は夏休みから通算しておよそ一か月半ぶりに登校した。
私立桔梗高校。この場所には一つだけやり残したことがある。
それをちゃんと拾っていかないと。
きちんと誠意を持って真摯に向き合うと、そう約束した。
果たせなかった誓いがある。落胆させてしまった人がいる。
でも、だけど、俺は何度だって立ち上がるよ。
すべてが無駄だとしても、抗い続けることそのものに、意味があると信じて。
――美原夏野を何に変えても守り抜く。
――十七夜月さくらとの宿命に決着を付ける。
――そして。
「風見織姫。あなたに話があって来た」
「白雪、君…………」
俺は彼女の恋心に正面から向き合い、きちんと告げる。
謝罪を。感謝を。そして別れを――。




