27話『そのときはまた手を繋ごう――愛しい白雪』
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「ふふふっ――ああァ、とても気分がいい。さすがは私の愛する白雪だよ。少々ヒントを与えすぎたかと思っていたが、結果が出た以上は何も言うまい」
雷光によって投影されたステンドグラスの模様が、俺の視界を歪ませる。
呆然としていた。夢を見ているのかと思った。
けれど何度目を疑っても――十七夜月さくらが目の前にいるという事実が、変わることはない。
「あ……え…………?」
楓と汐音の釈放、何者かに差し向けられた独善の代弁者、夏野の誘拐、ホワイトキラーからの接触、大切な人を疑い、考え、迷い、手が届いてしまった真実――。
思考という名の泥沼に足を取られていた俺はたった今、脳がパンクし、もはや理解することを完全に放棄していた。
揺らめく小さな炎に照らされる十七夜月さくら。
その姿も、声も、紛れもなく俺の知る彼女のものだ。
花灯と似た背格好で、口調は織姫に似ていて――見慣れないのはその表情くらい。
彼女は誰の前でも、それこそ俺の前でだってどこか憂いを帯びた表情でいることが多かった。
達観しているというか、感情を抑えているというか。
けれど今のさくらはあまりにも楽しそうで、嬉しそうで――何かに狂い酔っているかのような、恍惚とした表情を浮かべていた。
「ふふふ、くっふふふふふふ――――」
さくらは軽快な足音を立てながら螺旋階段を下り――膝をついて呆然としている俺の前へとやってくる。
揺れる白銀の髪。水晶のような青色の瞳。過剰なまでに整った顔。
神がこの世に遣わした天使――あるいは神そのものとさえ思わされるその姿が、眼前に"在"る。
「いつまで呆けている、と言いたいところだが気持ちは分かるとも。ふふ――手を出せ、白雪」
さくらは柔らかい笑みを浮かべて俺の手を取り、それをそのまま自分の胸に押し当てる。
「な、っ……」
「ほら……心臓の鼓動を感じるだろう?」
今度は髪、次は頬、そして首から鎖骨、胸、脇腹、腰、太ももと体のラインをなぞるように移動させ、最終的には臍の下、子宮のある位置に手を置いた。
温かい。体温を感じる。確かに生きている。
鼻孔をくすぐるのは、昔と同じ心が安らぐフローラル系の香り。
それから愛おしそうに指を絡めてきたさくらは、俺の耳元で脳に直接響くような甘い声を発した。
「君とは肌を重ねた仲だ。ここまで触れればもう理解しているな? 私が十七夜月さくらであることは紛れもない真実だよ」
「……ああ」
頷くしかない。彼女は俺の知る十七夜月さくらだ。
誰かのなりすましでも、手の届かない蜃気楼でも、俺の心が生み出した幻影でもない。
ちゃんと生きてここに存在している、一つの生命なんだ。
自然と口元が緩んだ。
どれだけ彼女の死を否定しただろうか。
どれほど彼女との思い出に縋っただろうか。
夢が叶ったような気分になり、笑みがこぼれた。
だって仕方ない。今の俺は、きっと復讐を達成したときよりも大きな幸福感に包まれているのだから。
そうして間抜けにも、愚かにも、これまでの会話を忘却し、愛する十七夜月さくらのその華奢な体を抱きしめるべく両腕を伸ばした、次の瞬間――。
「――では、続きを話したまえ」
俺は――現実に引き戻される。
「……え、……ぁ……?」
夢見心地だったはずなのに。あの優しくて温かいひとときは、かくも儚く散った。
「おやおや、君も意地が悪いな。まだ焦らすつもりかい? 私があの事件を起こした動機だよ」
そうだ。十七夜月さくらは生きていた。だがそれはホワイトキラーに殺されかけて、実は生きていたなんて話ではない。断じてそんなことはない。なかったんだ。
「ほら、語れよォ、白雪ィ――」
連続殺人鬼ホワイトキラーの正体がさくらであるという最悪の真実を、それを突きつけられているこの状況を、俺はようやく再認識した。
「そ…………それは……っ……」
とっさに言葉を濁した、その刹那。
「――――」
それは、あまりにも冷淡な眼差しだった。
たった一瞬、一秒にも満たない時間だというのに、俺という存在が積み上げた過去から、この先至る未来のすべてを見透かされたんじゃないかと思うほどの――常人には計り知れない何かを視ているようなその眼光。
およそ三年彼女と生活を共にしていながら、一度も経験したことのない感覚だ。
俺は今――十七夜月さくらという人間を、どうしようもなく、ほど遠く感じた。
生きる次元が違う。生命としての格が違う。
そんな彼女の前に立つ俺は、呼吸することすら許しを請わなければいけないのではないか――そう思わされた。
「――どうやら」
張り詰めた空気が、よりいっそう重くなっていく。
彼女は後ろ髪をかきあげて吐息を漏らす。
視線は右下。左の手のひらを見せるようにして俺に向き直った彼女は、吐き捨てるように言った。
「どうやら私には、君が関わると気がはやってしまう悪癖があるようだ。急いては事を仕損じるとはよく言ったものだよ、本当に」
眉をひそめ、唇を舌でなぞり、右手を下顎に添え、何度かわざとらしく足音を立て、なおも言葉は続く。
今度は屈んで目線を合わせ、神秘を纏う青の双眸で俺を見つめる。
「ホワイダニット――事件は人が起こすものだが、しかしそこには必ず動機というものが存在する。動機があって行動が生まれ、結果は成されるのだよ。ゆえに人の心は、決して無視してはいけない。さあて、白雪はどうして、私がホワイトキラーだと思ったんだい?」
「……それ、は……ッ――――」
その先の言葉は、いくら考えても出てこなかった。
さくらは先ほど事を急いたと言ったが、確かにその通りかもしれない。
なぜなら俺の中でのホワイトキラー=十七夜月さくら説は、まだ"推理"ではなく"発想"の段階だったのだ。
選択肢を突きつけられたからこそ俺はさくらの名を挙げたが、その疑惑はまだ、点のように小さなものでしかなかった。
つまるところ。
「……推理は、語れない……語れるほど組み上がってないんだ……」
彼女の思惑も、何もかもを理解しきれてない俺は、まだこのときを迎えてはならなかったのだ――。
それを正直に告白すると、暗闇の中に輝く青色の眼が鋭く研ぎ澄まされた。
反射的に俺は目を逸らす。
まるで、蛇に睨まれた蛙だ。あるいは親の怒りを恐れる子供。
俺にとってのさくらは、今の冬馬白雪の基盤となった紛れもない親――神様のようなものだから。
彼女に負の感情を向けられることは、あまりにも恐ろしいことだった。
そして何より、彼女を落胆させてしまった事実が、苦痛でしかない。
「駄目じゃないか白雪ィ、探偵役が直感で犯人を当てては駄目だろぉォ――。 真実というものは事実を精査し、推論を立て、証拠を揃え、そうしてすべてを解き明かしたときのみに、語ることを許されるものではないかよォ……」
さくらが手を伸ばす。
病的なまでに白い肌が迫り、細い指先が俺の顎を軽く持ち上げた。
「実のところな、この未来は視えていたよ。――なあ白雪、私が何を考えているか分かるかい? 先ほどから私はいくつもの仕草を故意におこなっていた。分析できる情報は揃っているはずだ」
言われるまま、俺はこれまでにさくらがおこなった仕草を想起する。
髪を触るのは退屈、もしくは逆に甘えたいという気持ちの表れ。右下への視線は未来の自分の想像。左手、手のひらを見せるのは罪悪感を抱いているから。眉をひそめるのは困惑や嫌悪。唇を舐めるのは緊張。下顎に触れるのは自信の表れ。足音を立てるのは何かのアピール。目線を同じ高さにするのは安心感を与えつつ距離を詰めるため。目を合わせるのは相手を理解したい、あるいは理解してほしいということ。瞳孔が開くほどの強い眼差しは――欲しいものを目にしたときの反応。
それらの分析は染みついた習性のように、半自動的に脳内で処理されていた。
だがしかし、分析した情報を束ねて結論を出すための思考が、もう、どうしたって、働いてくれない。
さくらは故意に仕草をおこなったと言っていたので、つまりこの中には本心でないものもある。
その嘘さえも見破れという話なら、なおさら今の俺にはできないことだ。
「……無理だ…………分からない……」
何も考えたくない。何も見たくない。
これまで俺は、さくらの死が夢であったならと幾度となく思ってきた。
いつだって頭の片隅には、高いところから飛び降りるとか、車に轢かれるとか、そういう強い衝撃があればこの悪夢から脱出することができるんだって考えがあった。
朝、目を覚ましたら十七夜月家のベッドで起きて、まだ寝ぼけているさくらにおはようを言って、義父さんや義母さんたちと一緒に朝食を食べて、時間が来たら家を出て学校へ行って……そんな毎日が戻ってくることを夢想していたんだ。
――けれど今は、まったく逆のことを考えている。
そんな自分に涙が出るほど辟易し、いっそのこと目蓋を閉じてしまいたいと思っている。
「はあ……桔梗高校に入学した頃の君ならきっと理解できたはずだ。はてさて、恋人ができて牙が抜けたのかな。まったく、せっかく駒を用意したのにこれではまるで意味がない。全盛期を過ぎたスポーツ選手のようなみっともなさだ。本心を言えば――少し失望したよ」
軽くため息を吐いたさくらは、やれやれと大げさに両手を挙げたあと、まるで挨拶でもするように、緊張も躊躇いもなく、極めて自然にこう言った。
「美原夏野を殺す」
理由を理解する必要はない。ゆえに説き伏せる必要もない。
ある意味で潔さすら感じる宣告――。
「ぁ……ぁ、あ……ぁぁぁ…………ッ!」
とっさに何かを言おうとして、声が出なかった。
口を開けたまま、やめてくれと懇願の視線を投げるが、さくらはそれに不敵な笑みで返す。
「やめてほしいか?」
「ぁ……ッ、あ、ああ……‼ 夏野は殺さないでくれ! 君が望むなら俺はなんだってする! だから夏野だけは……頼むから‼」
「健気だねェ、妬けるよ。ふふ、いいだろう。君から見て左にある椅子、その座席の下に拳銃が隠してある。止めたいならそれで私を殺したまえ」
「ッ、そ、そんなことできるわけが――!」
「うむ、別に武器を使わなくても構わん。私も女だ。男の君には力で勝てない。だから組み伏せてその手で首を絞めてもいいぞ」
ポケットから折り畳みのナイフを取り出し、それをまざまざと俺に見せつけたさくらは、交渉も引き留める間もなく、夏野のもとへと歩き出した。
「制限時間は、彼女にこのナイフを突き立てるまでだ。決断は早くしろよォ、し、ら、ゆ、き――」
「…………ッ!」
どうする。何としてでも止めなければならない。だがそのためにはさくらを……いや、そんなことは絶対にできない。
だけど、くそ、迷っている場合じゃない。さくらはナイフを持っているんだ。さっきはああ言っていたが、直接組み伏せることは不可能。
となると手段は――、
「ッ…………‼」
俺は躊躇いながらも、拳銃を取るために体を動かす。
座席の下。光の届かない箇所を手で探っていくと、ガムテープで張り付けられた拳銃を見つけた。
重い。間違いなく本物だ。
「…………」
――しかし、これを持ったところで何が変わるというのだろうか。
さくらはおそらく、警告したところで止まらない。
夏野を殺させないためには、俺が引き金を引く以外に道は――。
かぶりを振って否定する。
さくらが本当にホワイトキラーだとしても、俺が十七夜月家で彼女と育んだ思い出は消えてはくれない。
彼女は俺に心をくれた。両親に虐げられ、孤独になった俺に優しくしてくれて、癒してくれて、人並みの生活というものを教えてくれた。
感謝してもし切れない恩人なんだ。そんな彼女を殺すなんてこと、天地がひっくり返ってもできるわけが、ない。
それに俺は決めたじゃないか。
個人が善悪の天秤を傾けるのは危険なことだ。
だから俺の復讐はホワイトキラーを警察に突き出すことなんだ……!
刹那――さくらの足音が変化した。
見れば彼女は既に螺旋階段を上っている。あと少しで、夏野に刃が振り下ろされてしまう。
拳銃を握る手の震えが止まらない。呼吸はいつまでも落ち着かず、うまく酸素が取り込めているのかも分からない。
なんとか、なんとかしないと……なんとか……何か、とにかく時間を稼ぐんだ……!
「さくら! 教えてくれ、義父さんや義母さんは生きているのか⁉」
「ふん、時間稼ぎのつもりか。可愛いやつめ」
さくらは俺の魂胆をあっけなく見抜き、そのうえで楽しそうに言葉を紡ぐ。
「――いいや、あの二人は墓の下にいるよ! 頭部だけは今も私が持っているがね、ふふふ! そうだ。頭部といえば、以前送った写真はどうだったかな? あのレプリカは中々の出来栄えだろう?」
「君が殺したのか……、義父さんと義母さんを……! 高梨康介も……‼ 神無月に協力した警官たちだって!」
「警官については答えよう。言ってしまえば、あの殺人はささやかな報復と言ったところだ。彼らは君に暴力を振るい薬まで使った。それは私以外の誰であろうと許されない行為さ。ゆえに殺した。そもそもとして『イノセント・エゴ』を通じて神無月に駒を与えたのは私なのでね。後始末の責任もあったのだよ」
「……教団にも関わっているのか……ッ?」
「ああァ――間接的にではあるが、二年ほど前からは私が支配している。アレはそれなりに便利な駒だよ。そうそう、神無月と言えば行方不明になっている弟の八木原炯依――彼はもう死んでいるぞ。例の五人を殺させたあと、自殺を命じた。きっと秋になってご老人たちがキノコ狩りにでもいけば、骨を見つけてくれるだろうなァ」
何か――深淵に堕ちていく感覚だ。
俺の知る十七夜月さくらという人間が壊れ、崩れ、別のどす黒くべっとりしたものが塗り重ねられて――同時に思い出も、端から花びらのように散っていく。
「八木原は兄に依存していた。兄弟揃ってどうしようもない性だよ。おかげで操るのは容易かった。ああ、君にとっても少しは耳の痛い話かな? ――クフフフフ、ほらほら白雪ィ、どうしたァ? タイムリミットは近いぞォ? なに、遠慮はいらん。この距離で当てる自信がないのなら駆け上がってこい!」
「くッ…………」
さくらは階段を上り終えて、いよいよ夏野の居るスペースに足を踏み入れた。
一歩、二歩、足音が聞こえる度、それが夏野に近づくたび、気持ちが追い詰められていく。
正常な思考回路などとうに焼き切れた。打開策など一つも思い浮かばない。
これ以上……俺は、俺は……ッ!
『……そう、私も……これが……好きってことなのね……』
やめろ。
『白雪のそういう顔、初めて見た。ふふ、ねえ――私のファーストキスを受け取った感想は?』
やめてくれ。
『ありがとう、白雪。おかげで私は一つ成長できたと思う。これが大人の階段を上るというものかしら。――夏の醍醐味ね』
そんな、走馬灯みたいに思い出させないでくれ。
『助けてくれてありがとう。白雪くん』
――気付けば、拳銃を構えていた。
今の俺が好きなのは、愛しているのは、夏野だ。
十七夜月さくらではなく、美原夏野という女の子なんだ。
助けないと。守らないと。
塗り潰されていく思い出も、感情も、真実も、何もかも――頬を流れる涙だって無視する。
俺はさくらに銃口を向けて、撃鉄を起こし。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……ッ、ああああああああああああ――――‼」
その引き金を引いた。
「は――――?」
はず、なのに――何も起こらない。
炸裂する火花も、銃口から発射する銃弾も、排出される薬莢も、ない。
俺はその後何度も指先に力を込めるが、しかしトリガーは施錠された扉のように固く、銃弾の発射はおろか撃鉄が落ちることもない。
慌てふためく俺を眺めながら、さくらが嘲笑と共にナイフを構える。
「ベレッタ、その銃の名前だ。映画やドラマでよく使われるものだから扱いやすいだろうと、気を使ったつもりだったのだが――すまないなァ、白雪ィ。そいつは撃鉄を起こしても安全装置を外さなければ撃てないんだよォ! クッハハハハハ――ッ!」
「やめろ……、やめてくれ……!」
その声が教会内を巡る間にも、さくらは狙いを定めていた。
そして悪魔すら惑わされるであろう妖しい笑みで、彼女は無常にも告げるのだ。
終焉を――。
「――時間切れだ。別れの祈りは済んだな」
「やめろおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ――――‼」
雷鳴。閃光。慟哭は闇を裂いて、けれども俺はそれを、目蓋の中に閉じた。
祈りも、抗いも、すべてが無意味だ。
がたん、と物音がした。"それ"がなんであるか、直感で理解してしまった。
ぽつん、と水音がした。"それ"がなんであるか、直感で理解してしまった。
しらゆき、と名を呼ばれた。俺は静かに目蓋を開く。
束の間――再び轟く雷。
一瞬の光によって照らし出されたのは、血に濡れた十七夜月さくら。
その隣に、彼女の姿はなかった。
代わりに赤く紅い液体が――二階から床に垂れている。
花でも描くように鮮やかに滲むアカ。
それは、美原夏野の、 。
「ぁ――――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……ああああ……嘘だ……嘘だ! 嘘だ! 嘘だッ‼ お、おれ、俺は……ぁぁぁぁあああッ⁉ うッ、おえぇえッ――」
嘔吐した。
涙も、鼻水も、唾液も、胃液もその場に垂れ流した。
「仕方のない子だ。掃除が大変だよ」
頭の奥のほうでガラスが割れるような音が響いている。
鐘のように何度も何度も、思い出を宿した脳細胞が破壊されていく音が鳴り止まない。
全身が痺れるほど大気が冷たい。
視界が揺らいで自分が立っているのかしゃがんでいるのかすら理解できない。
「白雪――! いいか、ゲームはまだ終わっていないぞ! この肉塊は私が預かる。返してほしければ向かってこい! 意気消沈するのも結構! だが酷いようなら私の駒を――」
まだ終わってない? 肉塊? 返してほしければ?
あ、ああ、あああ、ああああ、あああああ、ああああああ、あああああああああああああ――――――――――――――――――――嫌だ。
も
う
い
や
だ
「ああ、あああああ……‼ ああああああぁぁぁぁぁぁ…………ッ‼」
脱兎の如く俺は駆け出した。何度も転んで、体ごと椅子に突っ込んで、それでもとにかく、この目に映る全部を否定して、こぼれ落ちて滲んだ彼岸花を踏みつけて教会の外へと――。
「次こそは辿り着けよ」
俺は、逃げた。
最後に聞こえたその言葉を無視して、夏の終わりを告げる雷雨の中に身を投じたのだった。
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「宮下です。鍵、開いていましたよ。冬馬君」
『君にこんな面倒な自分を押し付けたくない。きっといつか絶対に後悔させてしまうから、君にはもっとほかの幸せなことを探してほしい! 私よりいい人なんて沢山――』。
「そろそろ答えてくれる気になりましたか? 八月三十一日の夜に何があったのか」
『――ねえ、夏休みに入ったらウチも来ていい? この、白雪くんの家に』。
「……美原夏野さんのご両親が失踪届けを出しました。彼女は八月三十一日の昼間に何者かによって誘拐された可能性が高い。そしてその日、あなたは私に嘘をつきましたね」
『髪……伸びたね』、『分かるよ。ずっと見てたもん』、『白雪くんと一緒にいるだけで楽しいよ――ウチ』、『んじゃ、その苦労は二人で分ければよくね?』、『女子のありがとうくらい正面から受け取れっつの』、『あ……あ~びっくりした。いきなり何? ってか誰よ』。
「一つ目は風見織姫主催のパーティー。あのご令嬢は話を合わせようとしてくれましたが、しかし実際にはそんなもの企画されていなかった。そしてその嘘の直前、あなたは何者かから電話を受けていた。相手は誰です? あの日、一体何があったというのですか! いい加減答えなさい‼」
『まったく――君って結構弱いわね。私が守ってあげないと、かな?』
「っ…………ぁ、ぁ………」
「はあ……次は令状を持ってくることにします。まったく。場合によっては再び病院行きですよ。冬馬白雪――」
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「不用心ですね。冬馬くん。わたしです。可愛いクラスメイトの琴平花灯です。やれやれ自宅に引きこもりとか、随分らしくないことをしてらっしゃるみたいじゃないですか。食事とかも……見た感じ、不充分っぽいですね」
「……」
「美原先輩のこと、心中お察しします。わたしにできることがあったら何でも言ってください。あ、でも帰ってくれってのは聞けません。今の冬馬くん、目を離したら何をするか分かりませんからね。っていうかいつまでもソファーに座ってると体に悪いですよ。ほら、エコロジー――ん? エコ……症候群とかで」
「……」
「冬馬くん、前に言いましたよね。ホワイトキラーとの因縁に決着をつけて、過去の清算をするって。未来にも目を向けるって。戦うこと、やめちゃうんですか?」
「っ…………」
「冬馬くんに何があったのかをわたしは知りません。無理に聞き出そうとも思いませんが、それでもとても辛いことがあったことは分かります。……だからこそ冬馬くんは、立ち上がるべきです」
「…………てくれ」
「じゃないと、冬馬くんのこれまでが全部無駄になってしまいます。冬馬くんにとっては今が一番辛い時期なのかもしれない。でもここで逃げたら、もっと辛いことになるかも。今度冬馬くんから奪われるのはわたしかもしれません。あるいは会長さん。あるいは七瀬先輩。あるいは高砂くん――そんなの嫌ですよね。夏休みがあけて、学校が始まって。でも冬馬くんはそこにいない。掛け替えのない青春も普通の日常さえも送れない。そんなの理不尽すぎますよ」
「……帰ってくれ。そんな言葉、聞きたくない」
「――嫌です。一緒に戦いましょう。自分を誤魔化してでも、無理をしてでも立ち上がって――終わらせましょう。大丈夫。わたしがいます。わたしが冬馬くんを支えます。今もほら、こうして必死にいろんな言葉を使って、何とか奮い立たせようと頑張ってるじゃないですか」
「……なんで、……そこまで……」
「だって冬馬くんがいない日常は、つまらないですから。わたしからもこれ以上、青春を奪わないでくださいよ。……なんてのは自己中心的ですかね?」
「…………ふ」
思わず苦笑いがこぼれた。
――あれから何日が経っただろうか。教会を飛び出して、それ以降、俺はこのまま死んでも構わないくらいの気持ちで時間を浪費していた。
ずっとリビングのソファーに座って。誰かが家に入ってきても知らぬ存ぜずを通して。
もう、悲しみも怒りも、慟哭も憎悪もなかった。
すべての感情が煩わしくて、ただただフラッシュバックする夏野の声を無心で聞いているだけの日々。
それが今――少しだけ、変化の兆しを見せた。
花灯……そうだ。俺の大切な友人の一人が、言葉をかけてくれた。
背後から優しく、背中を押すように。
「……花灯は、俺の前からいなくなったりしない?」
「はい、約束します」
胸に手を当てた。同じだ。さくらの胸に手を置いたときと同じ――ちゃんと、俺の心臓は動いている。俺の熱はまだ消えちゃいない。
どう足掻いたって悲しみは消えない。だけどこの鼓動がある限り、俺の目の前にはいつだって、困難に挫けず立ち上がるという選択肢があるんだ。
だから俺は――。
「……ありがとう、花灯。君の言葉のおかげで、また少し頑張れる気がしてきたよ」
「……あれあれぇ? もしかしてわたしのこと好きになってきちゃったりします? いや、いつかやるなぁと思ってましたけど、さすがに美原先輩に不義理すぎやしませんかね?」
「いいや。俺は今でも夏野が好きだよ。だから安心して」
「ちぇー、せっかく元気付けるついでに惚れさせようと思って、メイド服なんて素敵な恰好をしてきたんですけどねー」
メイド服……ああ、そろそろ文化祭の季節だからか。
もしかして学校からこの洋館までメイド姿で来たのかと、若干の疑問を覚えたが、まあ細かいことはいいさ。
「それ、ちょっと見たいかも」
「いいですよ。見せるために着てきたんです。ほら、振り返ってみてください」
ソファーに座りっぱなしで凝り固まった体をほぐしながら、後ろを向いた束の間――。
時が止まったような錯覚を覚えた。
「あ――――、」
いつか、こう思った。
俺がヤツに近づいたのか、ヤツが俺に近づいてきているのか――、と。
「ああああ――ッ、な、ッ、あああ、あああぁぁぁぁぁ――」
答えは後者であると、今、理解した。
俺はあの日、必死に逃げた。何もかもを放り投げ、見ず、知らず、壊れかけた思い出の中へと逃げ込んだ。
ゆえに――失念していた。
世の中には、逃げたところでそこから追いかけてくるものがあるということを、忘れていた。
戦慄が全身を駆け巡る。
俺の背後に居て、ずっと優しい言葉をかけてくれた彼女の姿は――銀髪碧眼。
「さく………さくら、ぁぁあああ――⁉」
俺は間髪入れず後ろに下がろうとしたが、テーブルの脚に躓いて床に背中を叩きつけた。
「嫌だなあ、人違いですよ」
「ぁ、え、――は、花灯……? ……はぁ、はぁ、あああ……ぁァ⁉」
確かに彼女は十七夜月さくらではなく、琴平花灯だった。
さくらと背丈の似た花灯が、メイド服を来て、白銀色のウィッグを被り、青色のカラーコンタクトを付けて――言ってしまえばコスプレをしている。
その瞳はどこか虚ろで、連想するのは狂った鍵盤の音を聞いて催眠状態に入った織姫のこと。
ならば次に俺の脳を支配する疑問は――花灯がなぜ、こんなことをするのか。
しかし、その思考が長続きすることはなかった。
花灯は流れるように距離を詰め、馬乗りになって俺の口に躊躇いなく舌を入れてくる。
「んッ――ぐ⁉ ……ッ⁉」
絡み合う唾液、熱の交換――けれどそこに、愛はない。
あるのはむしろ凌辱的な蹂躙。
想いも尊厳も踏みにじる地獄のような時間が刻々と過ぎ、そして互いに息苦しくなったところでやっと、重なった口が離される。
「ぷは……ッ……はぁ、はぁ……はぁ……、ははぁ……! 美原先輩とはキスってもうしてました? してましたよね、きっと。ふ、ふふ――さあ、早く頭を回して、真実に辿り着いてください。じゃなきゃ先輩の体は返してもらえませんよ。それどころか先輩との思い出……ぜーんぶわたしが塗り替えちゃうかも……ふふふふふふふふ――!」
琴平花灯編、了。




