22話『ずっと ずっと狂おしいほどに』
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窓の外、雲に覆われた鬱屈とした空。今日もか、という感想が浮かんだ。
ここしばらく太陽は雲隠れしており、雨か曇りが一日中続く先行きの見えない天候だ。
文字通り晴れない。晴天が眩しかったあの夏のバカンスが少し恋しい。
八月下旬。夏の終わりは近い。しばらく感じていなかった、しんとした肌寒さを感じ取った俺は、いつものワイシャツの上にベストを着た。
気取っていると思うかもしれないが、きちんとした服装は、それだけで印象に影響を与える。
これから会う相手を考えれば、この恰好は悪くないだろう。
――扉を叩く音が聞こえた。
深呼吸をして心を落ち着かせてから玄関へと向かう。
「どうも、水波署の高梨です。はじめまして、冬馬白雪さん」
気怠い雰囲気をまとった、三十代後半の男が警察手帳をこちらに見せた。
高梨康介――一年前、琴平陽光に横領の罪を被せた主犯。
「冬馬君、今回は警護の申し入れをしていただき、ありがとうございます」
高梨の後ろに控えていた宮下――涼子さんの部下である女刑事――が軽く頭を下げた。
「ま、立ち話もなんです。中に入っても構わないですかねぇ? 警護主任としては早いところ体勢を整えたいんで。冬馬さんとしても、いつまでも身の安全が保証されないってのは負担が大きいでしょう?」
「……ええ。お願いします」
靴を見れば、その人がどういう人間なのかがある程度分かる。
例えば宮下は動きやすさを重視したビジネスシューズを履いているが、少し汚れが目立っている。
手入れをする時間がないか、それを気にしない大雑把な性格ということだ。
一方で高梨は、同じ現場の刑事として走りやすいビジネスシューズを履いているが、宮下のものと比べて綺麗に手入れされ、さらに品質も悪くない。
金や時間に余裕があるということ。
それは高梨が身だしなみをきちんとしていることからも分析できる。
理性的な目、几帳面で広い視野を持ち、常に自分を客観視できるタイプ。
厄介だな。余裕があるということはそれだけ精神的動揺に強いということ。
どう情報を聞き出したものか。
二人を連れて館内を一通り回っている途中、ふと高梨が極めて自然にこう言った。
「確かこの館には地下通路があるんでしたよねぇ、裏山に繋がるヤツが。宮下ちゃん、ちょっくら見てきてくれないかい?」
「承りました」
俺が一階の部屋の床下から通路に入れることを教えると、彼女は部屋を出た。
必然的に、高梨と二人きりになってしまう。
ここは二階の客室。人が近づけば足音が聞こえ、かつ、室内の会話が外に漏れにくい場所。
願ってもないチャンスだ。とにかく先手を――。
「ところで冬馬さん。なぜ一度断った警護をお受けに? いや、ぶっちゃけこれはホワイトキラーをおびき出すためのおとり捜査でもあるんですがねぇ」
先に手を打ってきたのは、高梨のほうだった。
手近なところにあった木組みの椅子に座り、足を組んで俺を見ている。緊張感のない顔で。
「ここ数日、何者かにつけられて身の危険を感じた――と、話したはずですが」
「そうでしたねぇ。でも正直、私はそれが嘘なんじゃないかと思っているんですよ。百歩譲っても、本当でも嘘でもない曖昧なラインの話なんじゃないかってね。さっき外をちらっと見たんですが、監視カメラが数台設置されていて、普通の一軒家よりは厳重じゃあないですか、ここの警備」
話を聞きながら、俺は椅子を引っ張ってきて高梨の向かいに座った。
「冬馬さんの目的は警護を受けることじゃない。何か別の理由で、警官と一緒にいるこの状況が都合がいい。もっと言えば、警官の誰かと会うことが目的――とか、考えてみたんですがね」
この男、賢い。声音や口調は力の抜けた感じだが、確固たる自信を感じる。
こいつは今、俺を測っているんだ。どの程度の存在なのか。それが自分にとっての脅威となるかを。
「――腹ぁ割って、話しませんか」
逡巡――この男の前では些細な駆け引きなど無意味だろう。
だとすれば敢えてストレートに行くべきか。
「いいだろう、単刀直入に言うよ。俺はアンタと会うために警護の依頼をしたんだ。会って話を――いや、交渉したいことがある」
内ポケットに入れたスマホに一瞬意識を向けてから、俺は改めて高梨を見返した。
「ふ、おやおや、随分な態度ですね」
「仲良くなれそうにない人には、こうするって決めてる」
「そうですか。ま、構いません、続きをどうぞ」
「俺はアンタが一年前にやったことを知っている。それを白日の下に晒す準備もできている。だがアンタが素直に質問に答えてくれたら、俺はこの秘密を口外しないと約束するよ」
「おぉ、怖い怖い。秘密ってのは何ですかねぇ」
「――琴平陽光」
その名前を出すと、ほんの一瞬だけ高梨の表情に変化があった。
動揺したわけじゃない。むしろこの瞬間が来ることを予見しており、さらに己の行く先を悟ったかのような静謐さが見えた。
「アンタが証拠をでっちあげて罪を被せた男の名前だ」
「……とりあえず最後まで聞かせてもらいましょうか。それで、冬馬さんの目的は何ですか?」
「先月、神無月に手を貸していた警官五人が殺されたな? アンタは内心恐怖したはずだ。なぜなら五人を殺したのは、警察内部にいる協力者の発覚を恐れたホワイトキラーだから」
「……」
「俺はホワイトキラーに協力している警官が誰なのか知りたいんだ。不正に手を染めた警官として、その横の繋がりで誰か分からないか?」
高梨は失笑した。それから彼はしばらく考える素振りを見せて、こう質問を返す。
「もし、私がホワイトキラーに協力している警官だと答えたら?」
「それはない。アンタはあの事件で捜査に関わっていなかった」
「ははっ、確かにそれは事実ですが、それじゃあ根拠としては薄いなぁ」
「今のはアンタの反応を見ただけだ」
「おやおや、測っているつもりが逆にテストされていましたか。――でも冬馬さん、汚職警官の横の繋がりなんてあるわけないじゃないですか。弱みを握られた時点で、そいつの命はないようなモンですよ」
「なら分からないのか?」
高梨康介――この男なら必ず何かのピースを握っている。
弱みを握られた時点で終わりだというなら、自らの身を守るために周囲の人間を調べ上げるくらい、この男はやってのけるはずなんだ。
「……ここが終点、ですか」
何か話すまで納得しない。
そういう姿勢で眼差しを向けていると、観念したように高梨は口にした。
「涼子ちゃん、ですかねぇ」
その――名前を。
「………………は?」
一瞬、高梨が何を言ったのか理解できなかった。
聞き間違いを疑ったとかではなく、言語そのものが違うかのように、その名と、その名が出た意味を理解することを――脳が拒んだ。
だが、俺が面を食らっているのをよそに、高梨は言い聞かせるように言葉にするのだ。
「だから、桐野江涼子。旧姓――十七夜月涼子。彼女ならあの事件に関わっていて、それなりの立場があって、不正を犯していそうという人物像に一致する」
俺の保護者であり、同じくあの事件で家族を失った――女の名を。
「な、にを……言って……」
「ああ、証拠はありませんよ。あくまでも私が考えるに、というやつです。それと直感。一線を越えてしまった人特有の何かを感じるってところですかねぇ。彼女、夫の死後はずっと危うい感じでしたし」
思考が崩れていく。先入観が打ち砕かれて――。
落ち着け。高梨の言うことはあくまでも直感だ。根拠のない勘でしかない。
否定する材料はないが肯定する材料もない、。……ない、じゃないか。
「話は終わりですか? ならそろそろ通話を切ってくれて構いませんよ。内ポケットのスマホ、相手は風見の社長さんですかねぇ? これでも去り際は潔くが座右の銘でしてね。出頭しますよ。冬馬さんだってそうするつもりだったんでしょう? あなたは秘密を守る。でも、この会話を聞いていた誰かさんがどうするかは知らない――ってとこだ」
立ち上がった高梨は片手をポケットに突っ込みながら、ゆっくりと一歩踏み出し、開いていたカーテンを閉じた。
「ああ、そうそう」
それから彼は俺の背後に立って、肩を掴んだ。
力はない。やろうと思えば振りほどける。だがそれを考えられるほどの冷静さを、俺は既に失いかけていた。
失いかけて、次の瞬間。完全に失った。
「――私はおそらくホワイトキラーに殺されるでしょう」
「な――ッ⁉」
まるで、ナイフの切っ先を喉元に突きつけられたような錯覚を覚えた。
「元々私も疑問を抱いてましてねぇ。自分が何者かに踊らされている感覚とでも言いますか。水波署も、『イノセント・エゴ』もどっかきな臭い。だから横領事件以降は大人しくしていたつもりなんですが、ふふ、悪いことはするもんじゃあありませんねぇ」
「ならなんでアンタは……金が欲しかったのか……?」
風見宗玄の前で、罪の意識から必死に逃れようとしていたあの男のように。
何かの理由が――。
「人生山あり谷ありですよ。安心してください。報いは受けましょう。ですがねぇ、一応これでも警官の端くれなんです。ヤツが捕まってくれるに越したことはない。だから――俺の死をくれてやる」
高梨康介は冬馬白雪に告げた。
それは不正に手を染めた彼にも、警察官としての矜持が残っていたのか。
あるいは何者かに利用されたままでは癪だという、高梨の性分からくるものなのか。
いずれにしても彼はここまで来てしまった俺に、もう後戻りはできないと、俺の命を使えと言ったのだ。
俺の命を使って。
「お前が見極めろ。ホワイトキラーの正体を」
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八月二十五日。
高梨康介が逮捕され、琴平陽光の釈放が決まった翌日。拘置所内で高梨は死んだ。
死因は絞殺。自殺に見せかけた犯行だった――。




