17話『誰もが弱い世界であったなら』
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生来の美原夏野は、心というものに鈍感で、感情に振り回されず、傷つくことを知らない人間だった。
俯瞰することで生の実感から遠ざかり、どんな辛い出来事だろうと受け流せる強さがあったのだ。
だが彼女は一人の少女との出会いによって、これまで俯瞰していた――あるいは見ないフリをしていた感情を享受し、そして受け止めきれずに心ごと切り離してしまった。
分離した心には人格が宿り、二人になった夏野。
それでも彼女は俺との出会いを経て、前に向かって歩くことを決めた。
感情を知らぬ強さを持った夏野は、痛覚を受け入れようと。
感情を知った弱さを持った夏野は、俯瞰を手に入れようと。
統合は確かに進んでいたのだ。
しかし過去との邂逅で今一度、重なりかけた心は再び解離してしまい。
結果、辛い記憶に立ち向かう力を持たない夏野は――俺のよく知る彼女は。
ストレス症状を引き起こしていた。
「夏野、部屋の明かりをつけて窓も開けた。気持ちのいい夜風が入ってくるよ。スピーカーの準備もしたから君の好きな音楽を流そう。さ、立てる?」
「……サンキュ、白雪くん」
部屋の前に座り込んでいた夏野に手を差し出すと、彼女はそれを優しく掴んだ。
いや、うまく力が入らなかったのかもしれない。夏野の指先は僅かに震えていたから。
部屋に入る。
扉は開けたままだ。密閉された空間は今の夏野にとって毒でしかない。
ゆっくりと慎重に、冷たい指を引いて寝室へ移動し、夏野をベッドに寝かせる。
「マジごめん。その……ホントのウチだったら、こんなのなんとも思わないのにさ。情けないっつーか、なんつーか。夏野ちゃん、また眠りについちゃったし……」
束ねた髪を解いた夏野は、そう言って申し訳なさそうに俯いた。
謝るのは俺のほうだ。君を巻き込まないようにって思っていたのに俺は――。
だが、俺の懺悔より先に夏野が言うのだ。
「でもね、もしそれが、ホントに夏野ちゃんの願いなら、それでもいいと思ってる。ほら、したら一つ肩の荷が下りるっつーか……さ」
それが一番現実的だと、諦めたように感情を込めないで呟く夏野。
表情を見れば俺には分かる。それは本心であり、また、嘘でもあると。
「君だって俺にとっては夏野だ。ホントもウソもない。夏野はどうしたい?」
「ウチは……まだ分かんない。ごめ、ちょい……休んでい?」
「ああ。薬を置いておくよ。眠れなかったら飲んで」
必要になるだろうとポケットに入れてきた睡眠薬の小瓶をテーブルに置いて、俺は部屋を出た。
夏野は今――境界線上にいる。初めて学校の屋上で出会ったときと同じだ。
もう一人の自分を手放すか、それともただ、"いつか"を待つだけか。
なら、俺のやるべきことは――。
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「む、冬馬くん」
背中越しに聞こえた、少し舌足らずな可愛らしい声。
夏野の部屋を出て廊下を歩いていると、大量のお菓子を抱えた花灯に出くわした。
「やあ、まるでパーティーでもするような荷物だね」
「ええ、会長さんと映画を見る流れになりまして。ん……なんだか浮かない顔ですね。もしかして昼間のこと怒ってます?」
「昼間? 何かあったっけ」
「い、いえ……覚えてないならそれで」
花灯は何か隠しごとをしているようだが、心当たりがないので見当もつかない。
不思議に思い首を傾げると、花灯が誤魔化すように口を開く。
「も、もしかして悩みごとですかねぇ? よければ話、わたしが聞いちゃいますよ!」
「え? いや、いいよ。織姫先輩はどうするんだ」
「まーあの人のことですし、放置プレイだと思わせておけばいいでしょう。さ、ほら、どうぞこっちに」
前から思ってたけど花灯って織姫に当たりがきついよなぁ……。
二人の接点を考えれば、多少の意地悪が許される今の関係は、案外悪くないのかもしれないけれど。
結局俺は断りきれず、通路脇にあったソファーに並んで座り、花灯と話すことになった。
「わたし、こう見えて相談に乗るのは得意なので」
胸を張ってトンと拳を当てる花灯。残念ながら強調されるものはなにもない。
あと無理やり聞き出すことを相談とは言わない。
しかしここまでさせて何も言わないのも失礼か。
「まあ……じゃあ、せっかくだから言わせてもらうけれど。こう、弱い自分をどうすれば受け入れられるか、みたいなことを考えていたんだよ」
「へー、なんか意外ですね、冬馬くんがそんな思春期特有の月並みな悩みを持つなんて」
正確には夏野の悩みを悩む俺という構図なのだが、まあ無理に訂正する必要はないだろう。
「花灯は自分の短所を実感したとか、乗り越えたとか、そういう経験はある?」
「まあ……平坦な人生ですけれどそれなりに。ほら、わたしって小さいじゃないですか」
「そうだね。え、自分で言うの?」
「話の流れなので仕方なくです。っていうかなに一回肯定してんだこら」
「話の流れで仕方なくね。それで?」
「えーと、ですね――」
続きを促すと、花灯は一拍置いてからちゃんと話し始めた。
茶々を入れず、真面目な表情と声色で。
「わたし昔から背が小さいので、こう、いじめられる――まではいかなくても同級生から、からかわれることがあったんですよ」
「幼少期はそういうの多いだろうね」
体格でも髪や目の色でも家庭環境でも、なんだっていい。
周りと違う。幼い心はそれにひどく興味を覚えて、あるいは悪いことのように思えて、触れられずにはいられない。
それで相手が傷つくことなんて、構わずに。
「でも学年が変わって、わたしより背が低い子と一緒のクラスになったら、今度はその子がからかいの対象に――そしてわたしは反対にからかう側になった。いいえ、なりかけました」
「踏みとどまった?」
「はい。けど別に正義感があったとかじゃあないですよ。ただ何となく、もしこの子が急に大きくなって、仕返しでもされたら嫌だなって思ったんです。人を呪わば穴二つ。因果応報。もっと簡潔に言ってしまえば、相手に殴り返されるのが嫌だから殴らなかったって話ですよ」
そして結局は見て見ぬフリをした、と花灯は嘲笑を込めて語った。
「ひどく自分勝手な理由ですよね。でもわたしはそこで自分が弱いことを受け止めました。同時に、もし人がみんな弱くて、強さに怯えて――自分がされて嫌なことを他人にしない生き物だったらいいのになって、思ったんです。それはそれで優しい世界じゃないですか」
少し捻くれた笑顔を浮かべて、花灯は窓の外を見上げた。
差し込む月明かりと暖色の照明に照らされる彼女を横目にして、俺は思う。
最終的に弱い自分を拒絶した神無月。
一方で弱い自分を受け入れられない夏野。
そして弱さを望む――花灯。
きっと、一番芯がブレないのは花灯だ。
己の欠点を受け入れているからこその、強さと優しさを兼ね備えている。
「冬馬くんが聞きたいこと、言えましたかね。わたし」
「ああ、多分。結構しっかりしてるんだね、花灯は」
「不祥ですね、その言い方。っていうか冬馬くんなら見れば分かるんじゃないですか? その人の考えていることや人となりが」
「俺は万能じゃないよ。分からないことなんていくらでもあるさ」
「そんなもんですか」
「そんなもんだよ」
それから何となく二人で笑い合って――俺は視線を上げた。
もう一つ、今度は心の底から花灯に質問したいことが思い浮かんでしまった。
これを言葉にするのはとても難しい。
きっと花灯も困るだろう。
でも、それでも――期待してしまう。
変だな。
ただ背丈が近いってだけなのに、俺には無い視点を語ってくれるこの子の姿が、どうしてか十七夜月さくらと重なる。
「ねえ、花灯」
意を決して、声を出した。
「もう一つだけ、聞いてもいいかな。結構ガチのやつ」
「ええ、いいですよ。冬馬くんが寄りかかってくれるのは珍しいことですからね」
だったらそれは、俺が変わろうとしている証拠なのかもしれない。
妙に嬉しい気持ちになって、けれどそれを抑えるように俺は、胸の内に秘めた想いを晒す。
「君は前に言ったね。ただ正しいだけの正しさは、相手に寄りそえない暴力と一緒だって。その言葉と、楓や七瀬汐音のことが、たまに胸に引っかかるんだ」
「と、言いますと?」
「二人は人を殺した。それは絶対にやっちゃいけないことだ。だから裁判にかけられ、世間からもバッシングを受けている。だけど二人が引き金を引いたおかげで救われた命がある。それを考えると、うまく言葉にできないけど――俺の中で何かが揺らぐ感じがする」
冬馬白雪の基盤。さくらが教えてくれた普通の人生。養った善悪の基準。
脳細胞が別のモノに変化していくような感覚が、今の俺にはあるのだ。
「まー……ぶっちゃけわたしも同感ですよ。七瀬先輩のお姉さんのことは詳しく知りませんけど、少なくとも高砂くんがあのとき引き金を引かなかったら、わたしたちは今ここにはいなかったでしょう。だから裁判ではそこを考慮してほしいと思ってます」
情状酌量、正当防衛――彼を守る装置がいくつあるのかは分からない。
けれど俺は、俺たちの命を守った楓の全部を間違いだと思いたくない。
「ですが――」
束の間、花灯の声色が少し変わった。
「同時にこの国は法治国家です。人を裁けるのは人ではなく法。もし冬馬くんのような個人の考えが行き過ぎれば、絶対的な被害者と加害者の関係が逆転することだってあるかもしれません」
過ちを犯した者すべてに同情すれば、それが行き過ぎてしまえば、例えば詐欺被害にあった人に『相手にも事情があった。それに、騙されるお前のほうが悪い』と言うことになるかもしれない。
極端な話だけれど、花灯が言いたいのはそういうことだろう。
「そう――個人が『善悪の天秤』を動かすことは危険だと思うんです。言ってしまえば、わたしのお父さんの無実を証明することだって、思うところがないわけでもありません」
「善悪の……天秤……」
「ねえ、冬馬くん。わたし、ずっと聞きたかったことがあるんです。答えが出なくても構わないので問わせてください」
いつの間にか、花灯は俺を真っすぐ見つめていた。
重なる視線――。
「冬馬くんはホワイトキラーに復讐することを目標としていますが、それって具体的にどういうことですか? 正体を暴いて警察に逮捕させることですか? それとも、自らの手で報復をすることですか?」
「それは――」
俺は――その問いに答えられなかった。




