15話『郷愁アンビバレント』
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「ううん……北京ダックは皮だけ食べる…………ッ、は⁉ ここは……?」
飛び起きると、目の前には海が広がっていた。
非現実的な光景だ。どうして俺はここに……。
「どんな寝言よ。北京ダックって」
――美原夏野。
綺麗な茶髪を一束にまとめ、洒落たハイネックビキニを着た少女。
俺の、好きな人。
まだ悪夢の中かと思ったが、その声と視界の端に映ったその姿のおかげで、一気に目が覚めた。
そうだ。今はバカンス中だった。
「夏野……ごめん、寝ちゃってたみたいだ。よく覚えてないんだけど疲れてたのかな……」
「思い出さないほうが幸せなこともあるわ」
「……?」
見れば夏野は水着の上にパーカーを羽織っている。もう一通り遊び終えたって様子だ。
理由は思い出せないが、俺は随分と長い間、意識を失っていたらしい。
「……せっかくの休みなのに、寝て過ごしちゃったな」
「なら二人でちょっと歩く? ほら、近くにあったコンビニでお菓子を買うとか」
お菓子――ホテルでは料理人が一流の料理を提供してくれると織姫から説明を受けたが、しかし部屋で雑談をするなら、見慣れたスナック菓子などのほうがいいかもしれない。
それに夏野と二人でどこかに行くというのは、どんな場所、目的であれ心躍る提案だ。
「名案だね。行こうか」
そそくさと着替えて、財布を持ってホテルの敷地外へ。
海岸線に沿って潮風を浴びながら、ゆっくりと並んで歩く。
季節は夏。遠くの木々からセミの声が聞こえ、反対側からは波の音が反響する。
空はほんのり赤みがかってきているが、八月ということもあってまだ日は沈まなそうだ。
ビーチサンダルの足音が二人分。時折、風に靡いた夏野の髪が肩に当たる。
ただ歩いているだけなのに、穏やかな時間が流れている幸せを感じてしまう。
ここには俺たちを知っている人はいない。
世間を騒がせている問題児ではなく、ただの少年少女として青い日々を謳歌できる。
なんだか肩の荷が下りたような清々しい気分だ。
「なんだか久しぶりだね。こうして二人だけって」
「うん。会長さんとの同棲生活はどうなの。楽しくやってる?」
「織姫先輩は事件以降、マスコミのこともあって実家に戻ってるんだ。涼子さんも入院してるから、なんだか家が広く感じてる。夏野は最近どう?」
「どうって言われても。具体的には何が聞きたいの?」
「体調や精神面のこと。君は見なくてもいいものを見てしまった。花灯や七海だってまだカウンセリングを受けているんだ。どんな些細なことでも変に感じたら、すぐに言ってほしい」
「君なら私の顔を見るだけで分かるんじゃないの?」
夏野が、アンニュイな表情を浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。
「そう簡単じゃないよ。特に今の状態の君はね。そういえば……花灯が言ってた。夏野が少し別人みたいだって」
「喜ばしいことじゃない。みんな、それこそ君だって少しずつ変わってきてる。私もそれを受け入れられたらって思ってるのよ。君が――白雪が背中を押してくれるから」
俺の――冬馬白雪の変化。
家族を殺した殺人鬼への復讐だけが俺の生きる理由だった。
けれど今は、復讐のその先にある未来。
失われたと思っていた青春を取り戻すことも、ちゃんとこの目に映っている。
復讐を遂げて、夏野に告白する。それが今、俺がここにいる理由。
そう思えたのは夏野のおかげだ。
だから俺も、夏野の手助けがしたい。
「背中なら何度だって押すよ。人間は大きな変化を嫌う生き物だから、無理せず慎重にだけどね」
そう言うと、夏野はなぜか一瞬むすっとした顔をして目を逸らした。
「いつも思うんだけど、白雪っていつも余裕な感じよね。なんだか女の子の扱いにも慣れてるし?」
声音にはほんのり不機嫌さというか、不愛想な感じが込められている。
「さくらに鍛えられたから。今にして思えば、俺が逆らえないのをいいことにいろいろやらされたな。荷物持ちとか、部屋の掃除とか、プレゼントの処理とか」
本当に沢山、普通の生き方を。
「なんで逆らわなかったのよ。嫌なら嫌って言えばいいのに」
「んー、別に嫌ってわけじゃないんだ。クラスメイトや周りの大人もそうだったけど、さくらの姿を見ると何かしてあげたくなるっていうか。俺の場合は十七夜月の家に恩もあったし」
「ふーん、そうなんだ」
「……なんか怒ってる?」
「別に」
とは言うけど、明らかにつーんとしているご様子。
何かまずいことでも言っただろうかと、会話を振り返ってみる。
夏野の機嫌が変わったのはさくらの話をした前後から。
となるといわゆる、『私の前でほかの女の子の話をしないでよね』――パターンだな。
俺としたことが、前のデートではできていた気遣いをすっかり忘れているじゃないか。
俺とさくらは別に恋人でもなんでもない関係。
けれど夏野からすればそんなこと分かるはずもない。
夏野がここまで不機嫌さ、あるいは独占欲を露わにするのは多少意外だったが、悪いのは俺だ。
さて、どう挽回したものか。
「――ねえ」
ああでもないこうでもないと脳内でシミュレーションをしていると、不意に夏野が立ち止まった。
「どうかした?」
二、三歩先で俺も足を止めて振り返る。
「もし仮に、その子と私のお願い、どっちかしか叶えられないとしたらどっちを取る?」
「それは――夏野かな。今の俺が好きなのは、夏野だから」
本心だった。無論、両方叶えてあげることが一番だと思う。
でもどちらかを選べと言われたら、今の俺は迷いなく夏野を選ぶだろう。
そうしたら俺は、なんだかんだ逆らえなかったさくらの言葉に、初めて背くことになる。
許してくれるだろうか。今はもうこの世にいない彼女は――。
「ふ、ふーん……結構嬉しいこと言ってくれるじゃない……」
夏野は再び顔を逸らした。しかも今度は腕まで組んで。
淡い空の光に照らされた彼女の頬は、赤く染まっていた。
綺麗に。可愛らしく。
「でもまあ、前提からして無理な話だけどね」
「あっ……そうね、意地の悪い質問だったわ。ごめんなさい。……お墓参りとか、行くの?」
「いいや。一度行ったけど何もせず帰ってきて。それからずっと踏ん切りがつかないんだ。多分、何かきっかけが欲しいんだと思う。さくらの死を受け止めるための何かが……」
「私と同じね。なら――いつか一緒に行ってあげるわ。私も白雪に影響を与えた十七夜月さくらのことが知りたい」
「頼もしいね」
「あら、私は本気ですけど」
得意げな笑みを浮かべる彼女の表情には、やはり以前とは違う色があった。
そっと手を伸ばす。
告白はまだ、もう少しだけ待っていてほしいけれど。
でも手の温もりを感じることくらいは――。
束の間。
「――夏野ちゃん?」
風音に押し潰されてしまいそうな、か細い声だった。
声がした方向に目を向けると、そこには車椅子に乗った少女がいた。
ふわりと揺れる黒髪、対照的な白いワンピースと病的なまでに白い肌、見ているこちらが危うさを覚えるほどの細い手足。
触れれば弾けて無くなる泡沫のような雰囲気の彼女は、ゆっくり車輪を回して近づいてくる。
「やっぱり夏野ちゃんだ……ほら、あたしだよ。空野六花!」
俺はその名前に聞き覚えはなかったが、心当たりはあった。
二か月前に行われた体育祭。そこで俺は夏野が抱える秘密を知ったのだが。
彼女はその秘密に関わるものだ――と、直感する。
「六花……どうして、ここに……」
六花と名乗った少女が嬉しそうに近づいてくる一方で、夏野は半歩後ろに下がった。
声も震えて、明らかに何かを恐れている。
そして。
「う――ッ」
夏野が突如、こめかみに手を当てた。
「私は……ウチは……っ……!」
刹那――夏野は駆け出す。
来た道を引き返すように、六花から逃げるように、ホテルに向かって走り出した。
「夏野――!」
「夏野ちゃん待って……あっ、!」
あとを追って走り出そうとした瞬間、背後から何かが落ちる音が聞こえた。
振り向くと、六花の足元にはスマホが転がっているのが見えた。きっと慌てて落としたのだろう。
車椅子では少し難しいだろうと判断した俺は、ひとまずそれを拾って差し出す。
「あ、ありがとうございます……その、夏野ちゃんのお友達、ですか?」
「ああ。君のことは夏野から聞いてた。多分、ちょっと誤解があったみたいだけど」
周囲を見回す。近くにある建物は、あれか。
看板を見るにリハビリ施設のようだ。
そしてスマホを拾い上げたときに見えた彼女の靴。砂が付着していた。
まさかとは思うが――いや、ありえなくはない。
「そうですか、お友達……できたんだね、夏野ちゃん……」
「悪いけど俺は夏野を追いかける。明日また同じ時間に会える?」
「う、うん」
「じゃあそういうことで!」
そうして俺も走り出す。
コンビニには行けずじまいだが、それよりも大きな懸念があった。
最悪の場合――夏野の心が壊れてしまうかもしれないという懸念が。




