9話『謝罪して、懺悔して。やり直すことは許されるだろうか』
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――八木原炯依。
それが、かつて私が想いを寄せた人の名前だった。
二年前。容姿端麗で成績優秀、人当たりもよく誰からも愛される存在だった姉が、自分の部屋に閉じこもるようになった。
その理由は分からなかったけれど、他人だけでなく両親や私の声にすら怯える姉の姿は、まともに食事もとれずにやせ細っていく姉の姿は、手首を切って己の死生を試し続ける姉の姿は、あまりにも痛々しく――見ているこちらの胸が張り裂けそうだった。
それを見て、私はかつての姉のようになることを決意した。姉の姿を投影した自分を見てもらうことで、かつての貴女はこれほどまでに輝いていたのだと、思い出してほしかった。
それまでの私は、優秀な姉と比べて容姿も成績もそこそこ止まり。人付き合いもあまり得意とは言えず、何の個性も持たない面白みのない人間だった。
だから過去の自分を知らない人が集まる桔梗高校を受験し、入学前もその後も、ありとあらゆる努力を重ねた。
勉強、髪や肌のケア、メイクの方法、自己啓発本も読み漁った。
私は有り体に言ってしまえば、高校デビューを果たしたのだ。
仮面を被って完璧な自分を演じ、虚飾の自信に溺れ、高校生活の中で周囲からの評価を獲得し、己の存在価値を高めた。
その過程で、これまでとは正反対の自分を演じる重圧から、過ちを犯すことになるとも知らずに。
そうだ。あの日、あのとき。
孤高であることを恐れず、自分らしさを曲げない強さを持っていた彼女――美原夏野が羨ましくて、妬ましくて。彼女を見たとき、姉のことを忘れて、不意に思ってしまったのだ。
――ああ、気に食わない、と。
――君は努力家だね。兄がそうだったから分かるんだ。周りの人は君を天才だと持ち上げるかもしれないが、いくら天才だからといって実力は努力なしでは成り立たない。違うかな?
八木原先生がくれたその言葉は、これまで頑なに周囲に見せないようにしていた弱い自分を、見抜かれたようだった。気持ちのいい言葉だった。ずっと欲しかった言葉だった。
私はすぐにあの人に惹かれて、残酷なほどに優しいあの人の強さにつけこんで、あの人と交際を始めた。
交際といっても、今にして思えば特段、大したことはしなかった。
ただ放課後の音楽室で楽しくお話をしたり、たまに校舎の隅にある文芸部の部室を借りて、お茶やケーキを嗜んで。
町にデートしに行くことも、車でドライブに連れて行ってもらったことも、キスをしたこともなかったけれど――それでも、あの人といる時間は本当の自分で在れる気がして、心地が良かった。
でも――冬馬白雪に敗北を教えられ。姉である汐音の過去を知って。
そして数時間前。
姉と友人、そして新たな想い人である高砂楓くんを誘拐したとされる神無月秋夜という男と、八木原先生の兄である八木原出雲の声紋が一致したという報告が来たことで。
「お久しぶりです。八木原炯依――先生。単刀直入にお聞きします。一年前、私の告白を受け入れてくれたのは、あなたのお兄さんから七瀬汐音の動向を探るよう頼まれたから、ですか?」
――あの思い出のすべてが、根底から覆ろうとしていた。
六月三十日の午後。
曇天から降り注ぐ白い光が差し込んでいる喫茶店『バタフライウインド』で、私――七瀬七海は、八木原炯依と対面していた。
「言っておきますが、今の私に嘘は通用しません。本当のことを話してください……先生」
「確か君は、冬馬君の影響で心理学を学び始めたんだったね。だったら一つ、その観察眼で読み取ってくれないかな。私が今どういう状態で、何を考えているのかを」
そう言って、八木原先生は先ほど頼んだコーヒーを口にした。
この店に警察はいない。八木原先生を昨日から監視している捜査員は、おそらく店の外で待機している。
誰にも邪魔されることのない、おそらくは私と八木原先生の最後の対面。
――そっと息を吐いて、肩の力を抜いた。
思い出していた。
かつて私の傲慢さを見抜き、敗北を与えてくれた冬馬のことを。彼が失意と執念の中で磨いた観察眼を。
「先生の態度はあまりにも自然です。緊張している様子もないし、目立った反応もない。抵抗する素振りがない。いつも通り、すべてを受け入れてくれる優しい先生じゃあないですか」
「……それで?」
「私の質問に答えてくれるつもりで、ここにいる。――違いますか?」
「うん。正解だ。ただ一つ指摘するとしたら、すべてを受け入れるというのは少し違う。私は誰にでも優しいわけじゃないからね」
柔らかく微笑んで、先生はカップを置いた。
「最初の質問に答えよう。確かに私は兄から頼まれて、君のお姉さんのことを探っていた。それに間違いはないよ」
胸の辺りに鋭い痛みが奔った。
もう終わった恋だと思っていたけれど、それでも私はまだ、先生のことが忘れられてなかったのだろう。
だからこんなにも、心が痛む。
「けれどね。何も、君と過ごした時間のすべてが演技だったとは思っていない。君との時間が楽しかったことは事実だ。だからこれは、君を傷つけてしまったことに対するせめてもの謝意だよ。私は最初からすべてを教えるつもりで、ここに来た」
ああ――先生、やはりあなたは、いつだって私の求めている言葉をくれる。
あの時間は嘘ではなかったと。それだけで私は救われてしまう。
だから、きちんと終わりにしないといけない。
目の前にいるのは八木原炯依。私がかつて想いを寄せていた人であり――四月から行われてきた連続殺人の幇助をした男なのだから。
「先生のお気持ちは分かりました。――ではまず、八木原出雲と声紋が一致した神無月秋夜について、お話しいただけますか?」
その過ちを止めるためにも、真実に辿り着いてみせる。
「もちろん。君の、君たちの推測通り、神無月秋夜は私の兄だ。とはいえ月に一度会うとき彼は自分を、神無月ではなく八木原出雲としていたから、別人になったという実感はあまりないけどね。さて、どこから話したものか――」
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「聞きたいことは以上です。すみません、少しお手洗いに」
八木原先生との話を一通り終えた私は、隣の椅子に置いていた手提げのバッグを手にして席を立った。
女子トイレに入ると、洗面台にバッグを置き、その中から通話中のスマホを取り出す。
「――冬馬、聞いていたわね?」
『ああ』
冬馬は今、自宅である洋館にいる。八木原先生との対談は私一人でおこなったほうがいい、けれど情報をリアルタイムで精査したい――という内情からの措置だ。
『……やっぱり時間に余裕はないみたいだね。急いで涼子さんに電話して、日付が変わる前に警察に動いてもらわないと』
「二年前の地震で倒壊し、最低限の改修だけされて結局廃墟となった、水波バンク旧中央支店。予想通り、祖父の家から一番近い銀行であるそこに、姉さんたちは監禁されている……」
姉である七瀬汐音が罪を告白したあの文章には、銀行や強盗という単語はあったが具体的な店舗名などは書いていなかった。
なので第一候補として祖父の家に近い場所に見当をつけていたのだが、その予想は当たった。
『とにかく一度切るよ。ありがとう七瀬。いや……七海』
「はぁ? い、いきなり名前で呼ばないでもらえるかしら……気色悪い……」
『信頼してるってことだよ。もう君は前とは違う。あのときの音声データ、消しておくよ。この一件が終わったら君はもう俺に縛られることはない、自由だ。それじゃあ、またあとで』
「ちょっと――っ」
文句を言おうとしたが、すぐに通話を切られてしまった。
自由、ね。
今さらあのデータが消えたところで私の罪は消えない。
けれど、これでやり直すことを許されたのかしら。
洗面台の鏡に映った自分を見つめて――そんな、答えの出せない自問をしてみる。
たとえマイナスからでも、私はまた始めるのだろう。罪を償いながら、新しい道を進むのだろう。
冬馬との因縁。
そして何より、八木原先生への恋慕。
「……さようなら。私の初恋」
それが今、ようやく終わりを迎えられた気がした。
一つ区切りついた。とはいえ事件はまだ終わってはいない。
姉と友人たちはまだ攫われたままなのだ。
念のため八木原先生からお兄さんのことをもっと聞き出して――と考えながら女子トイレを出ると、すぐ目の前にスーツを着た男が立っていた。
「……」
感情の見えない固い表情、がっしりとした体、常に全方位に対して警戒をしているような隙の無さ。
ひどく、威圧的な姿だった。
男は私の姿を見るなり、内ポケットから警察手帳を取り出した。
取り出しただけで、バッジを見せてはくれない。
「七瀬七海さんだね。私は水波署のものだ。君に任意同行を求めたい。先ほどそこにいる八木原と話していたようだが、事件解決のためにその内容を教えてほしい」
抑揚のない声がひどく恐怖心を煽ってくる。
警官という肩書がなければ、すぐにでも逃げ出したくなるほどだ。
「え、ええ。それは構いませんけれど……」
「ではこちらへ」
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今にも雨が降り出しそうな空だった。太陽は雲に隠れ、時計を見なければ時刻の見当もつかないような真白の天井。
水波市歩風町。南坂と呼ばれる長い坂を上った先に建てられた洋館のリビングで、俺――冬馬白雪は若干の焦りを覚えていた。
手にはスマホ。もう何回もコールしているが、相手が出てくれない。
相手とは俺の保護者であり警官でもある桐野江涼子。
神無月の場所が分かったんだ。時間に余裕がない以上、一刻も早くこのことを伝えなければならない。
なのに――通話が繋がることはなかった。
「……涼子さん……。仕方ない、直接警察に」
――コン、コン、コン。
不意に、正面玄関から扉をノックする音が聞こえてきた。
扉を開けると、そこにいたのはスーツを着た男。
「どうも、冬馬白雪くんだね。私は水波署のものだが、君が桐野江警部補と独自に捜査を進めていたと聞いてね。事件解決のためにも、君の持っている情報が欲しい。署に来て協力してくれないか?」
協力要請……?
涼子さんの話では捜査本部は単独捜査を是としていないはず。
今朝、涼子さんから声紋分析の結果が来た際も、それとなく大げさに動かないよう注意された。
それを今さら?
涼子さんが本部を説得したということだろうか。それとも、あるいは――。
「……涼子さんはどこに? 連絡が取れなくて」
「彼女も署にいるよ。いいから、さあ、急いでくれ」
男はそう言って俺を急かすが、しかしどうにも怪しい。
根拠のない違和感。だが、人間の直感とは結構優秀なものだ。
ここは一つ、芝居を打ってみるか。
「――嫌だ、と言ったら?」
「それはまた、なぜ?」
「二年前、神無月――もとい八木原出雲は、射殺された遺体を地震の被害者として隠蔽処理した。だがいくら彼が大きな教団に所属していようと、それは容易いことじゃない。となると遺体を精査する検視官や事件性を調査する警察に『内通者』がいたはずだ。それとあんた――嘘が下手だな」
早口でまくし立てるように言ったが、男の反応は。
「……」
呆気に取られた様子を見せ、ため息一つ。
それからぽりぽりと頭を掻きながら、ゆっくり曇天を見上げて。
もう片方の手で――懐から拳銃を取り出した。
「何も知らなければよかったものを」
刹那――俺は近くの棚に置いてあった花瓶を男に投げつける。
途中から疑いは確信に変わっていた。
だからこそ、予備動作なくそれをおこなうことができた。
「ッ――――!」
すぐに洋館内へと走り出す。
「ちぃッ――待て!」
ここで無理に外に出ても背中を狙われるだけ。ならば遮蔽物の多い室内に逃げ込むべきだ。
幸い、この洋館には正面玄関だけでなく裏口、さらに地下通路まである。
冷静に行動すれば、男を撒くのは容易い。
「まったく、ちょっと鎌かけただけなのに……ッ‼」
警察の内通者。
これで神無月があっさり五人を誘拐できたこと、そして警察の捜査方針が本筋と僅かにズレていることに納得がいった。
こうなると連絡が取れない涼子さんも危険な状況にある可能性が高い。
それに八木原と一緒にいる七海も。
とにかく一度ここを出ないといけな――『――――ガンッッッ‼‼‼』。
「ぁ――――」
頭部を襲った重すぎる衝撃。勢いのついた俺の体は膝から崩れ落ちて、壁に激突する。
「やれやれ。賢い子供は嫌いだね」
もう一人のスーツを着た男――警棒で、頭を殴られた。
それを理解したとき、すでに俺の意識は途切れていた。




