6話『女王の手を借り、神を求める者へと』
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六月二十九日。
警察に逮捕された桔梗高校の音楽教師――八木原が証拠不十分で釈放されてから約三時間後。
俺は涼子さんと共に、八木原の自宅前で張り込みをしていた。
警察が容疑者の釈放を易々と許したのは――送検するための証拠が揃わなかったのも理由の一つだが――身柄を自由にして泳がせることで、何らかのアクションを求めているから。
つまり今のところ、連続猟奇殺人犯の手がかりは八木原という男のみ。実質の手詰まり状態なのだ。
それは独自に捜査を進めている俺と涼子さんも同じだった。
だからこうして閑静な住宅街の隅で、空調が不調な車内で無為な時間を過ごしているのだが。
しかし午後三時過ぎ。
まるで受け身な姿勢に回った俺を高みから嘲笑うように――異変は起こった。
突如としてポケットに入れていたスマホからアラートが鳴り始めた。
あらかじめ設定しておいた予定調和のアラームではなく、不本意に作動したという意味のアラートが。
「……ん、何よ、それ」
湿気と熱さから逃れるためにジャケットを脱いで、上からボタンを二つ外したワイシャツ姿の涼子さんが、気怠そうに呟く。
一方で俺は、その声をまともに認識できないほどの焦りを覚えていた。
「……センサーが、発動したんだ……」
汗がすっと頬を伝って落ちた。脳裏をよぎる不安、胸に絡みつく焦燥感。
「……洋館の地下通路に仕掛けておいたんだよ。それが、作動した」
十七夜月事件――最悪の光景を想像しながらも、何とか震えそうになる拳を握って言葉にする。
「誰かが地下通路から館に入ったってこと?」
俺の表情と声音から非常事態が発生したことを感じ取った涼子さんは、即座に意識を切り替えてそう聞いてくる。
信じたくないが、このアラートが誤作動である可能性は極めて低い。館の正面には見張りの警官がいる――が、果たしてそれが機能しているかどうか。
「……ごめん涼子さん、全速力で戻ろう……!」
弱々しさを隠しきれない震えた声が、車内に響いた。
「ええ……! 念のため、夏野ちゃんたちにも連絡を!」
――『かわいいぼうや、おいで。おもしろいあそびをしよう』。
そのメッセージが俺のスマホに送られてきたのは、館に到着する数分前のことだった。
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「……っ、クソ‼」
加減の仕方など忘れてしまったように、拳の皮が擦り切れる勢いで床を殴った。
アラートが鳴ってからおよそ十分。洋館に戻って一つ一つ部屋を確認したが織姫の姿はなく、リビングには飲みかけの紅茶が放置されており、カップはすでに冷え切っていた。
そして俺が今いるこの部屋――さくらの遺品を集めたこの場所には、何者かが侵入した形跡が強く残っている。
部屋の中央に置かれたグランドピアノは屋根と鍵盤蓋が開けられ、椅子の高さが調節されている。
ほんの少し前に、館に侵入したヤツが使っていたんだ。このピアノを。
「白雪……夏野ちゃんたちの家族と見張りをしていた警官が全員、スタンガンで気絶させられていたそうよ」
部屋の入口から涼子さんが報告した。
「夏野や楓は……」
メッセージは織姫のスマホからだけでなく、夏野、楓、花灯のスマホからも送られてきた。
これらが指し示す事実は。俺の大切な友人たちは――、
「――同一犯に攫われた、と見ていいでしょうね」
凛とした声が、涼子さんの後ろから聞こえた。
こつん、と軽い足音を立てて部屋に入ってきたのは、かき上げた前髪が海外モデルをイメージさせる、クールな雰囲気をまとった少女。
桔梗高校二年の女王――七瀬七海だった。
「七瀬⁉ どうしてここに……」
膝をついていた俺を見下すように、七瀬は普段通りの、もしくは普段以上に冷たい眼差しを向けてくる。
「何よ、いちゃ悪い? ――なんて、言ってる場合じゃないわね。攫われたのは姉の汐音よ。犯人が姉と私を間違えたかどうかは分からないけれど。いずれにしても誘拐事件の場合、攫われてから四十八時間が勝負、ですよね桐野江さん」
見ればその手は小さく震え、顔色もいいとは言えなかった。
一目で気丈に振舞っていることが分かる姿。けれど七瀬七海はそれでも、自分が痛みに立ち止まることを良しとはしなかった。
「何を、呆けているの。立ちなさい。奪われたのなら取り返せばいい。違う? 無駄にしていい時間なんてないのよ」
「……七瀬」
「冬馬。あなたが桐野江さんと独自に捜査を進めていたことは何となく察しているわ。もしここで止めるならそれでもいい。でも情報はよこしなさい。私が姉と大切な友人を取り戻す」
俺を見つめるその瞳には悲しみが滲んでいたけれど、それでも凛々しく思えるほど理性的だった。
「――――」
そうだ。何を呆けている必要がある。俺は折れない。夏野との約束に――そう誓ったじゃないか。
真実を手繰り寄せるだけの手がかりは今、目の前にある。
それはまるで"ここまで追ってこい"と餌をぶら下げられているようだが、構いやしない。
怒りに、悲しみに飲まれて、考えることを止めちゃだめだ。
拳を強く握り直して、俺はゆっくりと立ち上がった。
「――ごめん、もう平気」
「そう、ならいいわ。それで状況は?」
一度、大きく深呼吸をしてから思考を巡らせる。
絶望的な状況。だがこの状況が生み出されるまでを考えれば、それがパズルのピースとなる。
「……防犯装置が作動してからここに戻ってくるまでおよそ十分。にも拘わらず、織姫先輩はすでに攫われていた。とすると犯人は電波を妨害する装置を持っていたのかも。それにより装置のアラートに時差が生まれたんだ」
「なら白雪のスマホに届いたメッセージからの追跡は難しいわね」
「次に、ピアノが使用された形跡がある。織姫先輩はここがさくらの遺品を置いた部屋だと知っているから無為に入ろうとはしなかった。なら使ったのは犯人しかいない」
「呑気ね。いつ冬馬たちが帰ってくるかも分からないのに」
「犯人は誘拐にも殺人にも慣れてきているから余裕が出た。または逆にピアノを弾くことで精神統一を図った。好きな曲を聞くとリラックス効果が生まれて集中力が増すからね。もしくは俺と涼子さんの居場所を把握していた可能性もある」
今回の誘拐はおそらく、警察の目が八木原という容疑者に集まっていたからこそ実行できた。
おとり。陽動。やはり八木原はそのために容疑者に仕立て上げられたのだろう。
「犯人の侵入口は? 表には見張りの警官がいたのでしょう?」
「地下通路よ。表の警官は何も見ていなかった」
七瀬の問いに、涼子さんが答えた。俺もそれに頷く。
地下通路に仕掛けたセンサーが発動したんだ。この館に入るときも、出るときも、人目を避けた地下通路が使われた。
犯人が通路の存在を知っていたのは、おそらく不動産業者から見取り図を入手したのだろう。
少なくともそういうことが可能な人物ということだ。
「と言っても、ほかの見張り警官がスタンガンで気絶させられていたのに対し、ここの見張りだけは何もなかったから、犯人を手引きした可能性もあるわ」
「いや、それはかく乱のための罠だ。自分が内通者ですって自白するなんてバカすぎる。通路の入り口に行こう。足跡が残ってるかもしれない」
警察の鑑識が来るまであと数分。一般人だからと現場に入れなくなる前に、できる限り多く情報を集めておかなければ。
二階から一階の物置部屋に移動する。
カーテンの掛かっていない窓からは、曇天の白い光が差し込んでいる。
部屋の隅、床扉の付近を注意して観察すると、そこにはこれ見よがしに痕跡が存在していた。
「薄いけど土に塗れた足跡があるわね。大きさからみて犯人は男」
「歩幅から推察するに、身長は百七十後半から百八十――」
「八木原先生と同じくらい、ね」
そう呟く七瀬の声は、言葉にすることを恐れているようだった。
当然か。七瀬は以前八木原と交際していたし、その関係はすでに終わったものとはいえ、何の感情も湧かないわけでもないだろう。
「七瀬……、けど八木原は警察がマークしている。その隙を突いての誘拐だ。犯人は八木原じゃない――が、まったくの無関係でもないのかも」
「どういうこと?」
「この犯人は意味のないことはしない。田中家と常盤家の殺人にも練習台という役割がありながら、きちんとホワイトキラー批判への報復という目的があった。八木原を犯人に仕立てたのも警察の目を逸らすだけじゃなく、八木原を選んだ何かしらの理由がある気がする」
七瀬にとっては辛い、信じたくない考えだろうが――八木原と一連の事件の犯人が繋がっている可能性は充分にあり得る。
今日一日、俺と涼子さんが自宅前に張り込んでいたことを、八木原は把握していたはず。
つまり犯人に俺たちの位置情報を流すことは可能なんだ。
しかしそうなると、八木原と犯人の関係はどういうものだ?
自らを容疑者に仕立てることもを是とするほどの繋がりとは?
「涼子さん。八木原の家族は?」
「両親は何年も前に他界。兄が一人いたけれど、二年前の震災で亡くなっている。親戚も特にいないわ」
二年前の震災――夏野が水族館で話していたな。
大きな地震、重なった台風などでこの一帯は大きく被害を受けた。
まず第一に考えられるのはやはり家族だったが、その線は薄そうだ。
なら恋人や学生時代、または仕事関係の仲間――と、別の可能性を考え始めた直後、七瀬がぼそっと呟いた。
「二年前……」
「どうかした? 七瀬?」
「いえ、もし八木原先生に罪を着せようとしたことに別の意味があるのなら、私じゃなくて姉が攫われたのにも何か意味があるかもと思ったのよ。それで姉は俗に言う引きこもり生活をしていたのだけれど、突然そうなってしまったのも丁度、二年前。震災の直後だった」
「部屋に閉じこもるようになった理由は?」
「分からない。姉は私より優秀で完璧な人だった。けれど突然、何かに怯えるようになって……」
七瀬の姉。俺はおそらくだが一度、顔を合わせたことがある。
無論、向こうは俺のことを知らないし、俺も彼女のことを七瀬汐音だと認識していなかったが。
記憶を辿り、想起するのは先月のこと。
夏野とのデート中、一人の女の子とぶつかったことがあった。
その子は七瀬七海と同じ目の形をしており、何かに怯えた様子で――そして手の甲にはタコがあったんだ。
十中八九、あれは前歯が当たってできたもの――それは摂食障害、拒食症の人に多い特徴だ。
二年前に何かがあり、七瀬汐音は自分の殻に閉じこもるようになった。
しかしそれでも心に突き刺さる膨大なストレスが、体に発現したのだろう。
「それと……、八木原先生の、お兄さんだけど……」
「ん?」
やけに自信がないというか、歯切れの悪い七瀬に首を傾げる。
彼女は逡巡し、そしてたっぷり十秒沈黙すると、意を決してその事実を告げた。
「八木原先生のお兄さんは昔、音楽教室を経営していたそうよ。中でもピアノを主に教えていて、先生はそれに憧れて音楽教師になったって」
「…………あ」
七瀬の考えていることが分かってしまった。なるほど、そうか。確かにそれは突拍子もなさ過ぎて戸惑うしかない。
だが――その飛躍した考えが、俺の中でさらに飛躍する。
推理や仮定とも言えないただの直感で、妄想だが、しかし確かめる価値はある。
「涼子さん、警察の鑑識が来たら、鍵盤に付着した指紋を調べてもらおう。犯罪歴と照合――それと、ここにある指紋とも照合して欲しいんだ」
俺はポリパックに入れて肌身離さず持っていたそれを、涼子さんに差し出した。
それは夏野経由で入手した一枚の紙。
「神無月秋夜の名刺?」
「断定はできないけど、神無月は過去に顔を整形したことがある。もしかしたら……もしかするかもしれない」
「……っ、ま、まさか、二年前に亡くなったはずの八木原の兄がこの神無月だって言うの⁉」
「ああ」
身長、年齢、ピアノを弾ける経歴。二年前に死んだことにしたかったのなら顔を変えた理由にも納得がいく。その目的にはまだ不明な部分が多いが、特徴だけなら一致しているんだ。
「違ったら違ったで可能性を一つ潰せる。確かめるのは無駄じゃない」
「待って。仮に冬馬の想像が合っていたとしても、顔を変えたのなら指紋も一致しないかもしれないわ。もっと簡単には変えられない、その人特有の癖とか」
「映像から体癖を分析――けどそれじゃあ確実性がない。となると」
簡単には変えられない存在証明。顔と指紋がダメなら、ほかに確実なものは。
「声紋だ」
「声紋ね」
多少声色や話し方を変えた程度では声紋は変わらない。さすがに喉まで弄られていたら分からないが、それでも一番可能性があることに違いはない。
よし。やるべきことは決まった。
神無月と八木原兄の調査――声が録音された映像やファイルを探そう。八木原兄のほうは音楽教室を経営していたんだ。練習映像やコンクールなどの映像が残っているはず。
となると神無月は――勤めていた風見グループの会社、それと教団のほうも当たってみるか。
「俺はこれから神無月を調べる。七瀬は一度家に帰るんだ」
「まさか、私には何もさせないつもり?」
「そうしたいところだけど、違う。君にはお姉さんの部屋を調べてほしい。部屋のどこかに何か手がかりがあるかもしれない」
八木原が神無月の弟、というのが妄想でなく事実なら、やはり攫われたのが七瀬七海でなく姉の七瀬汐音であることにも意味があるはずだ。
そしてその意味は、妹である彼女でなければ見つけられないものかもしれない。
信じている。そう意思を込めて視線を送ると、七瀬はそれを受け入れた。
「……分かったわ。ねえ、冬馬」
「なに?」
「あなたが敗北を教えてくれなかったら、私はここにいなかったと思う。恐怖を飼いならす知識を与えてくれたことに一応、お礼を言っておくわ。あなたとの出会いは無駄じゃなかった。ありがとう」
「――」
七瀬の言葉の意味。それは言葉通りでもあるのだろうけど、彼女は言外にこうも言っている。
"あなたと出会ったことで姉と友人は巻き込まれたのかもしれない。でもこの出会いを無かったことにしたいとは思ってない"――と。
さすがに都合が良すぎる解釈だろうか。
束の間、七瀬は右手を差し出した。握手をしよう。そう言うように。
そして俺の不安も懸念も、立ち止まる足枷の何もかもを取っ払うように宣言するのだ。
「だから――必ず取り戻すわよ。大切な人たちを!」
まさか、こんな日が来るとは思わなかった。
かつて敵として対峙した二年の女王――七瀬七海。彼女とこうして手を取り合う日が来るなんて。
俺たちは無力だ。警察と違って何の権限も持っていない、自衛する力もない。
けれど、それでも。
大切な友人を、好きな女を攫われて黙ってられるか。
だから。
「……ああ!」
差し出されたその手を取って、俺はホワイトキラーによって捻じ曲げられた運命に立ち向かう。




