プレリュード『七月一日。午前零時三十二分』
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――雨が降っている。
車内は空調が機能していないのか湿気が酷い。
垂れた前髪を直そうとして、額に触れた手には脂汗がついた。拭いたくても簡単には拭えない血液のようなそれに、ため息を吹きかける。
フロントガラスを叩きつける雨粒。一つ一つは小さくても、無数に折り重ねられたそれが俺の心拍数を上昇させていく。
まるで透明な刃が耳の穴通じて頭に入り、脳を表面から少しずつ削ぎ落しているようだ。
この手をすり抜けそうになる意識。遠ざかっていく冷静さ。
それを何とか繋ぎ止めるために、何度も深呼吸を繰り返す。
そんな俺を横目に、車を目的地へと走らせる桐野江涼子が左手をハンドルから離した。
「こちら桐野江――本部、応答願います!」
手を伸ばした先の無線を使い、雨音にかき消されないよう大きな声で呼び掛ける。
とっくに時刻は午前零時を過ぎてしまった。
事態は切迫している。もはやどうしようもないほどに――破滅へのカウントダウンは既に終わっているのだ。
今この瞬間にも、新たな犠牲者が出ている可能性が高い。
『こちら本部、どうした!』
「神無月秋夜によって拉致監禁されている人物を――風見織姫、高砂楓、美原夏野、琴平花灯、七瀬汐音の五人と断定! 次の犯行場所は現在封鎖されている水波バンクの旧歩風西支店! 今すぐに応援をお願いします!」
『了解、すぐに最寄りの警官を向かわせる! いいか、突入は人員が揃ってからだ! 一人で突っ走る――――』
声はそこで途切れた。涼子さんが通信を切ったからだ。最後まで聞いてしまえば、きっと彼女は何もできなくなるから。
突入は人員が揃ってから?
そんな悠長なことは言ってられない。もう七月になってしまっているんだ。
「っ……」
歯を食いしばり拳に力を込める。やり場のない怒りを紛らわすにはこうするしかない。
水泳で息継ぎができない人間に、水の中で息を吐けば酸素を求めて自然とできるようになると言うように。
無理やりにでも力を込めてしまえば、いずれ疲れて力は抜ける。
今のうちに熱を注ぎ続けろ。そして時間と共に冷めて、冷めて、冷静に思考を続けるんだ。考えることを止めるな。
「白雪、もし現場に到着して誰も居なかったら……あなたは一人で行くつもりよね」
見透かしたように涼子さんが言う。
当然だ。彼、彼女らを巻き込んでしまったのは俺なのだから。
「止めても無駄……よね」
「ああ。俺がヤツのところに行けば、必ず時間が稼げる。涼子さんこそ、これ以上俺に協力したらクビになっちゃうかも」
「今さら何言ってるのよ。忘れた? 私だって十七夜月家の一員よ。警官としても一人の人間としても、ホワイトキラーを追っているの。情けないけど、そのためには白雪の力が必要だから……絶対に死なせないわ」
「……ありがとう」
それ以上の会話はなかった。目的地が近い。
スマホを取り出す。大切な人に送ったメッセージの返信はないが、代わりに俺の背中を押す言葉が届いていた。
相手は七海。七瀬七海。
『姉のことをお願い』
七月一日。午前零時三十二分。現場到着。
死者一名、世間を揺るがす二人の逮捕者が出てしまう最悪の戯曲は――大詰めだ。




