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56話『白雪を溶かす夏野、あめ』

「織姫‼」


 張り上げた悲痛な叫びが室内に響く。

 すれ違い続けた想いがようやく交差すると思われた矢先、娘である風見織姫(かざみおりひめ)が巨大な看板の下敷きになったのだ。


「織姫……‼」


 窓に張り付いた手はすぐに虚空を掴む拳となり、風見夫妻は脇目もふらず教室を出た。

 どうやって声をかけたらいいのか、なんて迷っている時間はない。一刻も早く娘のところへ行かなければ。そういった気持ちが二人の心を突き動かしたのだ。


 遠ざかっていく足音を聞きながら、俺は二十秒ほど前から通話状態になっているスマホをポケットから取り出す。

 通話相手の名前は琴平花灯(ことひらはなび)


「もしもし」


『――ええ、聞こえてますよ。冬馬(とうま)くん。首尾は?』


「今、下に走っていった。これをきっかけとして風見家の親子関係は変わると思う。説得も……多分成功した。そっちの状況は?」


『今、七瀬(ななせ)先輩の手を借りて高砂(たかさご)くんを抑えつけてるところです。会長さんのところに行くってきかなくて……ああっ、もうちょっと、いい加減大人しくしてくださいってば!』


 窓の外、グラウンドの端のほうに楓を押さえつける二人の姿が見えた。

 相手が女子ということもあって楓も本気で振り払えないのか、意外にも善戦している。


 というか七瀬、アレ密着しすぎじゃないか……?

 ほとんど一人で止めてるじゃん。


『もうあの看板が塗装した発泡スチロールだって、言っちゃっていいですよね?』


「ああ、いいよ」


 そう――織姫を下敷きにしたあの巨大な看板。

 あれは俺たちが日曜からせっせと発泡スチロールを組み合わせ、塗装し、傍目からは木製のそれにしか見えないように作った、殺傷力ゼロの張りぼてだ。


 風見夫妻がお互いの気持ちを知り、何より織姫の気持ちを知り、それに寄りそうことを決めたとき。何か、背中を押すためきっかけが必要になるかもしれないと俺は考えた。


 素直に話し合うには空回りし続けた時間が長すぎたから、今さらどう接したらいいのか――そう思う部分だってあるはずだ。

 だからそういう足枷を全部取っ払うために、娘の危機を演出した。


 無論このことは織姫にも話してある。段取りとしてはタイミングを見計らって俺が花灯に電話をかけ、さらに花灯が織姫に合図。

 そして織姫が細いワイヤ―を使って看板を倒し、下敷きになるという流れだ。

 

 近くから見れば織姫が無事であることは一目瞭然だが、三階のこの教室から遠目に見れば充分すぎるほど危険な状況に見える。


 人の本音はここぞというときに現れる、だ。

 すぐさま娘のもとへ駆け出した両親の姿を俺は見た。これでもう、あの家族が遠回りすることはないだろう。


 しばらく待ってから、風見夫妻が無事織姫のもとに辿り着くところを見届けた。

 戸惑いながらも言葉を交わすその光景を見ていると、不思議と口元が緩む。


「……」


 眩しさに目を焼かれたように目蓋を閉じて、窓に背を向けた。


『それじゃ、冬馬くんも早く帰ってきてくださいね』


 帰ってこない家族の思い出が目蓋の裏に投影されて。それから少し、ほんの少しだけ、しんみりとした気持ちになって目を開けた瞬間だった。


「ああ。すぐそっちに戻って楓を言いくる――め、て――」


 一瞬、呼吸が止まった。言葉は途切れ、教室を出ようとした足も固まる。



「――――」



 自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。

 ともすれば手に持ったスマホを落としてしまいそうなほど、すべての意識を彼女に集中していたのだ。


『どうかしましたか? 冬馬くんー?』


 どうしたもこうしたもない。


 普段は見ない体操服姿で、地毛の茶髪を一束にまとめた彼女――美原夏野(みはらなつの)が、教室の入り口に立っている。


「あ……まだ、しばらく戻れない」


 視線を夏野から外さないまま、短く告げて通話を切る。

 珍しく思考がパンクしそうだった。

 なぜ夏野がこの場所にいるのか。どこまで話を聞かれたのか。どう反応すればいいのか。


 ごくりと息を呑んだ。

 落ち着け。夏野に過去のことを話す決意はできているじゃないか。

 今のはただ、不意にそのときが訪れて驚いただけ。大丈夫、冷静になれ。


 俺のやるべきことは――何も変わっちゃいない。

 

「いつから聞いてた?」


 無意識のうちに入っていた肩の力を抜いて、いつも通りの穏やかな声音でそう聞いた。

 すると夏野は少しずつ俺に向かって歩き始める。伏せられたその表情は、前髪に隠れてよく見えない。


「ほとんど最初のほうから。……ごめん。多分私が知っちゃいけないこと、あったよね」


 弱々しく言葉を紡いで眼前に立つ夏野。

 ――次の瞬間、夏野が背伸びをして俺の体に両腕を絡ませた。

 

「……」


 抱きしめられている。それに小さく何度も鼻を啜る音が聞こえる。

 その華奢な体が震えているのは寒いからじゃない。涙を流しているからだ。

 慟哭でも嗚咽でもない落涙。


「……、どうして夏野が泣くのさ」


 少し呆れたように言ってみると、夏野は腕にそっと力を込めた。


「だって白雪くんの抱えてるものがさ……こんなに哀しいものだって正直想像してなかった……」


「知りたくなかった?」


「そうじゃないよ。そうじゃなくて……それだけのことを打ち明けるのって、とってもつらいことだから。うまく言えないけど……なんか涙止まんない……」


 夏野は俺を拒絶したくて泣いているんじゃない。

 こんなこと知りたくなかった、そう嘆いてるわけでもない。

 今まで俺が隠してきた過去(それ)を盗み聞いてしまって、知られてしまった側である俺を想って涙を流しているんだ。


「ごめん……白雪くんの黙っていたいって気持ち、無駄にしちゃった……」


 俺は小さく首を振った。


「そんなことない。あの日からずっと、話そうって思ってたんだ」


 夏野に何も伝えることができず、織姫から告白され、俺自身の気持ちに気付いたあの日から。

 また泣かせてしまうかもしれないと思いつつも、夏野にちゃんと向き合うって決めていたんだ。


「……」


 俺は優しく夏野を抱き返し、壁に背を預けて、ゆっくりとその場に座り込んだ。

 外からは体育祭に熱中する生徒たちの声が聞こえてくるけれど、日差しを遮るこの場所は、俺と夏野だけの別世界。


「……俺の青春はあの日、さくらが死んだあの瞬間に失われたんだって思ってた」


 喪失感は今でも俺の心を蝕み続けている。


「一緒に通うはずだった高校にも行けなくなってさ。一年遅れてここに入学したのだって、さっさと病院から出て、ホワイトキラーに復讐するためだった。高校生活なんておまけのつもりだったんだよ」


 復讐心は今でも俺の胸に宿り続けている。


「でも夏野と『バタフライウインド』で話したり、休みの日にどこかに行くのはすごく楽しかった。だから俺、その大切な時間が壊れてしまうのが嫌でずっと迷ってた」


 今日まで送ってきた高校生活。そのすべてが輝かしい青春だとは言えないかもしれないけれど。

 それでも俺の手には、失くしたくないと思えるものが確かにあったんだ。

 だから――。


「夏野。俺には清算しなくちゃならない過去がある。かつて俺の家族を殺した殺人鬼が、田中直紀(たなかなおき)やそのほかの失踪事件に関わってるかもしれなくて――だから決着をつけないと。じゃなきゃ俺は何も始められないまま、周りに迷惑かけるだけだから」


「……そんなの、いいのに」


「俺が嫌なんだ」


 ――夏野が好きだから。

 その言葉をぐっと飲みこむ。これを伝えるのは今じゃない。


 再び目蓋を閉じた。

 投影される光景は血塗られた"特別"。

 そんなものはもういらない。俺は普通に恋をして、普通に笑える、普通の高校生活を送りたい。

 青春ってやつを取り戻したい。


 もう失うことに怯え続けるのも、周りに流されるだけの受け身な姿勢もごめんだ。


「我が儘なのは分かってる。でもちゃんと全部終わらせる。だからもし、俺がどこか遠くへ行ってしまうとしても――少しだけ待っててくれないか?」


 顔を上げた夏野。お互いの瞳に、お互いの瞳が映って。心臓が早鐘を打つ。緊張する。ドキドキする。

 あと少しで唇同士が触れてしまうこの距離を、以前よりもずっと強く意識してしまう。


 ――俺の心が、彼女の熱に溶けていく。


 たっぷりと数秒見つめ合って、ふと密着していた夏野が僅かに距離を取った。

 それが彼女の答えかと、それでも受け入れようと思考を走らせた刹那――しなやかな指が俺の前髪を優しく摘んだ。


 すり抜けるように指が離れて、手は俺の後頭部に。後ろ髪をさっと撫でられた。

 何の意図があるのだろうと不思議そうに見つめると、彼女は微笑と共に呟くのだ。


「髪……伸びたね」


「分かるの?」


「分かるよ。ずっと見てたもん」


 夏野はそれから膝を抱えて、俺の前に座り直した。


「白雪くんさ、大事なこといっこ忘れてる。白雪くんがウチに言えないことがあったように、ウチにも白雪くんに秘密にしてたことがあるんだよ」


「そんなの、俺は気にしない」


「ウチが嫌なの。だから話してもいい?」


 この日、俺は美原夏野の秘密を知った。隠す苦労を共に背負うことを選んだのだ。


 彼女が傷だらけの俺の心に触れたように、俺もまた、傷だらけの彼女の心に触れて――。

 それからもう一度だけ、強く抱き合った。


 伝わる体温。心臓の鼓動。互いが互いの存在を証明している。


 生きている実感があった。どれだけ痛んだ果実でも、俺たちは。

 今をしっかり、生きているんだ――。

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