53話『知ること、知らないこと。選ぶこと、選ばないこと』
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風見織姫のその整った顔が近づいてきたことに驚いて、とっさに目蓋を閉じたその刹那。
暗闇の中に、美原夏野の姿が浮かんだ。
初めて出会ったのは学校の屋上。彼女はそこから飛び降りるかどうかの境界線上にいた。
俺はすぐに止めなければと思い、声をかけた。
それが見知らぬ女の子だろうと目の前で誰かが死ぬのは、もう嫌だったから。
その後俺は彼女の名前を知り、人柄を知り、事情を知り、同時にこのままではいつか自ら命を絶ってしまうかもしれないと――そう直感した。
見知らぬ女の子が死ぬことは嫌だったが、知り合いになった女の子が死ぬことはもっと嫌だった。
だから助けてだなんて頼まれはしなかったけれど、俺は彼女が抱える問題を解決することに決めた。
その翌日、夏野を助けられなかった男――田中直紀と接触した。
彼は好きな人を助けることができず、無力に打ちひしがれるだけの存在で、どこか俺と似ていた。
けれど決定的に違う点が一つ。
田中の場合、手を伸ばせば夏野を救えていたんだ。
俺の場合はそうではなく、きっと手を伸ばしても十七夜月さくらは……。
だから余計に、救える手段があったのにそうしないことを選んだ田中が、心の底から腹立たしかった。
壊れたはずの心に熱が込められ、俺は元凶である七瀬との駆け引きに臨んだ。
――助けてくれてありがとう。白雪くん。
喫茶店『バタフライウインド』で夏野にそう言われたとき、何かが楽になった気がした。
赦されたような、解放されたような、救われたような。
とにかく久しぶりにいい気分になったんだ。
それから夏野と過ごす時間が増えて、その多くは語るまでもない本当に他愛もない時間だったけれど、俺にとってはどれも大切な思い出だ。
平和な日々。なんでもない時間。過ぎていく青春。
俺は少なからずこの高校生活の中でいろんな人と出会ったけれど、青春を一番実感させてくれたのは間違いなく夏野だった。
放課後に喫茶店で駄弁って、休日はどっか出かけて、水族館デートもした。
それに。
――んじゃ、その苦労は二人で分ければよくね?
秘密を知れば隠す苦労を背負うことになる。そんな話の流れからぱっと出た返答だったけれど、夏野のその言葉は、何気ないからこそ俺の心に優しく刺さったように思う。
復讐を目的としていた毎日の中で、崩れていく青春にここまで絶望できたのは、夏野が俺の心に降り積もった雪を溶かしてくれたからだ。
ああ、だから、そっか……俺、夏野のことが……好きなんだ……。
「ごめん。俺――ほかに好きな子がいるんだ」
織姫の、文字通り人生をかけた告白に俺はそう答えた。
人の本音は危機的状況やここ一番というときに現れるというが、まさにそうらしい。
女の子からの告白で、別の女の子への好意を自覚するというのも最低な話だが、それでも俺は今――己の本心を観測した。
きっと自分でも無意識のうちに閉ざしていた扉を、まだ少し光が差し込む程度かもしれないけれど、確かに開くことができた。
「それは……美原君のことかい……?」
「……ああ、そうだ」
ショックを隠し切れない織姫の声に、罪悪感を抱きつつも、俺は正直に答える。
「俺は夏野のことが……好きだ」
口にするのが怖かった。言ってしまえば、言葉にしてしまえば、世界に知られてしまえば、俺はまた――心を引き裂かれるほどの残酷な手段で、大切な人を失ってしまう気がして。
でも本心をぶつけてくれた織姫に、俺も、何も誤魔化さない気持ちで応えなくちゃならない。
「……そうか……美原君のことが好き、か……」
織姫は俺の言葉を繰り返す。咀嚼して理解するように、ゆっくりと。
それから彼女は俯いて、大きく息を吐いて、再び砂の地面へと横になった。
「あーあ、フラれてしまった……。まあ、そうだね。君たちはあれだけ仲が良さそうだったし、そもそもとしてこんな重い告白、普通は受けられないか。残された時間を気にして、気持ちを込めすぎてしまったようだ」
いつの間にか月は雲に隠れていた。
淡い光を放つ星々も見えなくなり、俺たちを照らす光は闇に閉ざされた。
互いの顔も分からなくなる仄暗さの中、波の音だけが何かを責めるように響いている。
否――音はさきほどと何も変わらない。
ただ、告白を断った罪悪感から、そう聞こえるようになっただけだ。
織姫の本心を知ることによって、物事の捉え方が変わった。
織姫の事情を知ることによって、選択肢が提示された。
何も知らないことで、ただ周りに流されるままの行き当たりばったりでいることは、あるいはそれだって幸せなことかもしれない。
でも俺は知っている。知ってしまっている。
失うことの痛みを。夏野の気持ちを。
――知ってしまったからには選ばないといけない。
花灯はそれができていた。
俺の過去を知っていて、夏野の想いを知っていて。
そもそもとして花灯自身、神崎凪沙から一方的に気持ちを押し付けられるだけの、すれ違った関係を経験していたから。
だからこそ見えていたんだ。俺の痛みに、夏野の寂しさに寄りそう選択肢が――。
反対に俺は何も選ばなかった。夏野に過去を話さなかったのは、話さないことを選んだのではなく、迷ったまま停滞していただけだ。
なまじ相手の心が読めてしまうから理解したつもりになって、一方的に勝手な言い訳を思い浮かべて、向き合うことをしなかった。
恋は盲目なんて言うけれど、神崎や林間合宿でのあの三人の一方的な想いを間違いだと否定しておきながら、俺自身が同じことをしていた。
見えていたものが見えなくなっていたなんて、俺はとんだ大馬鹿者だ。
「――――」
月を覆う雲が流れていく。迷い戸惑う時間は終わりだ。
織姫の本心を知り、己の本心を知り、やるべきこと――超えるべき壁がはっきりと見えた。
ああ、困難や障害がきちんと目に見える形になるってのは、案外悪くない気分だ。
何も見えない闇の中でもがき続けるより、ずっといい。
「……織姫先輩はこれから、どうなるの」
「さあ。周囲の環境が大きく変わることは確かだ。だが、なに……君は気にしないでくれ。あれだ。住めば都というし、今後の生活も案外悪くないものかもしれない。婚約者の男も、もしかしたら君と同じくらい素敵な人かもしれないしな」
「母親のこと、その……家族関係は?」
「分からないが、これ以上冷める熱もないからな。まあ、流れに身を任せるしかないよ」
織姫が自分に言い聞かせるようにそう言ったが、俺はそっと首を振った。
教団に心を奪われた母親、教団の傀儡となる父親。
崩壊しつつある親子の関係は、熱がなくなれば、あとは腐敗し、風化し、やがては消えてしまう。
この先、家族の温もりを失くした織姫は一体何に寄りかかればいい?
織姫は三年。もうすぐ高校を卒業する。
大学生になれば、一人暮らしをして自立することだって不可能じゃないはずだ。
でも結局、教団側の人間に婚約者がいる以上――家族を破滅に追い込んだ存在から逃れることはできない。
織姫はそれこそ一緒に逃げてもいいと思える存在がいない限り、半ば人質である両親を置いて逃げたりはしないだろう。
いや、逃げたって結局は罪悪感に苛まれ、来た道を引き返すかもしれない。
だからやはり――ターニングポイントはここだ。
織姫の、風見家の現状を変えるには、今のこの瞬間しかない。
一つだけ。俺の頭には、この状況をひっくり返せるかもしれない考えがあった。
けれどこれは実行できるかどうかも定かではないし、成功確率も希望を持てるほどじゃない。
そもそも成功したところで、問題を解決するのではなく、ただ先送りにするだけだ。
「――――」
でも、それでも。
織姫の告白があったから、彼女たちの行動があったから、己の本心を観測し、閉ざしていた扉を開くことができた。
俺は事情を知っていて家族を失う痛みも知っている。
だから覚悟を決めて――織姫と向き合う。
重なった視線は逸らさない。
「冬馬君……?」
俺の目には映っていた。
見えていたものが見えなくなっていたのと同時に、最初から見えないはずのものが見えていたんだ。
すべてを諦めて現実を受け入れようとしている織姫の、建前を取っ払った本音が。
「織姫先輩。もし、もし一つだけ可能性は限りなくゼロに近いけれど、それでも今をもう少しだけ、いい方向に変えられるかもしれない考えがあるって言ったら――聞いてくれる?」
「…………」
人は欲しいものを目にしたとき、瞳孔が開くという。
「ぁ…………」
今の織姫もそうだった。
「……君は、私をこれ以上、助けてくれるというのか……?」
「当たり前だ」
雨が、降ってきた。
今は六月。梅雨入りはまだもう少し先だと思うが、スコールに見舞われることは季節外れというほどでもないだろう。
生暖かい初夏の雨はバケツの水をひっくり返したように空から降り注ぐ。
瞬く間に嵐のようになった天候。雨音は周りの音をかき消すほど騒がしい。
「駅へ戻ろう、織姫先輩!」
「ああ! ……あ、いや、やっぱり先に行ってくれ!」
「え?」
言葉の意味が分からず首を傾げた。
どうして俺を先に行かせようと、言い方を変えれば一人になろうとするのだろう。
一瞬、まさか告白に失敗したせいでこのまま海へ――なんて不吉なことがよぎったが、しかし織姫はどこか晴々とした表情で言うのだ。
「大丈夫、すぐ行くよ!」
嘘じゃないことは目を見れば分かった。
なので織姫の目的は不鮮明なまま、俺は一足先に駅に戻ることにしたのだが。それからしばらくして、堤防のそばで雨音にも負けない大きな声を聞いた。
「私のファーストキス、なんで受け取らなかったんだ馬鹿ぁぁぁぁ――‼」
「えぇ⁉」
何事かと思い、俺は堤防にしがみついてひょいと顔を出す。
すると雨のカーテンの先には、海に向かって叫ぶ織姫の背中が見えた。
「こんなに失恋がつらいなら、知らなきゃよかったぁぁぁぁ――‼」
「………………」
多分、告白と失恋とこの気持ちいいほどの豪雨で感情が高ぶってしまったんだ。
そしてこの雨音なら大声を出しても聞かれないと思ったのだろうが、織姫の声は通りがいいこともあって、見事に聞こえてしまっている。
「ファーストキス、だったんだ……」
なんだか徐々にあの告白を断った事実が重くのしかかってきたので、それは知りたくなかった――なんて意図せず声に出したけれど。
小さな声は雨音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。




