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52話『知らない場所で二人で――馬鹿に』

 突然として大切なものを失くしてしまった気分だけれど、しかしきっとそんなことはない。

 突然なんてことは、ない。 


 一方からは予期せぬことが突発的に起こったように見えたとしても、もう一方には大抵、そうなった経緯、プロセスがちゃんと存在している。


 きっと俺は、夏野(なつの)を遠ざけた一か月前から、少しずつその関係を失っていたのだ。


 イメージは器と水。

 器が常に満ちていると、たった一滴の雫が落ちただけで、中の水はこぼれる。

 それと同じで人間も心に感情が溜まり続ければ、いずれ許容量を超えて、溢れて、こぼれてしまう。


 端から崩れていくように、ゆっくりと。

 寂しさが溶けて夏野の器に溜まり、そして今日、限界を超える一滴が水面に落ちた。

 あとは文字通り、後の祭り。今さら気付いたってどうしようもない。


「――――」


 ――電車の中、俺と織姫(おりひめ)は向かい合って座っていた。

 日はとっくに沈んでいる。窓に映るのは外景ではなく、反射したお互いの顔。


 ふと目が合うと、織姫は後ろめたさを感じたのか、顔を伏せた。


「……冬馬(とうま)君、すまない。私が一緒に居たせいで、大きな誤解を与えてしまった」


「……いいよ。過ぎたことは気にしても仕方ない」


 自分で言ってて馬鹿らしい言葉だ。


 無論、織姫のことは怒っていない。何も非がないのだから怒る理由がない。

 あれは不幸な事故だった。


 むしろ責められるべきは俺だろう。

 俺が何も隠さずにすべてを話していれば、あんなことにはならなかった。


 誰よりも過ぎたことに――過去に囚われたままの自分が、許せなくて、馬鹿らしい。


「……」


 怒りは根源的に、悲しみや寂しさから来るものだと、何かで聞いた覚えがある。

 俺の、自分に対する怒りもそうなのだろうか。


 織姫に対して怒りを露わにしていた花灯(はなび)も、おそらくだが……。


 ともかくとして、これから俺が何をするべきかそれが判然としないことに変わりはない。

 

 こんな状況が続くのなら。何もかもを取りこぼしてきたこれまでと同じように、このままゆっくりと、いっそ、全部、なかったことにしてしまおうか……?

 

 天秤が均衡を失い、思考が傾きかけた矢先。電車が止まった。



 ――水湊(みなと)駅。



 俺と織姫は席を立った。

 何も失意の底で、当てもなく電車に揺られていたわけではない。

 満身創痍であることは否定しないが、少なくとも目的地は、目指す場所はあったのだ。


 それがここ、水湊駅。

 普段暮らしている水波市から電車を乗り継いで二時間ほどの距離にある――海に近い駅だ。


 徒歩ゼロ分。堤防を越えればすぐそこは砂浜。

 

「織姫は昔、ここに来たかったの?」


「ああ。あれから数年の時を経て、望みが叶った」


 小さく笑って、足元に注意しながら暗い砂浜を歩く。


 砂を踏む音がして、波の音がして――あとは何も聞こえない。

 ロマンチックな表現をすれば、俺と織姫の二人だけしか存在しない世界になったかのようだった。


 いや、でも、この場においてはという意味ではあながち間違いでもないか。

 周りには誰もいない。人も、船も、何も。


 夜の砂浜に二人――服が汚れることも気にせず腰を下ろす。


 空に浮かぶ月とそれを彩る星々だけが俺たちを照らしている。とはいえその光は本当に微々たるもので、実際のところ、互いの顔さえうまく見えないけれど。

 でも今はなんとなく、それが楽だった。


 正面に広がるあまりにも大きな夜の海。

 月明かりが垂れた青白い景色を想像していたが、インクをこぼしたように黒く染まったそれは、気を抜けば吸い込まれてしまうようで、わずかに恐怖を覚える。


「……」


 言葉もなく波の音だけが響いて、俺はゆっくりと砂の地面に倒れこんだ。


 織姫が続いて横になる。

 綺麗な黒髪に白い砂が混じるが、けれど彼女は気にする素振りもない。


 ただ静かに星空を見上げて、しばらくしてから口を開く。


「……今年に入ってから父に新しい秘書ができたんだ。それまで父の仕事を支えていたのは母だったが、その母を休ませるために、仕事を少しずつ、やがてはすべて新しい秘書に引き継がせた」


 返事はしない。ただ無言のままに、俺は織姫の語る言葉を脳に詰め込んでいく。


「母は専業主婦として家庭を支えることに憧れがあったから、もちろんそれを喜んだ。だがあるとき、以前から母に対して反発があった人間から『お前は使えないからお払い箱にされたのだ』と言われて――慣れない家事や環境にストレスが重なったこともあって、母は徐々に懐疑的になっていった」


 裸の心を守るように、織姫は胸に手を当てた。


「父を疑い、周囲を疑い、そして自身の存在を認めさせるために行動を始めた。必死に大物に取り入るなどして、四月に君と出会ったときの、私のお見合いもそうだ。そして果てには――宗教団体『イノセント・エゴ』の信者となった」


 もう片方の手が俺の手を握る。彼女の指先は冷たく、震えていた。


「『イノセント・エゴ』はここ二年で飛躍的に勢力を伸ばしている教団だ。有り体に言えば、一緒にいるだけで金や人脈が手に入り、大きなメリットになる。それを求めて母は信者になった。どころか早々に幹部クラスとなり、会社と教団の関係を密接にし、より巨大な組織へと発展させようとしていた」


 俺の体温を求めるように、腕が絡められる。


「でもそれは……違ったんだよ。母は教団を利用しているつもりだったが、実際は、教団が母を利用していた。父の会社内にはすでに多数の信者がいて、そして新しい秘書もその一人。最初から仕組まれていたんだよ。風見グループを乗っ取るためにまずは母を陥れ、そして救いの手に見せかけた魔手を差し出した」


 織姫の声はいつの間にか、耳元にあった。

 まるで親に寄りそって寝る幼い子供のように、彼女は俺の腕にしがみついて。


「気付いたときにはすべてが遅かった。母は半ば洗脳され、父は次の役員会議で更迭、私には教団幹部の男との婚約が取り決められた。もし今さら縁を切ろうとすれば、経営は立ち行かなくなりどっちにせよ会社は潰れてしまう。これまで強引に会社を大きくしてきた父には――味方などいない」


「ひどい話だ」


 淡々と語りながらも、徐々に涙に濡れていく織姫の声。

 もう手遅れだ。

 どうしようもないほどに、俺個人がどうこうできる話を超えている。


 八方塞がりでどん詰まり。

 そんな絶望的な状況で、けれど織姫は助けを求めていて――いや、それは俺が勝手に分析しただけで、よくよく考えてみれば織姫は、助けてくれなんて一度も言っていないじゃないか。


 きっと織姫は分かっていたんだ。俺に話してもどうにもならないなんてこと、最初から。

 ()()に目を向けていたせいで、()()が見えていなかった。


 どうしようもない現実に直面した織姫が、助けてほしいという気持ちを心の底に押し込んで、表面上に抱いた気持ち。求めたもの。それは――。



「……貴女は、諦めを受け入れる時間が欲しかったのか」



 横に視線を向けると、彼女は、静かに涙を流しながら笑っていた。


「その通りだよ。もうどうしようもないんだ。なら――私だけ、これ以上わがままを言っていちゃあダメだろ?」


 つらい現実を受け入れる心の準備をするために。

 せめてもう少しの間だけ、家出することを望んだ。

 それを終えたら、素直に帰ることを決めていた。


「……どうして、俺のところに?」


「君が好きだから」


 ぎゅっと、俺の手を握る織姫の手に力が入った。


「風見の娘ではない、ただの織姫を理解してくれる君が好きなんだよ。だから最後に、好きでもない男と結婚する前に、好きな男との思い出が欲しかったんだ」


「……」


「でも。だけどね、今の気持ちは違う。たった一晩で、されどもあの一晩で、私はもっと君に惹かれてしまった。君のことを想うと胸が苦しくなる。ダメだと分かっていても君を求めてしまう。わがままにも君との関係を手放したくないんだ。――ねえ」


 織姫の影がゆらめく。

 月明かりに背を向けて、彼女は垂れる黒髪を抑えながら、俺の顔を覗き込んだ。

 そして。



「……私と逃げてくれないか? 学生だとか、未成年だとか、家族だとか、そんなこと全部投げ捨てて、知らない場所で二人で、馬鹿になれないかなぁ……?」



 このまま織姫と逃げる――すべて捨てて、つらいことは見ないふりをして。

 手に入れかけた青春も、あの日誓った復讐も、墓の下で眠る彼女のことも全部、全部忘れて。


 織姫の事情を知った俺にはそんな選択肢が提示された。


 わがままだと理解していても、それでも俺が好きだと、一緒に逃げようと――そんな恥も外聞も捨てた本音をぶつけられて。


 俺は、俺の心は――。


 一拍置いて、織姫が動いた。


「――――」


 刹那。瑞々しい唇に触れて、脳が蕩けるほどの柔らかい熱を感じた。


 具体的にどれくらいそうしていたのかは分からないけれど、織姫は息をすることも忘れてしまっていて。

 寄せては返す波の音さえ聞こえないほど、一瞬を永遠のように感じていた。


 そして溺れてしまわぬよう彼女が顔を上げたことで、引き延ばされた時間が元に戻る。


 上気した顔。乱れた呼吸。小さく上下する肩。

 

「冬馬、君……」


 切なそうな淡い瞳には、けれども困惑が浮かんでいた。


「……」


 ああ――俺と織姫の唇が重なることはなかった。

 甘く蕩ける熱の交換は行われなかったのだ。


 織姫が顔を近づけた瞬間、俺は人差し指を彼女の唇に当てて、明確に拒絶した。

 その理由は、一つ。


 俺は緩慢な動作で起き上がって一度大きく息を吸う。


 これまでずっと、見て見ぬふりをしてきた。失うことが怖くて、その距離感に甘えていた。

 あるいは、まさしく盲目になっていたせいで、その事実に気付かなかった。



「ごめん。俺――ほかに好きな子がいるんだ」



 それが、風見織姫の本音が引き出した――冬馬白雪の本心だった。

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