50話『相互理解は多分まだ、遠い』
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「電気、消すよ」
「……うん」
しっとりとした返事が聞こえ、俺は客室の明かりを消した。
それから織姫がいる――ベッドに向かう。
布団をめくり手足を入れると、物理的な意味で織姫の温もりを感じた。いつもは冷たい寝床なだけあって、なんだか妙な気分だ。
布が擦れる音が響く。
手探りで織姫の位置に検討をつけ、適当なところで横になり、背を向ける。
「……」
背中に何かが引っかかる感触がした。どうやら織姫が俺の着ている寝間着を指で掴んでいるらしい。
耳を澄ませば自分とは違う呼吸の音が聞こえてくる。
鼻孔をくすぐる仄かに甘い香り。織姫は爽やかな青りんごのシャンプーを使っているようだ。
と、いつもの癖で状況を確認してしまっているが、なんか変態っぽいな、俺。
「……私は幸運だな」
「え?」
「君は……心を紐解き、理解してくれる。それはとても尊いことだと思うんだ」
人とのコミュニケーションはときに複雑で、ときにすれ違い、ときに傷つけあってしまうから。
織姫は少しだけトーンを落として、そう言った。
母親のことを思い出していたのだろう。
彼女は祖母から学んだ強さと優しさを持っている。きっと困難に直面してもすぐには諦めず、解決に力を尽くしたはずだ。
母親のことをはなから拒絶することはなく、話し合って、理解しようとして。
だけどその果てに、失敗してしまった。
意見が食い違い、対話の道は閉ざされ、家を出ることにした。
「だから相手を理解して、寄りそうことのできる君と出会えて――とても幸運だ」
ふふ、と幼子のような無邪気な笑いが、そっと背中にかかった。
「……昔、よく祖母と一緒に寝た。誰かと一緒だと夜でも寂しくない。……安心、できるんだ」
「……」
「迷惑をかけて申し訳ないと思ってる。でも……もう少しだけ……眠るまで……昔の私のようにさせて……」
強くて凛々しい生徒会長。
容姿端麗で、品行方正で、非の打ちどころがない完璧超人とまで言われる織姫が見せた――弱くて幼い少女の姿。
孤独に凍え、誰かの温もりを感じていたいと望むその心。
何も恥じることなんてない。人間には強いところも弱いところも、善いところも悪いところもある。
強いだけの人間も、悪いだけの人間も、どこか一方からは完全無欠に見えるかもしれないが、全体から見ればどうしようもなく不完全だ。不公平だ。
だから俺は、織姫の人間らしいその弱さを、受け入れよう。
「……いいよ」
俺にとってさくらがそうであるように、そうだったように――理解者がいるということは、それだけで救いがあるということなのだから。
――"理解者"。
「……?」
ふと何かが引っかかった。ずっと閉まっていた扉のドアノブに手が当たったような微かな感触。
しかし思考を遮るように、目蓋が落ちてくる。
眠い。強烈に。脳が強制的にシャットダウンを求めているかのようだ。
嫌な感覚はない。むしろ心地いいくらいだ。
誰かの温もりがそばにあって、それがすごく気が休まる。
ああ――そっか。俺は安心しているのか。
普段は一人で、ソファに横になるか、マットレスに仰向けになるかしている夜だけれど、今は違う。
ベッドで眠りにつくのは、ずいぶん久しぶりだ。
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鍵をガチャリと半回転させて、扉を開ける。
暖房が効いていた。玄関までばっちり暖気が届いているわけではなかったが、それでも肌を刺すような冷たい外気と比べたら、全然マシだ。
靴を脱いで廊下を進み、リビングを目指す。
少し遅くなってしまった。きっと、みんな待っている。もしかしたら先にケーキを食べ始めているかもしれない。
さすがにそれはないかな?
胸が高鳴る。
これからケーキを食べて、チキンを食べて、プレゼント交換をして、あとは何だろう。映画を見るとか、歌を歌うとか?
キャンドルに火を灯して、部屋の電気を消して、どことなくセンチメンタルな雰囲気を演出して。
ああそうだ。カメラを回すのを忘れちゃいけない。
思い出を大切にする人たちだから、きっと映像に残しておけば何年先でも、何十年先でもこんなことがあったね、あんなことがあったねと笑い合うことができる。
リビングに繋がる扉の前で一度止まって、ただいまと言った。
曇った硝子を通して、部屋の明かりが消えていることに気付いたからだ。
もしかしたら何かサプライズの仕掛けなのかもしれない。
今日はクリスマスであるのと同時に、彼女の誕生日でもあったから。
だったら主役を間違えさせてはいけないと思い、声を出してから扉を開けた。
――染みついた匂いに混じって、鼻先を刺激する異臭がした。
――室内は仄暗かった。真っ暗闇というわけではなく、微かな光があった。
――急にオルゴールの音が聞こえた。知らない曲。音はテーブルのほうから聞こえた。
――家族が揃っているはずの食卓には誰もいなかった。並べられているはずの料理もない。
――けど、テーブルの上にはあった。室内を弱々しく照らす蝋燭と、料理の代わりに並べられたプレゼントの数々。
――ぽたぽたと音が聞こえた。最初は黒く見えたそれだったが、目を凝らしてみるとそれは赤色だった。
赤、朱、紅――鮮やかすぎるほど色の濃い液体。
一分か、十分か、一時間か、とにかく永遠にも等しい時間が過ぎて。
俺はようやく、いろとりどりのリボンで包まれたそれらがプレゼントなどではなく――バラバラになった人間のパーツであることを理解した。
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「ッッッ――――⁉」
突如として意識が覚醒した。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ」
いつの間にか上体を起こした姿勢だった。まさに悪夢を見て、飛び起きたのだろう。
息は過呼吸気味に荒く、左手は口を塞ぐように添えられ、右手は異常なほど速い鼓動を抑えるように、胸に置かれていた。
「…………」
左隣に目を向けると、ぼんやりと織姫の顔が見えた。よかった起こしてはいないみたいだ。
俺は静かにベッドを抜け出し、暗闇に慣れた視界を頼りに部屋を出た。
通路に明かりはない。
カーテンの隙間から空を見る限り、まだ夜明けは遠そうだ。
俺はおぼつかない足取りで、水でも飲もうとリビングへ向かった。
「――顔色、酷いわよ」
明かりの漏れる扉を開けると、涼子さんにそんなことを言われた。
「いつ来たの?」
「十分くらい前。さっき様子を見たときは眠れていたようだけれど、気分は?」
「最高」
適当に返事をして、時計を見る。
時刻はちょうど日付が変わるあたりだった。
ベッドに入った時間から逆算して、眠っていたのは一時間前後ってところか。
睡眠にも体力を使うとは言うけれど、それにしても疲労を感じた。
「ソファに座ってて、今、お水を持ってきてあげるわ」
「……うん」
それから水を飲んで一休み。
「……それにしても、保護者としてもいち警察官としてもああいうのは看過できないわよ。年頃の男女が一緒のベッドで寝るなんて、白雪はいつからそんなにいやらしい子になってしまったの」
「別に何もしてないって。話を飛躍しないでよ。どうせ夜は眠れないし、織姫が寝たらこっそりリビングで涼子さんを待ってるつもりだったんだ。不覚にも寝ちゃったけどさ。逆に涼子さんはなんで起こしてくれなかったの」
「……悪夢ですぐに目覚めるって分かってたら、起こしたわよ。はぁ……それであの子は誰?」
涼子さんは少しだけ悲しそうな表情を見せて、俺に聞いた。
「風見織姫、友人。ああ、風見グループの社長令嬢って言えばいいかな」
「えぇ⁉ ちょ、ちょっとじゃああの子、お嬢様ってこと⁉ あなたなんて子に手を出してるのよ!」
「いや手出してないし……。とにかく話を最後まで聞いて。もしかしたら涼子さんの力が必要かもしれないんだ」
俺が真剣な表情でそう言うと、涼子さんは緩めていたネクタイを完全に外して、向かいのソファーに座り込んだ。
「はぁ……続きをどうぞ」
「……織姫は今、危機的状況にある。俺もまだ詳しい事情は聞けてないけど、端的に言えば母親が悪徳宗教に入信したせいで様子が変わってしまって、それが原因で家出した……ってことになるのかな」
悪徳宗教――その単語を聞いて、涼子さんの表情が変わる。
心当たりがあるのだろう。
というか俺もこの辺りで宗教団体となると心当たりは一つしかない。
「『イノセント・エゴ』絡み――ということね。入信したのは母親だけ? 父親のほうはどうなの?」
「分からない。織姫は少なくとも一か月以上精神的ストレスを受け続けてきたからすぐには聞けなかった。今は少し楽になったと思うから、明日あたり事情を話してくれるかもしれないけど、現時点では何とも」
「……問題はその織姫さんのご両親がどう動くかね。白雪が彼女を善意で保護したとしても、通報されれば最悪の場合、誘拐になってしまうかもしれない。……だから私を呼んだのね」
「ごめん、完全に立場を利用した」
さすがに未成年の男子がほぼ一人暮らしする家よりは、警察官の保護者がいる家のほうが、何かと問題を回避できそうだなと思ったのだ。
「……白雪。分かってると思うけど、これは遊びじゃないのよ。あなたのことを信じて少しだけ時間をあげるけれど、事情によってはすぐに児童相談所に連絡するわ」
「うん。分かってる」
頷くと、涼子さんは俺の飲みかけの水をぐいっとあおった。
きっと緊張で喉が渇いたのだろう。
失踪事件もまだ片付いていないってのに、風見グループが絡んだこの一件――できれば大事にしたくないけど、そうしたがる人間は多い。
これからの行動は嫌でも慎重さが求められることになる。
「お風呂、借りるわよ。少し頭を冷やしたいわ。一緒に入る?」
「……いやいい」
「今何を思い浮かべたの?」
風呂、直近の記憶というだけあって連鎖的に、のぼせた織姫を運び出したことを思い出す。
「……涼子さん体重何キロ?」
「ぶっ飛ばすわよ」
笑顔で言われた。




