42話『散華は紅茶の味がして』
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復讐の終わり――永遠に抜けることのない杭を魂に打ち込んだ俺は、涙を拭って二階の廊下に戻り、階段の手前にある部屋へ入った。
そこはデッキには繋がらない寝室だが、代わりに物置部屋が存在する。
誘拐され、囚われている彼女は――美原夏野はきっとここにいる。
この扉を一枚隔てた向こう側に、いるんだ。
心の準備は……できていない。みっともなく泣いて腫れた目はそのままだし、鼻水だってまだ垂れてくる。胸元にはまださくらの感触があって、俺のせいで巻き込まれた夏野にどう顔向けしていいのかも分からない。
すぐにでも巻き込んでしまったことを謝りたい。その前に生きている彼女を抱きしめたい。それ以上に日常を壊してしまったことを償いたい。どこまでも俺と出会ってくれたことを感謝したい。きちんとかけた分の迷惑を報いたい。
ただ、ひたすらに――逢いたい。
「……っ…………」
無数の感情が渦巻いて頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのが分かる。
いつの間にか忘れていた呼吸。全身に響き渡る早鐘。閉ざされた扉を、箱庭の入り口を、鳥籠の出口を開けるために、この手は無意識のうちに動き出している。
次の瞬間――俺は彼女の姿をこの瞳に刻んでいた。
「……夏野」
心の底から、口をついて出たその名前。小さな部屋に響いた音階は自分でも驚くほどに落ち着いており、一秒ごとに少しずつ安堵を実感していくけれど、それでもまだ、追い付かない。
さくらが夏野に手を出していないことは頭では理解していた。でもやっぱり、こうして対面することで得る安心は……果てしない。油断したら全身の力が抜けてしまいそうだ。
「白雪くん……」
部屋の中心。見慣れない黒いワンピースを着て、テーブルとセットの小さな椅子に座っている夏野。その表情には僅かながら罪悪感の色が見えたが、それも一瞬。次の瞬間には俺と同じように抱えきれないほどの安堵を抱き、ゆっくりと立ち上がった。
示し合わせたわけではないけれど、ただ心に突き動かされるまま、一歩ずつ踏み出す。
お互いの瞳に映るのは小さな灯火。傷だらけの青い果実。
――それを守り合うように、俺と夏野は優しく抱き合った。
「本当にごめん。俺のせいで君に怖い思いをさせた」
「……ううん。ウチだって……心配かけたよね、ごめんね……」
「いいんだ、いいんだよ。生きてれば、それで……」
「でも、白雪くんとあの子の会話、途中まで……」
テーブルの上には、スマホとそれに繋げられたイヤホンが見える。そう、あれこそが夏野の抱く罪悪感の原因。夏野はあれを通して、一階でおこなわれた俺とさくらの会話を聞いていたんだ。
「さくらが用意したんだろう? 多分、君に譲れないものを見せたかったんだよ。だから気にしなくていい」
十七夜月さくらと美原夏野。二人は殺人鬼と人質という生死を巡る"敵対関係"だったけれど、同時に"恋敵"という側面も確かにあったはずだ。自分で言うのもおかしな話だが。
だからこれはさくらの、意地のようなもの。そして俺はその意地を崩し、本音を引き出すために最後の場所を二階のデッキへと変えた。
このことは本当に、それ以上でも、それ以下でもないのだ。
「でも聞くことを選んだのはウチが――私が、私の意志で選んだことだから。もっと白雪のこと、一緒に背負いたかったから……」
「夏野……」
二人の夏野。その人格の境はやがて無くなるはずだった。本人もそのつもりだっただろう。決意を胸に、強さも弱さも兼ね備えて、未来を見据えていたのだ。
……それが今再び、二つに分かれている。
悪い意味じゃない。むしろ今の彼女からは、これもまた私自身なのだと胸を張っているような――前よりも強い意志が見える。
夏野も、戦っていたんだ……この場所で。
俺は今一度、その強さに敬意と感謝を込め、美原夏野という女の子を抱きしめた。
普通であれば背負うことのなかったそれが、少しでも軽くなることを祈って。
「ここに居るってことは、あの子は」
「ああ。復讐は、終わったよ」
「やっと、終わって……それで始まるの……?」
「ああ、そうだ」
復讐を終えて、そしてここから始まるのだ。
――俺の負った責任を果たす時間が。
十七夜月事件によって、あるいは俺とさくらが出会ったことによって開かれたこの物語で、俺は人の心を読み、ときに操り、多くの人と関わった。
その中で――命を奪われた人がいる。家族を奪われ、残された人がいる。命を奪うことになった人がいる。この先、ともすれば一生消えることのない傷を負った人がいる。
そのすべての原因が俺だなんて、思い上がったことは言わない。
けれど俺が関わったせいで不幸になった人がいるのは、絶対に無かったことにしてはならない事実なのだ。
だから、俺だけお咎めなしだなんて、そんな話があるものか。ほかの誰が赦そうと、何よりも俺自身がそれを認めない。
大丈夫。夏野なら一人でも生きていける。
それだけの強さが、君にはある。
「行こう、夏野……そろそろ一階に宮下さんが来ているはずだ。あとはそれで」
「なら、これは必要ないよね――?」
軽く、胸を押された。そして夏野は一瞬で俺から離れ、その手に握った拳銃を見せつける。
「……それ、は……ッ」
その銃の名は、ベレッタ。八月三十一日、夏休み最後の日に教会でさくらから渡された物だ。俺があの場所から無様に逃げるときも手放さず持っていた物だ。
そして今日、俺がずっと――腰のベルトに挟み込んで隠し持っていた物なのだ。
「――あの子が教えてくれたの。白雪はきっと、一緒に罪を背負おうとするって」
俺は反射的に拳銃を取り戻そうとした、が伸ばしかけた手を無理やり思考で押さえる。
……焦るな。下手に手を出してはいけない。大丈夫。まだ、大丈夫だ。弾倉には弾丸が入っているが薬室には装填されてないし、安全装置もついている。絶対に暴発しない。命の危険はない。
けれどしかし悠長に構えてもいられないぞ。指紋が、付着してしまったんだ。
――非合法な武器に、夏野の指紋が。
それが後々、彼女にどのような影響を与えるか分からない。ましてやこの状況を宮下に目撃されたら、あらぬ嫌疑をかけられる可能性もある。冷静に、一刻も早く取り返さないと。
くそ、また俺は夏野を……! これ以上、夏野を巻き込むわけには……!
「また、私を巻き込まないようにって考えてるんでしょ? そんなのもうやめて! 一人で抱えて、勝手に死のうとしないでよ……!」
「そ、それは違う!」
「何が違うの……⁉」
俺は死ぬつもりなどない。すべてを投げ出して勝手に死ぬのは卑怯なことだ。
だから俺は生きたまま、その拳銃を利用して、罪を負うつもりで――。
「……白雪はね、生まれてきてよかったの。このまま生きてていいの……! だってまだ、何も始まってない……! 世界には辛いことや悲しいこともあるけど、でもそれと同じくらい楽しいこと、幸せなことがあるって……白雪が教えてくれたのよ!」
目の前で、涙が、落ちていく。
夏野の頬を伝う雫――それは雨のように、俺の心に降り注ぐ。
「でも私、まだ全然知らないから。まだ足りないから! 一緒に行こうよ……私と一緒に生きてよ……ッ! いつか絶対、生きててよかったって思わせてあげるから! 私にも背負わせてよぉ……!」
「……なつ、の……」
駄目だ。俺は巻き込んだ。沢山の人を己の復讐に、己のエゴに。ほかの誰でもない俺自身の意志で。
自由には責任が伴う。代償が伴う。これは俺が背負うべきものだ。俺が贖わなくちゃいけないんだ。
なのに、夏野の涙が落ちるたびに、心が揺らぐ。
先ほど流しきったはずの涙が、再び俺の視界を滲ませる。
「――――――」
俺は生まれてきてよかった――って、夏野が言ったんだ。
聞き間違いでも、俺の願望が生んだ幻聴でもなく、生きてていい……って。一緒に生きてって俺がずっと欲しかった言葉を、今、確かに言ってくれたんだ。
もう、それだけで充分すぎる。充分のはずなんだよ。
なのにどうして夏野はまだ、泣きながら一生懸命に俺を見つめるのだろうか。
「白雪のこと、絶対死なせないから……! 二人でって、言ったじゃない……ッ、私一人に悲しい思いさせないって……言ったんだから責任とってよ!」
やめてくれ。やめてくれよ。そんなに貰ってしまったら、一生かかっても返せるか分からないじゃないか。
「……おれ、は……っ…………」
分からない。何が正しくて、何が悪いのか。何が強さで、何が弱さなのか。
こんなときになって痛感する。俺は責任を背負って覚悟を決めたつもりになっていただけだった。実際は、何にも成長していなかったんだ。
だって俺はこんなにも、夏野と一緒にいたいと思ってしまっている。
愚かしく、ずる賢く、最低にも――幸せになりたいと思ってしまって「いいのよ! 白雪には、幸せになる権利がある……‼」
「っ…………」
夏野が言う。優しく泣きながら、穏やかに。
「押し潰されそうなら私も一緒に背負う。だから、これまでいっぱい悲しい経験をした君は、君を知っている人が羨ましいと思うくらい、笑顔にならなくちゃ……」
「……うっ、うう……うぅぅ……ッ………あああぁぁ……!」
「もう……泣いちゃダメじゃない。笑顔じゃないと……ほら、笑って……ね?」
拳銃を置いた夏野が、俺の頬に手を添える。
ああ……大丈夫だよ。笑い方なら教わった。嬉しいのを無理して隠すなって教えてもらったんだ。
――ごめんなさい。
本当は駄目なことだって分かってる。
それはきっと何も知らないままよりも、ずっと悪いことなんだと思う。
でも、恥も外聞も捨てた、お願いだ。
一生に一度のお願いなんだ。
どうか、叶ってほしい。
精一杯の笑顔を浮かべて言うから、だから、お願いします――。
「俺は、夏野と一緒にいたい」
青白い月が狂おしいほどに夜を照らす中、俺たちは互いの鼓動を感じ合う。
言葉だけじゃ足りないからと、そう言って口づけを交わしたあの日を覚えている。
そして今宵もまた、雪の解けた水と夏の流す雨が一つの雫となって地に墜ちた。
「いいよ」
これが俺の選択。復讐の果てに辿り着き、手に入ることのできた希望。
この青春を生きるための、甘いだけではない、紅茶のようにほろ苦い確かな罪。
さくらへの想いが散った――散華の瞬間だった。
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十七夜月さくら編、了。




