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38話『俺は生まれてきてよかったのかな?』

 雪が、降っているの――。


 女は夕日を覆わんとする夜の帳へ向けて言う。


 ――だからわたしも飛ばないと。飛んで地面に。


 束の間、ある問いがよぎった。

 怪物のまま生きるか、善人のまま死ぬか……どちらが幸せなのだろうか?


 決して自分に投げかけたモノではない。

 それでも脳の奥にこびりついてしまったその問いかけ。


 その答えは。


 ああ、光の中へと堕ちていく。


「もうすぐ着くよ。念のため確認しておくが、そう長く時間は稼げない。それでも構わないね?」


「ええ。分かっています」


 緩く絡めた指を眺めながら答えると、彼はそれ以上何も言わなかった。きっと些細な仕草から緊張と葛藤を察してくれたのだろう。

 静かに息を吐き出すと、車窓の向こうに昼下がりの気怠げな太陽を見た。


 俺は今、車でとある場所へと向かっている。


 運転席に座っているのは、鳥越仁科(とりごえにしな)という精神科医だ。

 仁科さんは十七夜月(かのう)事件以降、精神病院に入院していた俺が出会った恩師の助手をしていた人で、例の人物と接触するためには彼の協力が必要不可欠だった。


 いきなり連絡して数時間後にはこれなのだから、我ながら厚かましいにもほどがあると苦笑が漏れる。


 しかし無理を通してでも、差し迫ったその時までに、少しでも迷いや憂いといったものには決着をつけておきたい。


 それが彼女に相対する俺の責務だと、思うから――。


 五分ほどすると車は最寄りの駐車場に止められ、残りは徒歩となった。

 さらに数分。建物の裏手にある関係者入り口を通り、中で手続きを済ませる。


 表向きの名目は、とある研究に使う資料を集めるための聞き取り調査だ。


 実際に仁科さんは恩師の跡を継いでその類の研究をおこなうことも多く、ここの職員が納得し、一番角が立たない理由がそれだった。

 同行する俺は、仁科さんの助手ということになっている。


 ならば――その裏に隠された本当の目的は。


 最初に話を聞く予定の人物に会うため、俺と仁科さんはそれなりに手入れの行き届いている庭へ出た。

 手続きの際の会話によると、その人物はいつも庭の端にある東屋で絵を描いているらしい。


 職員からそこまで案内しようかと提案があったのだが、それは都合が悪いので何とか回避し、不審がられないように堂々と歩く。


 周囲を見渡せば、庭の手入れをおこなう人、それを近くで眺めている職員と、歪な二人一組がいくつか目に入る。

 独特な雰囲気だ。木や茂みの群れは森のようだが、寂れ具合が重苦しい。水の底のような空気感。けれど世界と完全に隔絶されているというわけでもなく、耳を澄ませば敷地外を走る車の音が時折聞こえる。


「……」


 生と死が入り乱れているような、熱くて冷たい不思議な空間だ。

 

 例の東屋の少し手前に着くと、待機していた職員に話を通す。

 その途中、仁科さんがさりげなく俺に視線を送った。作戦開始の合図だ。


「すみません、実は職員の方にもお話を伺いたいと思いまして。よろしいですか」


「ええ。許可が出ているのでしたら問題ありません」


「それはよかった。早速ペンを……、おや、申し訳ない。ポケットに入れていたはずが、どこかで落としてしまったみたいだ。すみませんが探すのを手伝ってもらってもよろしいですか? 亡くなった恩師から頂いたとても大切なものでして」


「そこまでのものなら……ええ、仕方ありません」


 職員は僅かに納得がいっていない様子だったが、しかしそこは仁科さんが強引に話を持っていってくれた。

 二人は来た道を引き返すようにしてこの場を離れる。俺もそれに同行する素振りを見せたが、途中で静かに引き返した。

 

 稼げる時間はおよそ五分前後。

 さて、立ち止まっている暇はない。俺は大きく息を吸い込んで東屋に踏み入る。


「――――」


 そこには一人の女がいた。椅子に座り、話の通りイーゼルにスケッチブックを広げて絵を書いている。


 ああ――きっと絵を書いていなくたって一目で分かるほどに、この人だ。

 骨がそのまま生きて動いているような細い体に、九月にしては少し寒そうな白いワンピースをまとい、枝毛の目立つ長い黒髪を一束にして肩にかけている。


「君は、誰?」


 筆ではなくクレヨンを手にしていた女は、こちらを見ることなく無表情にそう言った。


「こんにちは、十七夜月(かのう)といいます。隣に座っても? 来たばかりだから話し相手が欲しくて」


「……ええ」


 冷たい声だった。抑揚のない、感情を抑えているのではなく感情そのものが消えてしまったかのような、何も籠っていない声。だがとても穏やかだ。


「名前を聞いてもいいかな」


深雪(みゆき)。苗字は冬馬(とうま)になってるけど、本当は東雲(しののめ)なの」


 冬馬深雪は、あるいは東雲深雪は、もとい五年ぶりに再会した()()()()()()は――そんな妙な名乗り方をした。


「本当はって?」


「前に来た白衣の人が言ってたわ。わたしには結婚してる人がいて、その人の苗字が冬馬で、遠くで暮らしてる子供もいるんだって。変よね。そんなこと何も覚えてないし、そもそもわたしはまだ高校生なのに」


 無機質な声で、少女のような口調で、母は言う。自らを高校生だと。


「――そうなんだ」


 驚きがないと言えば嘘になる。が、しかし仁科さんを通して、この医療刑務所の職員からある程度の症状は前もって聞かされていた。


 だから今の母にとっての現実を壊すような反応はしなくて済んだ。

 母を過去の檻の中から出さずに済んだ。


「現実は人の数だけあるから、信じたいものを信じるのが吉だよ」


 優しすぎないように、冷たすぎないように、穏やかに言う。

 すると母は紙面にクレヨンを擦りつけながら呟いた。


「君はここの大人たちとは違うのね」


「大人が嫌い?」


「大人は卑怯よ。笑った顔で嘘吐くし、力を見せて従わせようとする」


「でもあなたはそんな大人の力を借りなければ生きていけなかった」


「……」


 そこで初めて、母は絵を書く手を止めて俺に目を向けた。


「そう。知らない男の人が助けれてくれるのはわたしが子供だからよ。大人より無知で、若々しいから。けど成長したらいつかは中身を呑み終えた缶みたいに捨てられちゃう。こうして今、よく分からない場所にひとりでいるようにね」


 母は、まるで以前の俺を見るかのように生物として弱い。

 その痩せ細った体は幼年期の栄養失調を想像させ、希薄な自己は逆らえない存在に踏み潰されたあとのように痛々しく、自分を慰めるように時折髪を撫でる癖があり、爪には噛み痕、唇には皮を剥いたことによる出血痕がある。


 大人への不信感は幼少の頃、周囲に頼れる存在がいなかったことが原因だ。親から充分な愛情を与えられず、真剣に向き合ってくれる教師にも巡り合えず、気軽に話せるような友人もいない。


 自分に自信が持てず、心を置いて体だけが成長して、大切な人ができてもいつ見捨てられるか不安で、しかし死ぬ勇気もなく、じきに考えることを止めて、何かに依存して生きていくしかなかった。


 ――だから子供なんて重い荷物を背負いたくなかった。


「――――」


 一つ一つ分析していて、俺は漠然としていた答えに辿り着いた。

 おそらくだが母は幼少期――虐待を受けていた。


 それが俺の受けた虐待(アレ)に繋がっているんだ。


 虐待された子供が成長し大人になったとき、自分の子供にも虐待をおこなってしまうというケースは少なからず存在している。


 無論すべての人がそうなるというわけではない。生き方は人それぞれだ。素晴らしい出会いがあり、それが人生を変えることもあるだろう。


 しかし一方で、間違いを間違いだと認識できないままの人がいるのもまた事実で、間違いだと認識しても正すことのできない人だって確実に存在している。


 親に殴られて育った子供が、親に殴られることを常識だと思うように。

 自分の子供と顔を合わせる度に虐待されたときの記憶がフラッシュバックし、ふとした瞬間に同じ行動をとってしまうように。


 自分を疑い。他人を疑い。過ちを認め。過ちを課し。嫌悪して。憎悪して。少しずつ感情のブレーキが壊れて。少しずつ忘れて――それでもなお、一度根付いてしまったモノを摘み取ることは難しい。


 そうして罪は連鎖するのだ。


 雪の降り注ぐ夜。かつて母は俺に言った。

 本当は君のこと産みたくなかった――と。


 遺伝か、環境か。

 いずれにしても、母も同じような経験をしたのだろうと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を見て、そう思う。


「――――」


 空を見上げた。雪なんか降ってない、じきに夕焼けに染まりゆく空を。


 何をやっているんだろう、俺は。

 どうして今、こうも落ち着いて母の人となりを分析している?

 せっかく無理を通して、血の繋がった家族に会いに来たというのに。


 元々何かを期待していたわけではないが、でも何だろうな。


 思ったよりも――何も感じない。思ったよりも他人だ。他人行儀で、それこそ実際、今の母にとって俺は他人。家族じゃない。

 もしかしたら案外これが普通の家族の姿なのかもしれないけれど、俺はそうは思えない。

 

 かつての母の行動を責めたい気持ちはなく、けれど赦しを与えたいだなんて思いもなく。


 とにかく、ただ本当に、どこまでも続く平行線を眺めているような気分。

 決して交わらない。分かり合えない。気にしようと思えばできるけど、どうでもいいと捨てることもできる――吹けば飛ぶような、軽すぎる関係。


「――君は」


「え?」


「君はどうしてここにいるの」


「俺は……あなたと同じだよ」


「そう」


「でも、もう行かないと。最後に一つ聞いてもいいかな」


「何?」


「……その……ううん、やっぱりいいや。それじゃあ俺はこれで。さよなら、深雪さん」


「もう、来ちゃ駄目よ」


 仁科さんと合流した俺は、母の聞き取り調査のみ離席し、残りを助手としてこなした。

 そうして医療刑務所をあとにする頃にはすっかり日が傾き、空には夜の帳が落ちかけている。


「価値はあったかい?」


 ふと運転席に座る仁科さんが、患者と接するときの声音で聞いてきた。

 

「ええ」


「そうか。私にはまだ少し、何かが足りていないように見えるが」


「どうでしょうね」


「彼女はもうすぐ刑期満了だそうだ。心残りがあるなら今度はちゃんとした形で会えばいいと思うよ」


「そうですね。今日は本当にありがとうございました」


 ――最後に、聞こうと思っていたこと。

 その答えを知りたかったという気持ちは確かにある。


 だが今の母は俺の知る母ではない。

 違う現実を生きる、別の人間だ。


 それで充分、楽になった。



 だから俺はやり遂げるよ。――この復讐を。



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[一言] 切ないですね。
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