34話『人畜有害⚤人畜無害』
❀
盞花町にある中学校への入学を二週間後に控えた三月下旬。
その日の俺は現在の保護者である義父さん、付き添いのさくらと共に、それまで通っていた隣町の小学校を訪れた。
目的は卒業証書を受け取るためだ。
自宅学習を理由に冬休みが明けても登校しなかった俺だが、その卒業はきちんと認可されていた。
いじめに両親の逮捕と事情が事情であることもそうだし、そもそも小学校での留年などあってないような制度なので、当然といえばそうなのだろうが。
ともあれ、さくらの助言もあり卒業式への不参加を決めた俺は、内々で証書の受け取りを済ませた。
これに関して特筆するべきことはない。
強いて言うなら帰り際、さくらが二年前に俺の担任だった女を連れてきたことくらいか。
俺の前に現れた彼女は泣きながらその場で土下座をした。
教育放棄、生徒の親との不倫など――自分の過去の過ちを酷く悔いている様子だった。が、しかし、反対に俺は困惑して義父さんの背中に隠れることしかできなかった。
失った時間が戻ったわけでも、和解をしたわけでもない。
ただ事実としてそういうことがあった。
あくまで他人事のような、俺にとってはそれだけの――こと。
晴れて地元との関係をすっぱり断ち切った俺は、去年のクリスマスから始まった幸せな日々を、以降も享受し続けた。
朝は家族全員で朝食を摂り、昼間は自室で小説家かつ絵本作家でもあった義父さんが所持している本を片っ端から読み倒し、夕方になってさくらが帰ってくると彼女の部屋で楽しい勉強会を開き、夜に建築デザイナーである義母さんが仕事から帰ってくる頃には夕食の時間となり再び食卓を囲む――そんな新しい生活はいつまで経っても慣れないくらいに、穏やかだった。
そういえばある日の夜、夕食の時間にこんな会話があったことを思い出す。
「母さん、少し疲れた様子だね? 何か悩みごとでもあるのかな」
「仕事は順調よ。だけど今日ね、急に学生時代の恩師からある洋館を買わないかって勧誘があって……。経年劣化が酷いからって破格の値段なのだけれど、いくらなんでもね。かといって無下にするわけにもいかないし……ねえ、さくらや白雪は別荘とか欲しかったりするかしら?」
「一応聞いておくが場所は?」
「隣の水波市にある大きな坂をあがったところだとか」
「ふん、現時点での利用は難しいだろうね。使うとしたらお父さんが缶詰になるための場所か、私か白雪が一人暮らしをする際に使うか、かな」
「別荘ならもうあるし、仕事場なら僕はこの家で充分だよ。洋館は確かに趣きがあるかもしれないけどね、でも僕は現役というわけでもないから。白雪はどうかな?」
「……いい。俺も、この家があればそれだけで」
「よく言った。あとで頭を撫でてやろう、白雪」
「……うん」
件の洋館に数年後住み着くことになるなんて、このときは考えもしなかった。
❀
四月。桜が見事に花を咲かせ、儚くも美しく散り往く――雪解けの季節。
俺たちは中学生になった。
用意された学ランに袖を通すと冬馬白雪という存在が――否、十七夜月白雪という存在が、社会に、世界に認められているようでとても嬉しかったことを今でも覚えている。
さくらもセーラー服がとても似合っており、その姿は同級生どころか中学生という括りでもあまりに群を抜いていた。
制服が可愛いとか、着こなし方が良いとか、決してそれだけではなく。
銀髪碧眼、ほんの少しの幼さを残した過剰なまでに整った顔、小柄ながらもバランスの取れたスタイル。
見れば見るほどに心奪われるような果てのない――美しさ。
この時点で、『十七夜月さくら』の外見はほぼほぼ完成されていたと言っても過言ではない。
実際、入学式の日に撮った写真の中の彼女と、五年後に相対する彼女との外見的差異は髪型くらいなものだ。
当然のようにさくらは入学後すぐに学校のアイドル、どころか崇拝されるほどの存在となった。
俺が"普通"の生活を送る一方で、彼女はどこまでも"特別"としての輝きを放つ。
周囲の目を眩ませるほどの、眩しさを――。
「つまり先ほどの授業にはこの説明が不足していた。どうだ? 些細なことだが、少しばかり視点に公平性が増したとは思わないかな」
「うん。この覚え方のほうが……うまく言えないけど、いい気がする」
授業が始まって一週間。さくらへの特別待遇は目に見えて機能していた。
その一つが席順だ。本来名簿順で並んでいるところ、さくらの要望により俺も合わせて左端の隅の席が用意された。
室内が一望できて日当たりがよく窓の外の景色も悪くない、まさに特等席。
そして休み時間になると、俺は後ろの席のさくらから授業の補足を受ける。
「――いいかい、白雪。大切なのは物事への向き合い方、養うべきは思考力だよ。作者の気持ちも、小難しい計算も、羅列された記号も、偉人の足跡も、すべてを覚えたところで将来に役立たないものはあるだろう。しかしね、培われた知識に対する姿勢は確実に君の力となる。どう考え、どう学ぶか。磨かれた思考力はあらゆるものに適用され、生きるための自力となるだろう」
「……?」
「少し難しかったかな。まあ学ぶことを怠るなということさ。……にしても、あまり私頼りになられてはという思いで授業を受けさせているが、結局は私自身で見てやるのが効率が良いとは参った。はてさて、どうしたものか」
そう言ってさくらは肩肘をつき窓の外に目を向ける。
綺麗な青色の瞳には気怠さがつきまとっている。もはや彼女にとってこの学校は、翼を広げるのにも窮屈な鳥籠でしかないのだろう。
「人の命は重いな」
か細い声で呟かれた言葉。
次の瞬間、窓の隙間から春の風が吹き込み、さくらの白銀の前髪が靡いて揺れる。
その光景は何か――とても神聖なものを見ているようだった。
「さくら」
「なんだい」
「……俺、さくらに迷惑をかけないよう頑張るよ」
「ふふ、白雪のペースで頑張りたまえ。それはそれとして君、もう私のことをお姉ちゃんと呼んでくれないのかい?」
「そ、それは……なんか、やっぱり変かなと思って。あと少し恥ずかしい」
十七夜月家に引き取られて一か月も経った頃には、俺は既に彼女のことをさくらと呼んでいた。
それまでの俺は閉鎖的な環境に身を置いていたせいで基本的な常識が欠落していたのだが、それも新たな家族と接し、本を読み、テレビを見れば、その矯正も自然とおこなわれるもので。
「やれやれ。君に芽吹いた羞恥心を私は喜ぶべきなのかどうか、難しいところだよ」
さくらはそう言って、少し寂しそうに笑った。
❀
五月上旬。俺は二週間後に予定されている中間テストを、自分の力だけで受けてみたいとさくらに進言した。
単純に今の自分の学力がどの位置にあるのかを確かめたかったこともそうだし、何よりさくらが俺のために退屈な時間を過ごしているのが申し訳なかった。
だから俺は一人でも大丈夫なんだと、証明したかったのだ。
俺の気持ちを汲み取り快諾してくれたさくらは、こう言う。
少しばかり自由にしてみるか――と。
このときの彼女の全能感に満ちた表情を、俺はよく覚えている。
ああそれと、こんなことも言われた。
「白雪。伏宮風花とはあまり関わるな。忠告とまでは言わないが。まあ、ちょっとした助言だ」
そうして次の日からさくらは、授業に出なくなった。
あとから聞いたところ彼女は大抵、立ち入り禁止の屋上で風に当たりながら読書を、もしくは音楽室でピアノを弾いたりするなどして、放課後まで時間を潰していたらしい。
登校すらせず遊び歩いていたわけではないものの、できるだけ人目に付かずに息をひそめるような学生生活。
かと思いきや、週に一度は食材を持ち込んで家庭科室で料理を作ることもあったし、スカートに学ランを合わせた格好――その逆も然り――をしていた時期もあった。
まるで彼女自身、自分がどれくらい常識を犯すことができるのか、実験しているようだった。
そんな退屈な日常を彩る、非日常的で、非常識的な行動の数々。
結果としてそれは周囲に、『十七夜月さくらは"特別"だから。何にも侵されず、縛られず、自由が許された聖なる存在だから。それを咎めることは誰にも許されていない』――なんてそんな意識を、概念を、肥大化し常識のように植え付けた。
分岐点。
彼女の特異性のギアは、ここで一段上がったように思う。
その一方で俺は至って真面目に授業を受けていた。
さくらのおかげで同級生たちとの学力の差はほとんどなかったので授業に付いていけないということもなく、純粋に学ぶというコトを楽しんでいた。
それに加えて、さくらの不在は俺に新たな人間関係をもたらした。
「……十七夜月くん?」
「ん……なにかな」
「これ。消しゴム落ちてたよ」
「あ、ありがとう。……あの、手、怪我してるけど大丈夫?」
「え? あ、うん。ちょっと転んじゃって。大丈夫。心配してくれてありがとうね」
会話をしたのは隣の席の生徒。
さくらがあまり関わるなと助言を残した女子、伏宮風花。
彼女がどのような人間だったかと言えば、可憐な容姿と優秀な学力を持ち、その一方で体は弱く、喘息なのかよく酷い咳をしては周囲に心配されるタイプだった。
さくらが青い薔薇だとするなら、伏宮は池に浮かぶ睡蓮。
陽の光が途切れると花を閉ざしてしまうという睡蓮の特徴がまさしく、彼女にぴったりだ。
亡くなって数年が五年が経った、今でも――そう思う。
❀
五月中旬。中間テストを三日後に控えた俺は、帰路の途中で単語帳を開いていた。
単純な暗記の科目はこうしてインプットとアウトプットを地道に繰り返すのが効果的――そんな知識を義父さんが持っていた本から得たので、その実践だ。
「――白雪」
不意に隣を歩いていたさくらの声が耳に刺さり、同時に腕を引っ張られた。
「うん? え――」
驚いて顔を上げると、俺の真横を男が早足に通り過ぎていく。
危うくぶつかるところだった。さくらはそれを見越してとっさに俺の体を引き寄せたのだろう。
すぐに助けてくれたお礼を言おうとした、次の瞬間。
貧弱な体幹が災いしてか――ずるっと、足を滑らせた。
「っ……、……!」
とっさに伸ばした左手が先に地面に付くも、しかしそれで崩れる体を支えることができるはずもなく。
結果、俺は左の手のひらを擦りむくのと同時にその場で尻もちをついた。
まあなんてことはない。痛みはあったが耐えられないほどではなかったし、運動能力が低いせいで体育の授業でも同じような怪我をしたことがあった。慣れていたのだ。
すぐに何事もなかったように立ち上がろうとして――しかし。
「あ――――」
そこで気付く。
「す、すまない! 君に怪我をさせてしまうとは……なんと謝ればいいか……。本当に申し訳ない……」
俺よりもさくらのほうが取り乱していることに。
「大丈夫。これくらい、何でもないよ」
「馬鹿を言うな、痛いときは痛いと言いたまえ……我慢する必要なんかないよ……。家までまだ距離があるな。とりあえず傷の手当てだ」
「あっ……」
珍しく少し強引に俺の手を引いたさくらは、近くに新設されたコンビニへと向かった。
俺が洗面所で手を洗い、その間にさくらがガーゼ、消毒液、絆創膏を買う。
その後はレジの横を抜けたところにあるイートインスペースで、傷の手当てをした。
「よし、これで大丈夫だろう。どうだい? まだ痛むか? 何かを気にしている様子だが」
「怪我は大丈夫。でもここ、勝手に使っていいのかなって……何か食べるわけでもないのに」
「……君は変なところで細かいな。そういうことなら、少し待っていたまえ」
ほどなくして戻って来たさくらの手にはペットボトルが二つ携えられていた。
「一息つこう」
片方を俺に選ばせて、並んで椅子に座る。
ほかに客はいない。落ちていく夕日を眺めながら過ぎていく、ゆったりとした時間。
「学校は楽しいかい?」
まるで母親のようにさくらが問いかける。
俺は答えに迷いながら、考えながら、言葉を紡いだ。
「……よく分からない。でもこうしてると前より広いっていうか……自由な感じが、する。校則とか、ルールは増えたのに、なんでだろう」
「じきに君の世界はもっと広がるよ。中学生にとって帰りに寄り道をすることは特別な行為だろうが、高校生になれば当然のように選択肢の一つとして出てくるだろう。想像してごらん。三年後の君は放課後、洒落たカフェで紅茶を飲んでいるかも」
「……想像、できないよ。……あ、ねえ、さくら。お金は? 校則だと持ってきちゃいけないはずなのに」
「ん、ああ、万が一のためにとお母さんから持たされていたんだ。ほら、お守りの中に。少し過保護かとも思ったが役に立ったよ」
そう言ってさくらはお守りの中から、一万円札をちらりと見せた。
「そうだったんだ」
――と、当時の俺は疑問を抱くことなく納得したが、しかし改めて思い返してみると妙だ。
さくらは俺の傷を手当てするために、次に飲み物を買うために、お金を使ったはず。
だというのにその一万円札がそのまま残っているのは、どうにも引っかかる。
無論、そのほかに紙幣があってそれを利用したという可能性もあるし、お釣りは募金箱にいれた線も否定できない。
「それにしてもだ。町中で単語帳に集中するのはおすすめできないよ、白雪。暗記が不安なら良い記憶術を教えよう。場所法、記憶の宮殿とも言うのだが――」
けれど、それでも。
俺は一つの事実として、さくらがモノを買う場面を目撃していない。
これまでも。そして、これからも。
さくらが誰かにお金を支払うような行為を、俺は一度たりともこの目で見たことがないのだ。
❀
中間テストを終えて二週間が経過した六月の上旬。
この日は学年全体でマラソン大会がおこなわれた。
覚えているのはさくらが参加しなかったことと、俺が走っている途中に力尽き、棄権を言い渡されたこと。
そして。
「失礼……します」
「あれ、十七夜月くん? どうかしたのかな?」
休むように言われて向かった保健室で偶然にも伏宮風花と二人きりになったこと。
「転びそうになって休んでたら、棄権させられちゃって。……ここで休んでなさいって」
「そうなんだ。私も、そんな感じ」
説明をしながら、伏宮と距離を取れる場所に座る。
「……」
『伏宮風花とはあまり関わるな』――この言葉を貰って一か月。
俺はそれに従うように彼女との接点を持たないようにしてきた。
隣の席ということもあり会話の必要を迫られることはあったけれど、お昼を一緒に食べよう、一緒に帰ろうなどの誘いは断ってきた。
なので彼女からの俺の印象は、不愛想で人付き合いの悪い男子以上であるはずがないのだが。
「ね、隣いい?」
「あー……うん」
何故か、伏宮はそれでも俺との距離を詰めようとする。
まあ今となっては彼女の心理はよくわかる。彼女の性質上、自分に惹かれる人間よりも、そうでないほうに意識が向く。それだけのこと。
しかし当時の俺にとってそれは、なんだかさくらを裏切っているような気がして、ほんのりと心苦しかった。
どうしたものかと視線を泳がせると、目に留まったのは伏宮の手首。保冷剤のようなものが巻かれている。
「十七夜月くんは怪我とかしてない?」
「……うん」
「そっか。私はこれ、転んだときに少し捻っちゃって。でも冷やしてればすぐ直るって」
「それはよかったね」
「うん。でも今日の図書委員はお休みかな。本の整理、結構疲れるから」
「ほかの人は?」
「いないよ。ウチのクラスの図書委員、私一人だから」
はて、委員会に入るのは各クラス二人以上だったような、と疑問に思うのと同時に答えを察した。
人数不足は俺とさくらが原因だ。
委員会は無駄に時間を取られる。だからどこにも入らない――そんなことをさくらが言って、教師が特例を出した。
そして俺もそれに従うというか、巻き込まれる形で無所属となっている。
なあなあで誤魔化され、見て見ぬフリをされ、曖昧に、忘れられている。
「……そういえば十七夜月くんってどこにも委員会入ってないよね? 図書委員とか……どう?」
「え?」
「ホントはね、一人って結構心地よかったんだ。ほら、委員会って男女二人でしょう? クラスの男子は私のこと、その、エッチな目で見てくるから。……でも十七夜月くんは違う。私のことそういう目で見ないし、肌も白いし顔も女の子っぽくて可愛いし、なんか薄幸って感じで守ってあげたいっていうか……って、あ、ううん違うの! と、とにかく十七夜月くんとなら一緒でもいいなって……」
あはは、と目を逸らしながら伏宮は乾いた笑いをこぼした。一度に話し過ぎたのでやりすぎたと思っているのだろう。
対する俺は罪悪感に胸を突かれていた。
委員会に入らないことのしわ寄せが伏宮に行っている。そういう考え方をすると、この誘いには断るという選択肢はないように思えた。
しかし、だけれど――俺という人間の主柱となっている彼女から賜った言葉が、そうはさせない。
「悪いけど、図書委員には――」
と、伏宮の誘いを断ろうとしたそのとき。
「――ッ、けほ、けほ……! ごめん……けほッ、……すぐ収まるから……」
伏宮はすぐにポケットから吸入器を取り出し、薬を吸い込む。
次第に症状が落ち着いてきた伏宮は、ふと授業に戻ると言ってそそくさ保健室を出ていった。
声をかける間もなく。結局、中断された話が再開されることはなかったのだ。
そして。
次の日から露骨に、伏宮からのアプローチが増えた。
❀
六月も四回目の金曜。入学から二か月と半月が経ったこの頃は順調に学生生活を満喫していた。
本業である勉学についてもそうだが、人付き合いを覚えた俺はさくら以外に話す知人を増やし、共に昼食を囲み、昨夜見たテレビや流行りの漫画などの雑談に参加するくらいには成長を見せた。
まあその知人らはあくまでも知人で、世間一般でいう友人よりは薄い関係なのだろうが、未だ社会性に疎い俺にはむしろそれくらいが肌に合っているとも思える。
その一方で、というべきだろうか。
日々様々な角度からアプローチしてくる伏宮の存在は、鬱陶しいとまではいわないけれど、ちょっとした悩みのタネではあった。
好意を向けてくれる彼女を無下に扱うことはできず、しかしさくらの助言を無視するわけにもいかない。
俺が一人勝手におおげさに考えているだけかもしれないが、とにかく二人の間で板挟みとなっているこの状況は、少しだけ窮屈だ。
そしてこれは――そんな矢先の出来事だった。
「――おい、君」
衣替えを経て、セーラー服にスラックスという恰好に落ち着いたさくらが、突然伏宮に声をかけた。
伏宮は驚いたように顔を上げる。
「……なん、ですか?」
「なに、少し悩んでいるように見えてね。その胸のつっかえを取るいい方法を教えてやろう。耳を貸せ」
ほんの数秒の出来事だった。さくらから何かを吹き込まれた伏宮は、どこか虚ろな表情で抑揚を失った声を発する。
「――――はい。分かりました……」
伏宮は緩慢な動作で鞄を持ち、教室を出ていった。
一方でさくらは俺の横を通って自分の席に座る。視線の先は窓外の遠い空。
端から黒雲に覆われ往く空模様は、これから雷鳴を伴った豪雨が発生することを予期させる。
見ていて不安を覚える空だ。
「突然どうしたの、さくら」
一連の流れに疑問を覚えた俺は、なんとなく聞いてみる。
するとさくらは今までに聞いたことのないほど冷たい声で答えた。
「度が過ぎたのさ。いい加減、君の周りをうろちょろされるのは目障りだからな」
暗雲立ち込める天空になおも視線を向けながら、言葉は続く。
「白雪はミュンヒハウゼン症候群というものを知っているか」
「……ううん。聞いたことない」
「ざっくりと言えば病気の演技をしてしまう心の病だよ。仮病とは少し違うのだが、まあ虚言癖という認識でも構わない。目的はそうだな――いッ、急に頭痛が……うぅッ、!」
「さ、さくら……大丈夫⁉」
「――そう、それだ」
指を鳴らしたさくらは、そのまま手を拳銃の形にして俺に向ける。
「え……?」
「君は今、私のことを心配したな。症候群患者の目的はそれだよ。病人に鞭打つ人間はほとんどいないからね。それを理由に周囲の人間関係を操ったり、他人から向けられる感情を選別するのさ。誰からも悪意を向けられないように。誰もから慈しみを向けられるように、とね。軽度なら頭痛、咳、腹痛。ああ、何もないところで転ぶなどもあるだろう。さて――心当たり、あるね?」
さくらが察している通り、俺は既に伏宮に当てはまるミュンヒハウゼン症候群の症状を思い出している。
咳は言わずもがな、彼女は転んで怪我していたことがあった。テスト前にも、マラソン大会のときも。
「……伏宮さんの咳や怪我は……嘘ってこと……?」
「彼女の場合、無いものを有ると言っているわけではないのだが、そうだね。悲しい飾りだよ。おそらく幼少期から両親と距離があったために、心が冷たくて寂しいんだ。最初は偶然だったはずさ。水を上手く飲み込めずに咳をしてしまったら周りから心配された。そんな何気ない優しさは彼女にとって初めてのことで、心地良くて、もう一度、もう一度とやっているうちに癖になってしまった。そんなところだろう」
嘘も吐き続ければ本当になる。特に人間の体は思い込みでどうにでもなるからね――とさくらは付け加えるように言った。
「じゃあさくらはさっき、何を?」
「両親の前で手首を切ってみろと言った」
「え……?」
耳を疑った。まさかそんな言葉をさくらが口にするなんて、とても信じられなかった。
けれど彼女の表情が、すぐに"騙されたね"と種明かしてくれない態度が、言葉に真実味を与える。
「そ、そんな……今より自分を傷つけたら、伏宮さんは大丈夫なの……?」
「ああ。彼女はまだ軽度なほうだ。一線を超える度胸はないよ。きっと両親に注意されて、それが家族の仲を深めるきっかけになる。じきに彼女の症状は治まり、君の気を引くこともなくなるというわけだ。めでたし、めでたし」
軽く両手を重ねて音を立て、さくらは立ち上がった。
「私は少し寄るところがある。雨が降らないうちに白雪は帰りなさい」
❀
その日の夜――さくらは雷雨の中、セーラー服を血塗れにして帰ってきた。
雨の中、傘をささずに帰ってきたことが一目で分かるほどに濡れたその体。髪も制服も水を含み、吸いきれない分は床にぽつぽつと垂れている。
しかしそれ以上に目を引くのが、まるで元からそういう柄だとでも言わんばかりに滲んだ鮮やかな赤色。
「さ、くら……なに、それ……?」
見張った目がまるで閉じ方を忘れてしまったように動かない。それどころか体も。かろうじて声は出せたけれど、それは雨音に消え入りそうなほどか細いものだった。
落雷――窓を叩く雨音が不安を煽り、恐怖を掻き立て、理性をじりじりと削っていく。
怪我をしたのだろうか。ならばあの出血量は命に係わるレベルだ。どうすればいい。まずは手当てか。それとも救急車を先に。番号は、警察と消防、どっちがどっちの番号だったか。
義母さんは短期出張。義父さんは検査のために数日入院。家にいるのは俺たちだけだ。
俺が何とか、どうにかしなければ。今すぐにどうにか、どうにか――――、
「白雪」
「っ……」
その一言で、パニック気味になっていた俺の思考は今一度さくらに向けられた。
さくらは気怠そうに靴とソックスを脱ぎ捨て、そのまま廊下に踏み込む。
ぽつぽつと落ちる雫。
「白雪……お願いだ。君は死ぬな。何があっても、どんなに死にたくなっても、絶対に一線を越えてはならない……」
病にかかったような、ともすれば今にも永遠の眠りについてしまいそうな儚い声で、彼女は言った。
ベルトが外され、水浸しのスラックスが床に落ちる。
露わになるさくらの水色の下着と、細くしなやかな足。次に床に落ちたのは再び水滴で、その次は血濡れのセーラー服。
「さく、ら――」
軽い足音を立て、さくらは下着姿のまま流れるように抱きついた。
冷たい。心臓の鼓動がなければ死んでいると勘違いしてしまうほどの、生の無さ。
その場に静かに座り込むと、さくらに肩を押されて馬乗りになられた。
「なあ白雪、もう一人の私が囁くんだよ――お前は人の道を外れた畜生だって。君もそう思うかい?」
前にもこんなことがあった。頬に当たるさくらの髪が俺の視界を狭めて――映るのは月光を纏ったかのような冷淡で美しい瞳だけ。さくらもまた、麗しい眼で俺をじっと見つめる。
しかしそこに、以前のような余裕はなかった。
あるのは激情。湛えたのは月光でなく涙。
今の十七夜月さくらは――酷く憔悴していて、普段の全能感に満ちた表情など忘れ去っている。
「――君が、欲しい。私と一緒に堕ちてくれるか?」
つーっと、肩から手首にかけて指先でなぞられ、最終的には手のひらを強く乱暴に握られた。
もう片方の手は俺の頬。熱を感じるように、奪うように添えられている。
「離さないでくれるな」
「……うん」
どう答えるのが正解だったのかは分からない。けれど突然のことに、一見は落ち着いていながらもしっかりとパニック状態にあった俺は、さくらの言葉の意味を理解しないまま、そう答えた。
あるいは、それこそがさくらの狙いだったのかもしれない――なんて考えてしまうのは意地が悪いだろうか。
とにかくさくらは、俺の言葉に心の底から安堵した様子を見せ。
「ああ――――良かった」
そう呟いた後、脳を溶かすほど甘い声で耳打ちした。
「君に青い薔薇を送ろう。今日は忘れられない夜になるよ」
このあとに何があったのかを俺はそれこそ雷に打たれたような衝撃と共に、鮮烈に記憶している。
「白雪は明日の朝、何が食べたい?」
仏教には六道という概念がある。
輪廻転生――死したものは背負った業に応じて、次に生まれる世界を六つのうちのどれかに割り振られるという考え方だ。
それに則った言い方をすれば俺たちが今こうして生きている世界は人間道となるのだが――ふと考えてしまう。
十七夜月家に引き取られる前の俺は、間違いなく地獄に居た。
六道の一つに。
光の見えない、罪を償わせるための世界に。
まあ、その罪がなんであるのかは分からない。
結局俺はその世界を抜け出したから。
「君はどちらかといえばパン派かな? そうだね、先日買ったベーコンを薄く切ってベーコンエッグに……ああ、卵はスクランブルエッグのほうが良いかな? サラダには少しばかりスモークサーモンをのせて、あとはオニオンスープも。ドロドロに溶かしたチーズを入れてみるのも悪くない」
しかしならばその先は?
考えるに、十七夜月家に来たばかりの俺は飢えていた。
体も心も奪われるばかりで、枯れていて、求めていた――愛を、心を。
「昼食はどうしたものか。軽めのサンドイッチか、それともパンケーキとか。生クリームの上にフルーツを落として……あるいは趣向を変えて、うどんでも茹でてみようか」
そしてそれは、さくらが与えてくれた。彼女が俺の飢えを満たしてくれた。
餓鬼の道を、俺は抜け出すことができたのだ。
だとしたら次に俺を待つ世界は――?
「夜は……ピザでも頼もうか。朝も昼もというのはさすがの私も疲れるからね。夜は少し休んで、それからまた――え? ふふ、嫌だな白雪。明日は学校なんて休みだよ」
それはこの日の夜、決まった。
降りしきる雨が窓を叩く、暗い夜の帳の中で。
「だから思う存分に、君を温めてあげよう」
俺は白銀と吸い込まれそうな青を持つ彼女に、その身を預け、体を重ねた。
何度も、何度も。甘く妖しい誘いにむしゃぶりついて。
家族なのに。本能に身を任せて。情に色をつけた。
畜生と――成ったのだ。
つまり、だから。
俺はこの世界に生きていながらも、まだ人間ではない気がするんだ。
そして来る月曜日。
俺は伏宮風花が両親の目の前で手首を切り、自殺したことを知った。




