第3話
ミスっていたので投稿し直しています!!
厨房への「司令塔」としての復帰から一ヶ月。
王都は本格的な夏を迎えていた。
蝉の声が響き、アスファルトならぬ石畳からは陽炎が立ち上る猛暑日。
そんな暑さも和らいだ深夜二時。
私は、寝室のベッドの上で目を覚ました。
「……はぁ」
ため息をつき、天井を見上げる。
隣では、ライオネル様が規則正しい寝息を立てて眠っている。
彼の寝顔は、戦場での鬼のような形相とは程遠く、無防備で子供のようだ。
起こしたくない。彼は日中、私の護衛と店の手伝い、そして騎士団の書類仕事で多忙を極めているのだから。
けれど。
私の体は、理性の言うことを聞いてくれなかった。
「……酸っぱいものが、食べたい」
強烈な渇望だった。
口の中が、酸味を想像するだけでキュッと痛くなる。
ただの酸っぱさではない。
突き抜けるような爽快感と、キュンとするような香り。
黄色くて、瑞々しくて、太陽の光を凝縮したような果実。
レモン。
それも、砂糖とバターで煮詰めた甘酸っぱいレモンカードと、サクサクのタルト生地が合わさった『レモンタルト』が食べたい。
今すぐに。
一秒でも早く。
「うぅ……」
我慢しようと寝返りを打つが、頭の中は黄金色のタルトで埋め尽くされている。
お腹の赤ちゃんが「ママ、レモンだよ! レモンを持ってきて!」と暴れているような気さえする。
布団の中で身を捩っていると、隣の気配が動いた。
「……シェリル?」
眠たげな、しかし瞬時に覚醒した低い声。
ライオネル様が上半身を起こし、暗闇の中で私を見下ろした。
「どうした? 気分が悪いのか? 腹が痛いのか?」
「い、いえ。違うんです。ただ……」
「ただ?」
彼は心配そうに私の額に手を当てた。熱はない。
私は恥ずかしさを忍んで、正直に告白した。
「……レモンが、食べたいんです」
「レモン?」
「はい。酸っぱくて、甘い、レモンタルトが……どうしても……」
言いながら、情けなくて涙が出てきた。
こんな真夜中に、子供みたいなわがままで夫を起こすなんて。
しかし、ライオネル様は真剣な顔で頷いた。
「わかった。レモンだな」
彼はベッドから降り、素早く着替え始めた。
「待ってろ。厨房に在庫があったはずだ」
「あ、でも……普通のレモンじゃダメなんです」
「なに?」
「市場のレモンは、酸味が足りなくて……もっとこう、ガツンとくるような、鮮烈な酸っぱさがないと……」
面倒くさい妊婦だ。自分でもそう思う。
だが、ライオネル様は嫌な顔一つせず、腕組みをして考え込んだ。
「ふむ。最高の酸味か……」
その時。
開いていた窓から、白い影が音もなく入り込んできた。
夜の散歩から帰ってきた聖獣シロだ。
『みゃう(騒がしいな。夫婦喧嘩か?)』
「違う。シェリルが『究極のレモン』を求めているんだ」
ライオネル様が事情を説明すると、シロは青い瞳をピカリと光らせた。
『ほう。酸味か。……ならば、心当たりがあるぞ』
「本当か、シロ?」
『うむ。ここから南へ一飛びした孤島に、「サンシャイン・レモン」という幻の果実が自生しておる。その酸味は雷のごとく、香りは香水のごとしと言われておるな』
南の孤島。幻の果実。
魅力的な響きだが、ここから南へ行くには船で数日かかるはずだ。
「無理よシロ。今すぐ食べたいの」
『ふん。我を誰だと思っている』
シロはニヤリと笑った。
『我の背に乗れば、あんな島など一時間で往復できるわ。……どうする、騎士よ。行くか?』
「当然だ」
ライオネル様は即答し、剣を帯びた。
え、剣? レモン狩りになぜ剣が必要なの?
「シェリル。一時間だけ待てるか?」
「え、ええ。でも、危ないんじゃ……」
「安心しろ。お前と子供のために、最高の果実を持ち帰る。……タルトの生地だけ、用意しておいてくれ」
彼は私の額にキスを落とし、シロと共に窓枠に足をかけた。
『しっかり掴まっておれよ、人間!』
「行くぞ!」
ヒュンッ!
風切り音と共に、一人と一匹は夜空の彼方へと消えていった。
残された私は、呆然と星空を見上げた。
レモン一つで、夫と神様が出動するなんて。
私は苦笑しつつ、のっそりとベッドから這い出した。
◇ ◇ ◇
一時間後。
私は厨房で、タルト生地を空焼きしていた。
バターと小麦粉、砂糖、卵黄を混ぜて寝かせ、型に敷き詰めて焼く。
サクサクとしたクッキーのような香ばしい匂いが漂う。
これだけでも美味しいけれど、主役がいなければ始まらない。
「遅いなぁ……」
時計の針は三時半を回っている。
本当に帰ってくるのだろうか。
心配になって勝手口を開け、夜空を見上げたその時。
ズザザザーッ!!
裏庭の芝生に、何かが墜落……いや、着陸した音が響いた。
「ライオネル様!?」
慌てて駆け寄ると、そこにはボロボロになったライオネル様と、毛並みが逆立ったシロがいた。
ライオネル様の服は所々破れ、煤で汚れている。シロもどこか焦げ臭い。
「だ、大丈夫ですか!? 何があったんですか!?」
「……問題ない」
ライオネル様は煤けた顔で、ニカっと白い歯を見せた。
その手には、麻袋がしっかりと握られている。
「ただちょっと、レモンの木を守っていた巨大な蜂と、火を吹くトカゲと喧嘩になっただけだ」
『みゃう(久々に運動したわ。あやつのブレス、なかなか熱かったぞ)』
サラリと言うけれど、それは命がけの冒険だったのでは。
私は感動と呆れがないまぜになった感情で、彼にタオルを渡した。
「無茶しないでくださいって言ったのに……」
「約束しただろう。最高のものを持ち帰ると」
彼が麻袋を開ける。
中から転がり出てきたのは、私の拳ふたつ分はある、巨大なレモンだった。
皮は眩しいほどの黄金色で、表面はツヤツヤと輝いている。
袋を開けただけで、部屋中に爽やかな香りが爆発した。
「すごい……! これが『サンシャイン・レモン』……!」
香りを嗅いだ瞬間、口の中に唾液が溢れた。
これだ。私が求めていたのは、この圧倒的な存在感だ。
「ありがとう、ライオネル様、シロ! 早速作ります!」
私は彼らの手当てを後回し(ごめんなさい)にして、レモンを抱えて厨房へ戻った。
まずはレモンの皮をすりおろす。
黄色い粉雪のような皮からは、精油の強い香りが立つ。
次に果汁を絞る。
ナイフを入れると、プシュッ! と飛沫が飛ぶほどの瑞々しさ。
溢れ出る果汁は、酸っぱいだけでなく、花の蜜のような甘い香りを帯びている。
ボウルに卵、砂糖、そして絞ったばかりのレモン果汁を入れる。
湯煎にかけながら、絶えず混ぜ続ける。
とろみがついてきたら、バターを少しずつ加える。
バターが溶け、乳化することで、艶やかで濃厚なクリーム『レモンカード』が出来上がる。
最後に、すりおろした皮を加えて風味を増強する。
味見を一口。
――キュンッ!
強烈な酸味。
目が覚めるような刺激だが、その後に濃厚なバターのコクと、砂糖の甘みが追いかけてくる。
完璧だ。
焼きあがったタルト生地に、熱々のレモンカードを流し込む。
粗熱を取り、冷蔵庫(氷室)で冷やし固める。
仕上げに、卵白と砂糖で泡立てたイタリアンメレンゲを上に絞り、バーナー(火魔法)で軽く焦げ目をつける。
「完成!」
『究極のレモンタルト』。
黄金色の断面と、焦げ目のついた白いメレンゲのコントラスト。
深夜の厨房に、紅茶を淹れる。
「お待たせしました。お二人とも、お疲れ様でした」
私はシャワーを浴びて綺麗になったライオネル様とシロの前に、タルトを切り分けて出した。
「……いただきます」
ライオネル様がフォークを入れる。
サクッという音と共にタルトが割れ、とろりとしたレモンカードが顔を出す。
口に運ぶ。
「……っ!!」
彼の目が大きく見開かれた。
「酸っぱい! だが……美味い! 疲れが一気に吹き飛ぶようだ!」
『みゃう(うむ。あのトカゲを倒した甲斐があったな)』
シロもペロリと平らげている。
私も一口。
サクサクの生地。
フワフワの甘いメレンゲ。
そして、それらを貫くレモンの鮮烈な酸味。
口の中がキュッとなり、その後に幸せな甘さが広がる。
「おいしい……。生き返ります……」
欲求が満たされ、体中の細胞が喜んでいるのがわかる。
お腹の赤ちゃんも、ポコポコと動いて「美味しい!」と言っているようだ。
「よかったな、シェリル」
ライオネル様が、優しい目で私を見ていた。
その頬には、魔物との戦いでついた小さな傷がある。
私は胸が熱くなり、思わず手を伸ばしてその傷に触れた。
「痛くないですか?」
「こんなもの、かすり傷だ。……お前が笑顔になるなら、ドラゴンの巣にだって飛び込んでやる」
彼は私の手を握り、指先にキスをした。
「次はなんだ? 桃か? それとも氷河の氷か?」
「ふふっ。今のところは大丈夫です。……満たされましたから」
私たちは夜明け前の静かな時間、甘酸っぱいタルトと紅茶を囲んで、穏やかなひと時を過ごした。
こんな無茶な願いを叶えてくれる家族がいる。
それだけで、これからの妊娠生活も乗り越えられる気がした。
窓の外が白み始める頃。
満腹になったシロは丸くなって眠り、ライオネル様も椅子に座ったままウトウトし始めた。
私は彼に毛布をかけ、心の中で呟いた。
(ありがとう、パパ。……この子はきっと、食いしん坊で、とびきり強い子になるわね)
夏の一夜の、小さな冒険。
それは、これから始まる子育てという大冒険の、ほんの序章に過ぎなかった。




