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【第4章開始!】断罪令嬢の飯テロ食堂  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第2話

妊娠が発覚してから一週間が過ぎた。

 『月待ち食堂』の二階にある寝室で、私は小鳥のさえずりと共に目を覚ました。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

 隣を見ると、本来そこにいるはずの夫の姿がない。


「……あれ?」


 体を起こそうとした瞬間、ドタドタという慌ただしい足音が階段を駆け上がってきた。

 バンッ! と勢いよく扉が開く。


「シェリル! 起きたか!?」


 エプロン姿のライオネル様が飛び込んできた。

 手には湯気の立つお盆を持っている。

 彼は私が上半身を起こしているのを見るや否や、血相を変えて駆け寄ってきた。


「馬鹿っ! なぜ動く! 寝ていろと言っただろう!」

「え、あ、おはようございますライオネル様。……私、もう元気ですよ?」

「駄目だ。医者は安静にしろと言っていた。起き上がる時は俺を呼べ」


 彼は強引に私の背中に枕をあてがい、まるでお姫様でも扱うかのように慎重に座らせた。

 過保護だ。

 妊娠がわかってからというもの、彼の心配性は天井知らずに加速している。


「ほら、朝食だ。……お前のレシピ通りに作った『卵雑炊』だ。これなら食べられるか?」


 差し出された椀からは、優しい出汁の香りが漂う。

 今日の私の胃袋は機嫌が良いらしい。吐き気はこみ上げてこない。


「ありがとうございます。……うん、いい香り」


 一口食べる。

 卵がふわふわで、出汁の塩梅もちょうどいい。

 彼が一生懸命練習してくれたのが伝わってくる味だ。


「美味しいです。ライオネル様、腕を上げましたね」

「そうか。良かった……」


 彼は心底安堵したように息を吐き、私の額に滲んだ汗をハンカチで丁寧に拭った。


「全部食べなくていい。一口でも入れば十分だ。……食べ終わったら、また横になっていろ」

「えっ? でも、今日は気分がいいんです。下に降りて、店の様子を見たいのですが」

「却下だ」


 即答だった。

 ライオネル様は真剣な眼差しで私を見据えた。


「お前は厨房立ち入り禁止だ。包丁も、火も、重い鍋も、すべて禁止する」

「そんな! 料理長が厨房に入れないなんて、殺生です!」

「お前が倒れる方が、俺にとっては殺生だ!」


 彼の声が少しだけ荒らげられた。

 先週、私が厨房で意識を失った時の光景が、彼の脳裏に焼き付いているのだ。

 最強の騎士団長と呼ばれる彼の手が、私の肩に触れながら、微かに震えているのがわかった。


「……頼む、シェリル。俺を怖がらせないでくれ。お前と子供に何かあったら、俺は生きていけない」


 そんな顔で言われたら、反論できるはずがない。

 私は渋々頷くしかなかった。


「……わかりました。今日はおとなしくしています」


   ◇ ◇ ◇


 それから数時間。

 私は「牢獄」という名の寝室で、退屈と戦っていた。


 読みかけの本は読み終わってしまった。

 窓の外を眺めても、見えるのは平和な王都の空だけ。

 階下からは、カチャン、カチャンという食器の音や、お客さんの賑やかな声が微かに聞こえてくる。


「……うずうずする」


 料理人としての血が騒ぐ。

 今頃、厨房はどうなっているだろう。

 今日のランチの日替わりは『チキン南蛮』のはずだ。

 タルタルソースの玉ねぎは、ちゃんと辛味が抜けているだろうか。

 甘酢の配合は間違っていないだろうか。


 ギュスターヴたちは優秀だ。

 父の舌を満足させる彼らの腕なら、味の再現は完璧にこなせるはずだ。

 頭ではわかっている。

 でも、心が落ち着かない。


「……トイレに行くふりをして、ちょっとだけ」


 私はベッドからそっと降りた。

 足音を忍ばせ、ドアを開ける。

 廊下に出ると、一階からの匂いが強くなる。

 揚げ油の匂い。少しウッとなるけれど、今日は耐えられるレベルだ。


 階段の手すりに手をかけた、その時。


「みゃう(脱走犯発見)」


 足元から冷ややかな声がした。

 見下ろすと、階段の一段目に聖獣シロが鎮座していた。

 その青い瞳が、ジッと私を見上げている。


「シ、シロちゃん。奇遇ね。……ちょっとお散歩よ」

「みゃー(嘘をつくな。厨房に行こうとしたな)」


 シロは尻尾をパタンパタンと動かし、通せんぼをした。


「みゃう(騎士に言付かっている。『シェリルが部屋を出たら大声で知らせろ』とな)」

「裏切り者! 貴方には最高級の鰹節をあげたじゃない!」

「みゃう(それはそれ、これはこれだ。妊婦は大人しく寝ておれ)」


 シロが大きく口を開け、今にも「にゃーん!」と叫びそうになった時。

 階段の下から、ドタドタと足音が近づいてきた。


「シェリル様!? 起きてこられたのですか!?」


 現れたのは、ギュスターヴ料理長だった。

 彼のコックコートは汗で張り付き、立派なカイゼル髭も少し乱れている。

 その表情は、切羽詰まったものだった。


「ギュスターヴ! どうしたの? そんなに慌てて」

「あ、いえ……その……」


 彼は言い淀み、視線を泳がせた。

 何かあったのだ。

 私は手すりを握りしめ、身を乗り出した。


「何かトラブル? 正直に言って」

「……実は、味の最終調整で意見が割れておりまして」


 ギュスターヴは悔しげに顔を歪めた。


「『チキン南蛮』のタルタルソースです。私のレシピ通りに作っているのですが、常連のお客様から『いつものパンチが足りない』と言われまして……。酸味を足すべきか、甘みを足すべきか、厨房で議論になっているのです」


 なるほど。

 私のレシピは「目分量」と「感覚」の部分が多い。

 特にタルタルソースのような、素材の水分量で味が変わる料理は、その日その時の微調整が命だ。

 マニュアル人間であるギュスターヴたちには、その「あと一歩」の感覚が掴みきれないのだろう。


「私が味見をするわ。通して」

「しかし、騎士団長閣下が……」

「ライオネル様には後で怒られます! 今はお客さんが待っているんでしょう!?」


 私が声を張り上げた瞬間、背後から気配がした。

 振り向く間もなく、体がふわりと浮き上がった。


「きゃっ!?」


 ライオネル様だ。

 彼は私をお姫様抱っこで抱え上げ、呆れたような、でも決して怒ってはいない瞳で私を見下ろした。


「……やはり、じっとしていられないか」

「ライオネル様! 降ろしてください! 厨房に行かないと……!」

「駄目だ。あの熱気と油の匂いの中に、お前を入れるわけにはいかん」


 彼の腕は鋼のように固く、脱出は不可能だ。

 私は彼の方に顔を埋め、悔し涙を滲ませた。


「……私、料理人なんです。みんなが困っているのに、何もできないなんて……ただ寝ているだけなんて、嫌です」


 私の震える声に、ライオネル様の腕の力が少し緩んだ。

 彼は困ったように眉を下げ、ギュスターヴの方を見た。


「……ギュスターヴ。状況は?」

「はっ! お恥ずかしながら、我々の未熟さゆえ、シェリル師匠の『神の舌』による判定が必要です! ……ですが、師匠のお体を危険に晒すわけには……」


 板挟みになるギュスターヴ。

 ライオネル様はしばらく沈黙し、考え込んでいた。

 やがて、彼は決心したように私を抱え直した。


「……わかった。妥協案だ」


 彼は私を抱えたまま、階段を降り始めた。

 ただし、厨房へ向かうのではない。

 店の裏口に近い、風通しの良い廊下へと向かった。


「ここなら、油の匂いは来ない。熱気も届かん」


 ライオネル様は、そこに置いてあった私の専用椅子(座り心地の良いクッション付き)に、私をそっと降ろした。

 そこは厨房とカウンターの中間に位置し、店内全体を見渡せる場所だった。


「ここを『司令塔』とする」


 彼は宣言した。


「シェリルはここから動くな。調理は一切するな。……その代わり、ここから指示を出せ」

「指示……?」

「味見が必要なら、俺たちが小皿で持ってくる。お前はそれを舐めて、判断するだけでいい。……それなら、文句はないな?」


 私は目を見開いた。

 私が安全な場所にいながら、料理に関われる方法。

 彼の精一杯の譲歩であり、私への理解だった。


「……はい! ありがとうございます、ライオネル様!」

「礼はいい。その代わり、少しでも気分が悪くなったら即座に中断だ。いいな?」


 彼は私の頭を撫で、ギュスターヴに向き直った。


「聞いたな、ギュスターヴ! これよりシェリルは総指揮官だ! 手足となって動け!」

「イエッサー! ありがとうございます!」


 ギュスターヴが満面の笑みで厨房へ戻っていく。

 すぐに、小皿に入ったタルタルソースが運ばれてきた。


「師匠! 味見をお願いします!」


 私はスプーンの先で少しだけ掬い、舌に乗せた。

 ……うん。悪くないけれど、確かに何かが足りない。

 今日の湿度は高い。客は汗をかいている。

 なら、求めるのはもう少しキレのある酸味だ。


「レモン汁をあと二滴! それと、黒胡椒を半回転分、追加して!」

「了解しました!」


 ギュスターヴが飛び出していく。

 私は椅子に座ったまま、次々と指示を飛ばした。


「2番テーブルの揚げ時間、あと十秒短く! 余熱で火を通すのよ!」

「ご飯の蒸らし、蓋を取るのはまだ早いわ!」

「ライオネル様、3番テーブルにお冷やのおかわりを!」


「了解だ!」


 なんと、騎士団長であるライオネル様までが、エプロンをつけてホールを走り回り始めた。

 彼がピッチャーを持ってテーブルを回るたびに、女性客から黄色い悲鳴が上がるが、今の彼は私の手足として動くことに喜びを感じているようだ。


 私の声に合わせて、店が、人が動く。

 フライパンを振ることはできない。

 重い鍋を持つこともできない。

 けれど、私は確かにここで料理を作っている。


 一時間後。

 ランチタイムのピークが過ぎ去った頃には、私の体には心地よい疲労感があった。

 気分は悪くない。むしろ、久しぶりに仕事をした充実感で満たされていた。


「……終わったな」


 汗を拭いながら、ライオネル様が戻ってきた。

 彼は椅子に座る私に視線を合わせるように膝をつき、水を手渡してくれた。


「大丈夫か? 顔色は……悪くないな」

「はい。おかげさまで、とっても楽しかったです」


 私が水を飲むと、彼は愛おしそうに私の手を取った。


「お前は、やっぱり現場が似合うな。……椅子に座って指示を出す姿、女王様のようで格好良かったぞ」

「もう、からかわないでください」

「本心だ。……だが、無理は禁物だ。明日からは、時間を決めてやろう」


 制限付きだけれど、厨房復帰(司令塔として)が認められた。

 私は嬉しくて、彼の手を頬に押し当てた。


「ライオネル様。……私、元気な赤ちゃんを産みますね。そして、三人でこの店をやるんです」

「ああ。……楽しみにしている」


 彼は私の手を握りしめ、そしてそっとお腹に手を触れた。

 まだ動きはないけれど、そこには確かな未来がある。


 こうして、私の「厨房立ち入り禁止令」は、「厨房司令官就任」へと変更された。

 つわりはまだ続くだろう。

 体調の変化もあるだろう。

 でも、この頼もしいパートナーと、仲間たちがいれば、きっと乗り越えられる。


 そんな予感と共に、騒がしくも幸せな午後は過ぎていった。


 しかし。

 妊婦の体調変化は、予想の斜め上を行くものだ。

 その夜、私は突如として「あるもの」を猛烈に食べたくなり、ライオネル様を叩き起こすことになる。


「……酸っぱいもの。酸っぱくて、甘くて、黄色いあの果物が食べたいの……!」


 深夜の暴走。

 それは、聖獣シロを巻き込んだ、大冒険の始まりだった。

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