第7話
夏祭りの夜。
ライオネル様が連れ去られた後、私はサクラ皇女の手引きで、ひとまず拠点の空き家へと戻っていた。
薄暗い土間に、重苦しい沈黙が漂う。
「……申し訳ない。余がついていながら、騎士殿を……」
サクラ皇女が、畳に拳を押し付けて悔しがった。
彼女の美しい顔は怒りで歪んでいる。
「式部卿め……。『皇女誘拐』だと? 余はここにおるわ! あやつ、最初からシェリル殿たちの影響力を削ぐために、武力となる騎士殿を狙ったのだ」
「ええ。わかっています」
私は冷静だった。
怒りで震えそうになる手を、ギュッと握りしめる。
ライオネル様は、私を守るために自ら捕まった。
なら、私が泣いている暇なんてない。彼が信じてくれた「料理の力」で、彼を取り戻すだけだ。
「サクラ様。ライオネル様が捕らえられている場所は?」
「王城の地下牢獄だ。……警備は厳重。正面から助け出そうとすれば、それこそ戦争になる」
東方商人ザオが、難しい顔で腕組みをした。
「金で解決できる相手じゃなさそうだ。式部卿のバックには、古い貴族たちがついている。……奴らの目的は、ヤマトの食文化(利権)を守ることだ。俺たちの『天丼』が、よっぽど都合が悪かったんだろうよ」
武力もダメ。金もダメ。
なら、方法は一つしかない。
「……料理で勝負をつけるしかありませんね」
私は顔を上げた。
「サクラ様。この国で一番偉いのは、式部卿ですか?」
「まさか! ヤマトの頂点は『帝』……余の父上だ! だが、父上は今、原因不明の病で伏せっておられる。式部卿はそれをいいことに、父上の名を騙って政を……」
「その帝の病気、食欲不振でしたよね?」
「う、うむ。何を食べても吐き出してしまい、今は水と薄い重湯しか喉を通らない状態だ」
私はニヤリと笑った。
「なら、話は早いです。……私が帝のご飯を作ります」
「なっ!?」
「帝の胃袋を掴み、病を治す。そうすれば、帝の命令でライオネル様を釈放できますよね?」
サクラ皇女は目を見開いたが、すぐに首を振った。
「理論上はそうだが……式部卿が会わせるはずがない! 奴は父上の食事管理を独占しているのだぞ? 『毒見』と称して、異国人の料理など跳ね除けるに決まっている!」
「ええ。だから……『神様』にお願いするんです」
私は視線を足元に向けた。
そこには、鰹節(昨日の残り)を食べてくつろいでいる、聖獣シロがいた。
「ねえ、シロ。……白虎様。一つ、お仕事をお願いできるかしら?」
シロは青い瞳を細め、ニヤリと笑った(ように見えた)。
『みゃう(ふん。あの騎士がいないと、飯の盛りが少なくて困るからな。……力を貸してやる)』
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヤマト皇国の王城『朱雀門』の前には、数百人の衛兵が槍を構えて並んでいた。
その向こう側から、たった一人――いいえ、一人と一匹が歩いてくる。
エプロン姿の私と、その肩に乗った白猫。
「と、止まれ! ここは神聖なる皇居である! 異国人の立ち入りは禁じられている!」
衛兵隊長が叫ぶ。
私は足を止めず、静かに言った。
「式部卿にお取次ぎください。……『帝の病を治しに来た』と」
「ふざけるな! 帰らぬなら実力行使で――」
衛兵たちが槍を突き出そうとした瞬間。
私の肩に乗っていたシロが、カッと目を見開き、咆哮した。
『控えよ、下郎ども!!』
――ズドォォォォン……!!
空気が震えた。
猫の鳴き声ではない。雷鳴のような、腹の底に響く重低音。
同時に、シロの体から神々しいプラチナの光が溢れ出し、巨大な白虎の幻影が浮かび上がった。
「ひっ……!?」
「び、白虎様!? 守り神の白虎様だ!」
衛兵たちは腰を抜かし、次々とその場に平伏した。
門が、開く。
その騒ぎを聞きつけて、奥からあわてて式部卿が飛び出してきた。
「な、何事だ! 騒々しい……っ!?」
彼は私と、そして光り輝くシロを見て、顔を引きつらせた。
「き、貴様……! お尋ね者の分際で、のこのこと現れるとは!」
「お尋ね者? 人聞きが悪いですね」
私はシロを撫でながら(神様扱いされている手前、少し恐縮だが)、式部卿を真っ直ぐに見据えた。
「私は白虎様の神託を受けて参りました。『帝に美味い飯を食わせろ』と」
「な、なに……!?」
「式部卿。貴方は帝に『清貧』を強いて、餓死させようとしているそうですね? それが忠臣のすることですか?」
私の言葉に、周囲の衛兵や官僚たちがざわめく。
式部卿は顔を真っ赤にして叫んだ。
「無礼者! 私は陛下の健康を案じて、不浄なものを排除しているだけだ! 貴様の作る油まみれの料理など、弱った陛下のお体に毒だ!」
「毒か薬か、決めるのは帝ご自身です」
私は一歩踏み出した。
「勝負しましょう、式部卿。……『帝の御前試合』です」
「御前試合だと?」
「ええ。貴方が用意する最高の『清貧食』と、私が作る『朝ご飯』。……帝がどちらを召し上がり、どちらで笑顔になるか。それで白黒つけましょう」
私は条件を突きつけた。
「私が勝ったら、ライオネル……騎士団長を無罪放免にし、この国の食料統制を解除してください」
「ハッ! 大きく出たな。……で、もし貴様が負けたら?」
「私の命も、この『神の舌を持つ猫』も、好きになさってください」
『みゃう(おい、我を巻き込むな)』とシロが文句を言ったが無視する。勝つ気しかないからだ。
式部卿は計算高い目で私とシロを交互に見た。
彼にとって、伝説の聖獣が手に入るのは魅力的だ。それに、弱り切った帝が、いまさら脂っこい料理など受け付けるはずがないという確信があったのだろう。
「……よかろう」
彼はニヤリと笑った。
「その愚かな挑戦、受けて立つ。……帝の御前で、己の無力を思い知り、絶望するがいい!」
◇ ◇ ◇
決戦は明日の早朝。
場所は王城の中庭。
私は拠点に戻り、準備に取り掛かった。
サクラ皇女とザオが心配そうに見守る中、私は必要な道具を並べていく。
「相手は『伝統』と『格式』の権化だ。中途半端な料理では勝てない」
ザオが腕組みをして言う。
「式部卿が出してくるのは、間違いなく最高級の『精進料理』だ。素材は一級品、技術も完璧。……ただ『味が薄い』ことを除けばな」
「ええ。だからこそ、私は『命の味』で対抗します」
私が取り出したのは、ヤマトの市場で見つけた、古びた鉄製の『羽釜』。
そして、サクラ皇女が手配してくれた、今年一番の出来だという新米『コシヒカリ(異世界版)』。
「帝は、長く食事を摂れていない。胃腸が弱っている人に、いきなりカツ丼や天ぷらは重すぎる」
「では、お粥にするのか?」
「いいえ。お粥じゃ、元気が出ないわ」
私は言った。
「私が作るのは……『究極の卵かけご飯(TKG)』よ」
「卵かけ……ご飯?」
サクラ皇女が首をかしげる。
ヤマトでは、卵は高級食材だが、生で食べる習慣はない。
「生卵をご飯にかけるのか? そんな単純な料理で、精進料理のフルコースに勝てるのか?」
「単純だからこそ、誤魔化しが利かないのよ」
私はシロに向き直った。
「シロ。……貴方の出番よ。お願いしていた『あれ』、手に入った?」
シロはふんと鼻を鳴らし、口からポロリと一つの物体を吐き出した(空間収納魔法だ)。
それは、輝くようなオレンジ色をした、ピンポン玉より一回り大きな『卵』だった。
『みゃう(苦労したぞ。東の霊峰に住む「鳳凰」の巣から、一つだけ拝借してきた)』
「フェ、フェニックス!?」
ザオが腰を抜かす。
そう、これはただの鶏卵ではない。
生命のエネルギーそのものが凝縮された、伝説の霊鳥の卵。
濃厚なコクと、食べた者に活力を与える魔力を秘めている。
「ありがとう、シロ! これなら勝てる!」
そして、もう一つの鍵。醤油だ。
ザオが自信満々に小瓶を取り出す。
「こいつは俺の秘蔵っ子だ。三年熟成の『再仕込み醤油』。塩角が取れて、甘みとトロみが出ている。……卵の味を引き立てるには最高だぜ」
最高の米。
最強の卵。
至高の醤油。
役者は揃った。
私は包丁を研ぎながら、地下牢にいるライオネル様のことを思った。
(待っていてください、ライオネル様。……貴方が愛してくれた私の料理で、必ず助け出しますから)
◇ ◇ ◇
そして翌朝。
王城の中庭には、厳粛な空気が流れていた。
御簾の向こうには、病床の帝が座しているらしい。時折、苦しげな咳が聞こえてくる。
手前には、二つの調理台。
片方には、数十人の料理人を従えた式部卿。
彼らのテーブルには、金銀の器に盛られた美しい精進料理が並び始めている。透明なスープ、美しく飾り切りされた野菜。見た目は芸術品だ。
対する私は、たった一人。
あるのは、薪で火を起こしたカマドと、羽釜だけ。
「ふん。調理器具すらまともに揃えられなかったか」
式部卿が嘲笑する。
「いいえ。これだけで十分です」
私は薪に火をつけた。
パチパチと爆ぜる音。
羽釜の中の水が沸騰し始める。
さあ、始めよう。
国の運命と、愛する人の自由をかけた、朝ご飯作りを。




