第5話
領主の館の離れ。
バター醤油の芳ばしい香りと、式部卿の怒鳴り声が充満する中、一触即発の空気が流れていた。
「ええい、衛兵! 何をしている! この不敬な異国人たちを捕らえよ!」
式部卿が扇子を振り回して叫ぶ。
武装した衛兵たちが槍を構え、ジリジリと包囲網を縮めてくる。
ライオネル様が私の前に立ち、剣の柄に手をかけた。その背中からは、「動けば斬る」という無言の圧力が放たれている。
「お待ちなさい!」
鋭い声が響いた。
サクラ皇女が、両手を広げて私たちの前に立ちはだかったのだ。
「式部卿よ! この者たちは余が招いた客人である! それに、白虎様が彼らの料理を喜んでおられるのが見えぬか!」
「し、しかし皇女様……! これは明らかに『清貧の令』に反する穢れた料理! このような油臭いものを神獣様に与えるなど、国の風紀が乱れまする!」
「黙れ! 神の意志を人間が決めるな! ……彼らに手を出せば、余が許さぬぞ!」
サクラ皇女の剣幕に、式部卿はぐぬぬと唸り、憎々しげに私を睨みつけた。
「……フン。皇女様のお顔に免じて、今ここで捕縛することは避けましょう。ですが!」
彼は鼻で笑った。
「館に置くことはできませぬな。このような異臭を放つ者たちと同居しては、帝の病状が悪化しかねない。……とっとと下町へ失せるがよい!」
式部卿は衛兵を引き連れ、足音荒く去っていった。
残された私たちは、顔を見合わせた。
「……すまぬ、シェリル殿、騎士殿。余の力が足りないばかりに」
サクラが悔しげに拳を握る。
「気にしないでください。むしろ、堅苦しいお城より、下町の方が性に合っていますから」
私が微笑むと、シロも床で寝転がりながら言った。
『みゃう(うむ。あのような陰気な男がいる場所では、飯も不味くなる。下町の方が面白いものがあるやもしれん)』
こうして私たちは、到着早々にしてVIP待遇から放り出され、ヤマトの下町へと拠点を移すことになった。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、商人ザオが手配してくれた、運河沿いにある古い空き家だった。
元は海産物問屋の倉庫だったらしく、広々とした土間と、使い込まれたかまどがある。
住むには十分だが、問題はそこへ至る道中で見た光景だった。
夕暮れのヤマトの城下町。
本来なら、家々から夕餉の支度をする煙が立ち上り、美味しそうな匂いが漂う時間帯だ。
けれど、この街には「匂い」がなかった。
「……異様だな」
ライオネル様が呟いた。
「活気がないわけではない。人は歩いているし、店も開いている。だが……顔色が悪い」
すれ違う人々は皆、どこか生気がない。
痩せこけているわけではないが、目が死んでいるというか、日々の楽しみを奪われたような顔をしている。
通り沿いの食堂を覗いてみた。
客たちが啜っているのは、色の薄い汁物と、ボソボソとした雑穀入りの粥。
おかずらしきものは、茶色く干からびた野菜の煮浸しが小皿にちょこんと乗っているだけ。
「あれが……ヤマトの食事?」
私は絶句した。
前世の記憶にある「和食」のイメージとは程遠い。
出汁の香りもしなければ、焼き魚の芳ばしさもない。ただ「生命維持のために摂取する固形物」といった風情だ。
「おいしいごはん、たべたいよぉ……」
路地裏で、小さな子供が母親に泣きついているのが見えた。
母親は困った顔で、子供に干し芋のようなものを渡している。
「我慢しなさい。贅沢を言うと、お役人様に連れて行かれちゃうよ」
「やだぁ……あじがしないよぉ……」
その光景を見て、私の胸の奥でふつふつと怒りが湧いてきた。
これは「清貧」なんて綺麗な言葉じゃない。
ただの「食への冒涜」だ。
「……許せない」
「シェリル?」
私が拳を握りしめていると、ライオネル様が心配そうに覗き込んでくれた。
「素材が泣いているわ。この国、海産物も野菜も、あんなに素晴らしいのに……調理法一つでこんなゴミみたいな扱いをするなんて!」
私は市場で見た光景を思い出した。
ピチピチ跳ねる魚。泥付きの立派な野菜。
素材のポテンシャルは世界最高レベルだ。それなのに、油も調味料も禁じられ、ただ茹でるか干すかしか許されていないなんて。
「変えてやるわ。こんな間違った常識、私が全部ひっくり返してやる!」
私の瞳に炎が宿るのを見て、ライオネル様はフッと笑い、私の頭をポンと撫でた。
「そうこなくてはな。……俺の惚れた女は、料理で国を救う英雄だ」
「も、もう! こんな時に口説かないでください!」
「本心だ。……さあ、行こう。俺たちの拠点はもうすぐだ」
◇ ◇ ◇
その夜。
借りた空き家の土間で、私たちは作戦会議を開いた。
メンバーは私とライオネル様、サクラ皇女、ザオ、そしてシロ。
「……現状は、最悪である」
サクラ皇女が重い口を開いた。
「式部卿は『清貧の令』を盾に、民衆から食の楽しみを奪っている。表向きは『倹約と信仰』のためだが、実際は食料流通を独占し、私腹を肥やすためだ」
彼女によると、上級貴族や式部卿の取り巻きだけは、裏でこっそりと美食を楽しんでいるらしい。
いつの世も権力者というのは腐っているものだ。
「帝(父)もまた、その犠牲者だ。父上は元々、食通であらせられた。だが、式部卿が差し出す『完全なる清浄食(味のしない流動食)』を拒否し続け、今では起き上がる体力すら……」
サクラの声が震える。
帝を救うには、まず彼に「食べたい」と思わせる料理を届ける必要がある。
だが、式部卿の監視下にある王宮の厨房には近づけない。
「だったら、外から攻めるしかないわね」
私は土間の中央に置いた木箱を開けた。
中に入っているのは、昼間に市場でザオに買い付けてもらった食材たちだ。
透き通るような『キス』や『穴子』。
立派な『車海老』。
採れたての『茄子』や『カボチャ』。
そして、この国では雑草扱いされている『大葉』や『明日葉』。
「シェリル、何をする気だ?」
ライオネル様が尋ねる。
「噂を広めるのよ。下町で、とびきり美味しい料理を出して、民衆を味方につける。……『式部卿の言うことは間違っている』って、みんなの舌に教えてあげるの」
私はエプロンをつけた。
「サクラ様。この国で一番『禁忌』とされている調理法はなんですか?」
「禁忌? ……それはやはり『油』であろうな。油を使う料理は穢れとされ、厳しく罰せられる」
「よし。じゃあ、それ(・・)で行きましょう」
私はニヤリと笑った。
「一番の禁忌を犯して、一番美味しいものを作る。……これ以上の革命はないでしょう?」
私が手に取ったのは、たっぷりの『胡麻油』が入った瓶。
そして、ザオが持参した『小麦粉』と『冷水』。
そう、私が作ろうとしているのは――『天ぷら』だ。
新鮮な魚介と野菜を、黄金色の衣で包んで揚げる。
油の香りと、サクサクの食感。
それは「清貧」を強いるこの国にとって、劇薬のような料理になるはずだ。
「ライオネル様、手伝ってくれますか?」
「ああ、任せろ。……エビの殻剥きなら、もうプロ級だぞ?」
彼は頼もしく腕まくりをした。
異国の地でも、彼の隣にいれば不安はない。
それに、なんだか新婚家庭の夕食作りみたいで、少しだけときめいてしまう。
「みゃう(我は味見係だ)」
「はいはい、シロはそこで待ってて」
準備は整った。
翌日、ヤマトの下町に、前代未聞の屋台がオープンすることになる。
◇ ◇ ◇
翌昼。
運河沿いの広場に、香ばしい匂いが漂い始めた。
「な、なんだこの匂いは……?」
「油の匂い? でも、焦げ臭くない……すごく、いい匂いだ……」
道ゆく人々が足を止める。
匂いの元は、一台の木造屋台。
看板には、下手くそな(ザオが書いた)文字でこう書かれている。
**【月待ち食堂 ヤマト出張所】**
屋台の中では、私が大鍋の油を温めていた。
隣では、ヤマトの着流し姿(サクラ様が用意してくれた)に着替えたライオネル様が、不慣れな衣装に戸惑いながらも、手際よくエビの下処理をしている。
「いらっしゃいませ! 揚げたての『天丼』、いかがですか?」
私が声をかけると、遠巻きに見ていた人々がおずおずと近づいてきた。
しかし、誰も注文しようとはしない。
彼らの目は、油鍋を恐怖の対象として見ている。
「おい……あれ、油だぞ」
「お役人に見つかったら打ち首だ……」
「でも……美味そうだな……」
恐怖と食欲の板挟み。
最初の一人が踏み出す勇気が必要だ。
「へい、姉ちゃん! 一つくれ!」
声を上げたのは、サクラ(変装中)だった。
彼女は一般人のふりをして、「サクラ」としての役目を果たそうとしている。……名前がややこしいけれど。
「あいよ! 特製『天丼』一丁!」
私は小麦粉を冷水で溶いた衣液に、大きな車海老をくぐらせた。
そして、一八〇度の油の中へ。
――ジュワァァァァッ!!
花が咲くような音。
胡麻油の芳醇な香りが、爆発的に広がる。
民衆がどよめく。
「うわぁ……!」
「なんだあの音は……雨音みたいだ」
衣が黄金色に揚がり、エビが一回り大きく膨らむ。
キス、茄子、カボチャ、大葉。次々と揚げていく。
丼に熱々の銀シャリを盛り、揚げたての天ぷらを豪快に積み上げる。
そして仕上げに、醤油とみりん、砂糖、出汁を煮詰めた『甘辛いタレ』をたっぷりと回しかける。
――ジュッ。
タレが衣に染み込み、艶やかな光沢を放つ。
「お待たせしました!」
サクラは丼を受け取り、周囲に見せつけるように、大きな口でエビ天にかぶりついた。
――サクッ! プリッ!
小気味よい音。
彼女は目を見開き、演技抜きで叫んだ。
「う、美味いッ! サクサクの衣の中に、エビの甘みが閉じ込められている! そしてこのタレ! 甘辛くて、ご飯が進みすぎるぞ!」
彼女はガツガツと丼をかきこむ。
その姿を見て、ついに我慢の限界を迎えた男が一人、手を挙げた。
「お、俺にもくれ! もう我慢できねえ!」
「俺もだ! 役人がなんだ、腹が減ってるんだ!」
堰を切ったように、注文が殺到した。
「はいはい、並んでくださいね! ライオネル様、ご飯のおかわりお願いします!」
「了解だ。……おい、押すなよ。順番だ」
ライオネル様が丼にご飯を盛りながら、客整理もこなす。
その腕の筋肉と、着流しから覗く胸元に、街の女性客たちが「あら、いい男……」と頬を染めているのが少し気に入らないけれど、今は商売優先だ。
「うめえええ!」
「こんな美味いものが、この世にあったのか!」
「明日死んでもいい、おかわりだ!」
ヤマトの人々が、涙を流しながら天丼を貪る。
「清貧」という名の呪いが、揚げ油の熱で溶けていく瞬間だった。
こうして、私たちの革命の狼煙は上がった。
だが、この騒ぎを式部卿が見逃すはずがない。
数日後。
店が大繁盛する中、ついに「権力」という名の魔の手が、私たち――特にライオネル様へと伸びることになる。




