第4話
ヤマト皇国の港町は、異様な光景に包まれていた。
「ははーっ! 白虎様! 守り神の白虎様だ!」
「ありがたや、ありがたや……!」
港に集まっていた何百人もの人々が、一斉に地面に額を擦り付けている。
彼らが崇めているのは、私の腕の中にいる、一匹の猫だ。
「……ええと、シロ? これ、どういうこと?」
私が小声で尋ねると、シロは私の腕からぴょんと飛び降り、桟橋の杭の上に立った。
海風がそのプラチナの毛並みを撫でる。
シロは青い瞳を細め、群衆を見下ろして、厳かに(脳内に直接)語りかけた。
『面を上げよ、ヤマトの民よ。……我は帰還した』
「おおぉ……! お声が! 神託が聞こえたぞ!」
「数百年ぶりのお戻りだ!」
民衆が涙を流して震えている。
どうやらシロは、本当にこの国の伝説的な守護神、『白虎』の化身だったらしい。
普段、鰹節をねだってゴロゴロ言っている姿からは想像もつかない威厳だ。
「……さすがだな。ただの猫ではないと思っていたが、神だったとは」
ライオネル様が呆れつつも感心していると、サクラ皇女が誇らしげに胸を張った。
「うむ! 白虎様はヤマトの西を守護する聖獣。古来より、豊穣と幸福をもたらす存在として信仰されているのだ。……まさか、異国でシェリル殿に餌付けされていたとは、余も驚いたがな」
餌付けって言わないでほしい。正当な雇用契約(ご飯つき)だ。
シロは群衆に向かって、神々しい声で続けた。
『我は長き旅の末、真の「豊穣」を知る者を連れ帰った。……道を空けよ。我は腹が減っている』
後半、ただの本音が出た気がするが、信者フィルターのかかった民衆には「ありがたいお言葉」に聞こえたらしい。
モーゼの海割りのように人波が分かれ、私たちはその間を通って、町の中へと進んだ。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、領主の館にある離れだった。
木と紙で作られた、ヤマト特有の美しい建築。畳のい草の香りが懐かしい。
だが、町を歩いていて気になったことがあった。
「……静かね」
荷物を置きながら、私は呟いた。
町並みは綺麗だ。ゴミひとつ落ちていない。
けれど、活気がない。
夕暮れ時だというのに、家々から料理の匂いがしてこないのだ。
「ああ。すれ違う人々も、皆痩せていた。……この国は、食糧不足なのか?」
ライオネル様も気づいたようで、眉をひそめている。
サクラ皇女が、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「いいえ。米も野菜も、実り自体はあるのです。……ですが、『清貧の令』によって、美食が禁じられているのです」
「清貧の令?」
「今の政を牛耳る『式部卿』が定めた法です。『欲を捨て、素材そのものを食すことこそが清らかである』として、調味料の使用や、油を使った調理を厳しく制限しているのです」
なんてことだ。
リナの「健康食」をもっと過激にしたような思想が、国全体を支配しているなんて。
素材そのものと言えば聞こえはいいが、要するに「味気ないものを我慢して食べろ」という強制だ。
その時。
ふすまがスッと開き、数名の侍女たちが恭しく入ってきた。
手にはお盆を持っている。
「白虎様。……帰還のお祝いの『お供え物』をお持ちしました」
彼女たちは震える手で、シロの前に盆を置いた。
そこに載っていたのは――。
生の米。
塩。
そして、水。
以上だ。
「…………」
座布団の上に鎮座していたシロの動きが止まった。
侍女たちは平伏したまま動かない。
シロの視線が、私の方を向く。
その目は明らかに、「ふざけんな」と言っていた。
『……おい。これはなんだ』
シロのドスの利いた念話が響く。
侍女がビクリと震えて答えた。
「は、はい! 式部卿より、『神獣様には穢れなき生け贄こそが相応しい』と……最高級の生米と、清めの塩でございます!」
『誰がスズメだ! 我は猫……いや、虎だぞ! こんな硬いもんが食えるか! 火を通せ、火を! あと出汁! 出汁を持ってこい!』
シロが激昂して尻尾をバンバンと畳に叩きつける。
しかし、侍女たちは「お怒りだわ!」「やはり我々の信仰心が足りないのよ!」と的外れな方向に怯えるばかりだ。
ダメだ、話が通じない。
「……はぁ。わかりました。私が作ります」
私は立ち上がった。
ライオネル様も、やれやれといった顔で私の護衛につく。
「シェリル殿、しかし厨房は……」
「大丈夫です、サクラ様。持参した道具がありますから」
私は『黒亀号』から持ち出した七輪と、手持ちの食材を取り出した。
こんなこともあろうかと、王都を出る前にザオに用意させておいた「最高のアレ」があるのだ。
まずは、侍女たちが持ってきた米を土鍋で炊く。
ヤマトの米は質が良い。水を含ませて炊けば、それだけで御馳走になる。
炊き上がった熱々の銀シャリを、お椀によそう。
そして、その上に乗せるのは――。
王都から持参した、削りたての『鰹節』。
薄く、ひらひらと舞うそれを山盛りにする。
その頂点に、小さな『バター』をひとかけら。
仕上げに、ザオ特製の『熟成醤油』をたらり。
――フワァァァ……。
湯気と共に、鰹節が踊り出す。
熱でバターが溶け出し、醤油と混ざり合う。
芳醇な魚介の香りと、乳脂肪の甘い香り、そして醤油の香ばしさ。
これぞ、禁断の『バター醤油ねこまんま』だ。
「な、なんですの、その匂いは!?」
「臭い! いや、なんとも言えない……そそる香りが……!」
侍女たちが顔を上げる。
彼女たちの知る「清貧な食事」には存在しない、濃厚な油脂と発酵調味料の香り。
「お待たせ、シロ。……白虎様」
私が差し出すと、シロは「待ってました!」とばかりに飛びついた。
『これだ! この香りこそが供物だ! いただきます!』
ガツガツ! ハフハフ!
シロは一心不乱にねこまんまをかきこむ。
溶けたバターがご飯一粒一粒をコーティングし、鰹節の旨味を吸い込んでいる。
猫(虎)にとって、これ以上の御馳走はない。
「みゃう〜ん(うまい……生き返る……)」
完食したシロは、恍惚の表情で床に転がり、お腹を見せてくねくねした。
神の威厳ゼロである。
「ひぃっ! 白虎様が……油まみれのご飯を食べて、悶えておられる!?」
「あのような『穢れた料理』を喜ばれるなんて……!」
侍女たちはパニック状態だ。
しかし、その目には明らかな「羨望」の色が浮かんでいた。
彼女たちの喉が、ゴクリと鳴る音が聞こえる。
本当は食べたいのだ。味のない食事に飽き飽きしているのだ。
「……シェリル。俺の分はないのか?」
ライオネル様が、こっそりと耳打ちしてくる。
彼もまた、バター醤油の香りにやられていた。
「ふふ、もちろんありますよ。はい、あーん」
「っ……! 人前だぞ」
「誰も見てませんよ。みんなシロに夢中です」
私がスプーンを差し出すと、ライオネル様は赤くなりながらも、パクッと一口食べた。
「……! 単純だが、破壊力抜群だ。バターのコクと醤油……これは罪の味だな」
「ええ。ヤマトの人たちには、少し刺激が強すぎるかもしれませんね」
私たちがイチャイチャしながらねこまんまを食べていると、部屋の外から騒がしい足音が聞こえてきた。
「ええい、騒々しい! 神聖な館で、この下品な異臭は何事かッ!!」
ふすまが乱暴に開け放たれた。
現れたのは、烏帽子を被り、派手な狩衣を着た神経質そうな男。
彼こそが、この国の食を牛耳る諸悪の根源――『式部卿』だった。
彼は部屋に漂うバターの香りを嗅ぐと、般若のような形相で私を指差した。
「貴様か! 異国の蛮族め! 神聖なヤマトの地に、穢れた油を持ち込むとは何たる不敬!」
「不敬? 神様は喜んでますけど?」
「黙れ! 白虎様がそのようなものを好むはずがない! それは魔術による洗脳だ!」
式部卿は衛兵たちを呼びつけた。
「捕らえよ! この『料理テロリスト』たちを、直ちに国外追放……いや、牢に繋げ!」
「やれやれ。到着早々、お尋ね者扱いか」
ライオネル様が、私を庇うように前に出た。
その手は剣に伸びている。
「安心しろ、シェリル。この程度の人数、今の俺ならスプーン一本で制圧できる」
「ライオネル様、穏便にお願いしますね。……一応、ここはお城なんですから」
ヤマト皇国での冒険は、美味しいねこまんまの香りと共に、波乱の幕開けとなった。
伝統という名の呪縛。
それを打ち破るのは、私の料理か、それともライオネル様の剣か。
どちらにせよ、私は引くつもりはない。
だって、この国の食材は、もっと美味しく食べられるのを待っているのだから!




