第3話
東方商人ザオの持ち船『黒亀号』が出航して、三日が過ぎた。
海は青く、風は穏やか。カモメが鳴き、水平線には入道雲が湧き上がっている。
まさに絶好の船旅日和――のはずだった。
「……ううっ……気持ち悪い……」
船内の一室。
私はベッドの上で、青ざめた顔をして横たわっていた。
世界が揺れる。天井が回る。
前世の記憶があっても、公爵令嬢として育った軟弱な三半規管は、長時間の船旅に耐えられなかったらしい。完全な船酔い(グロッキー)状態だ。
「シェリル、大丈夫か?」
心配そうな声と共に、冷たいタオルが額に当てられた。
目を開けると、そこにはライオネル様がいた。
彼は揺れる船内でも、まるで平地にいるかのように仁王立ちしている。さすが騎士団長、体幹が強すぎる。
「すみません、ライオネル様……。せっかくの二人旅なのに、私がこんな状態で……」
「謝るな。慣れない船旅だ、仕方がない」
彼はベッドの縁に座り、私の乱れた前髪を優しく撫でた。
その手つきは、剣を振るう時とは別人のように繊細だ。
「水だ。少し飲めるか?」
彼が差し出した革袋から、少しずつ水を飲む。
冷たい水が喉を通ると、少しだけ気分が落ち着いた。
「少し、楽になりました」
「そうか。……だが、顔色がまだ悪い。食事も昨日の夜から摂っていないだろう?」
ライオネル様が眉を寄せる。
確かに、胃の中は空っぽだ。でも、温かいスープや脂っこい肉料理を食べる気にはなれない。
(……そうだ。あれがあったわ)
私はふと思い出し、空間魔法で収納しておいたバスケットを指差した。
「ライオネル様。……あの中の包みを開けていただけますか?」
「これか? ……弁当箱?」
彼が取り出したのは、竹の皮で編まれた四角い箱だった。
私が船旅のために、早朝から仕込んでおいた特製の弁当だ。
蓋を開ける。
――パカッ。
「おお……! これは……!」
ライオネル様が感嘆の声を上げた。
箱の中に詰められているのは、色とりどりの小さなおかずたち。
これぞ、日本の旅の友、『幕の内弁当』だ。
黄色い『卵焼き』。
鮮やかなピンクの『焼き鮭』。
茶色く味の染みた『煮物(椎茸、人参、蒟蒻)』。
緑色の『ほうれん草の胡麻和え』。
そして、黒ごまを振った俵型の『おにぎり』。
「美しいな。まるで宝石箱だ。……だがシェリル、これは冷たいぞ? 温め直してこようか?」
彼は気を利かせてくれたが、私は首を横に振った。
「いいえ。これは『冷めても美味しい』ように作ってあるんです。……船酔いの時は、匂いの強い温かい料理より、こういう常温のご飯の方が喉を通るんですよ」
「なるほど……。よし、なら俺が食べさせてやる」
「えっ?」
ライオネル様は有無を言わさぬ様子で、私を抱き起こし、自身の広い胸に背中を預けさせた。
そして、箸(彼も最近使えるようになった)で卵焼きをつまみ上げた。
「ほら、口を開けて。……あーん」
「え、ええっ!? 自分で食べられま……」
「手も震えているだろう。こぼしたら大変だ。……俺に甘えろ」
耳元で囁かれる甘い声。
逆らえない。というか、後ろから抱きすくめられている状態で逃げ場がない。
私は覚悟を決めて、小さく口を開けた。
パクッ。
口の中に広がる、優しい甘さ。
出汁と砂糖をたっぷり入れて焼いた、厚焼き玉子だ。
冷えていることで甘みが落ち着き、しっとりとした食感が際立っている。
「……おいしい」
「そうか。次はこれだ」
次は『煮物』の椎茸。
噛むと、じゅわりと出汁が染み出してくる。
濃いめの味付けで煮含められた根菜は、冷める過程で味が中心まで染み込む。その原理を利用した「冷製煮物」だ。
そして、『焼き鮭』と『おにぎり』。
塩気の効いた鮭の身を少し齧り、俵型のご飯を頬張る。
冷えたご飯は、デンプンが変化してモチモチとした弾力が増し、噛めば噛むほど甘みが出る。
私の体調を気遣ってか、ライオネル様はゆっくりと、一口ずつ運んでくれる。
「どうだ、気分は?」
「はい……。不思議と、すっと入っていきます」
「良かった。……それにしても」
彼は私が食べかけのおにぎりを、自分の口に放り込んだ。
自然な間接キスに、私が赤面するのも構わず、彼は目を見開いた。
「驚いたな。冷たい飯が、こんなに美味いとは」
「ええ。旅のお弁当は、時間が経つことを計算して味付けを濃くしたり、水分を飛ばしたりするんです」
「計算され尽くしているな。……それに、こうしてお前に食べさせていると、何だか妙に興奮する」
「なっ……!?」
ライオネル様は悪戯っぽく笑い、私の唇についた米粒を指で拭い取り、それをペロリと舐めた。
「新婚旅行の予行演習としては、上出来だろう?」
「も、もう! からかわないでください!」
「からかってなどいない。……早く元気になれ。ヤマトに着いたら、お前を守って戦わなきゃならんからな」
そう言って、彼は私を優しく抱きしめ直した。
船の揺れに合わせて、彼の体が揺り籠のように私を支えてくれる。
胃の不快感は、いつの間にか胸の高鳴りに上書きされていた。
◇ ◇ ◇
その頃、甲板では。
ヤマト皇女サクラと、聖獣シロが海風に当たっていた。
「……おい、猫殿。あの二人、部屋から全く出てこぬな」
「みゃう(放っておけ。今は『餌付け』の最中だ)」
シロは手すりの上で毛づくろいをしながら、呆れたように言った。
「それより、皇女よ。もうすぐヤマトの海域だな」
「うむ。……だが、少し胸騒ぎがする。父上(帝)の病状も心配だが、国を取り巻く空気が……淀んでいる気がするのだ」
サクラは水平線の彼方に霞む島影を見つめた。
そこは、黄金の稲穂が実る豊かな国。
だが、その食卓は今、歪な「伝統」によって彩りを失っていた。
「心配するな。シェリルの飯があれば、どんな淀みも吹き飛ぶ」
シロはニヤリと笑った。
その瞳が、一瞬だけ神々しい光を帯びる。
「それに、我も久々の里帰りだ。……少しばかり、暴れてやるとするか」
◇ ◇ ◇
さらに数日後。
ついに『黒亀号』は、ヤマト皇国の港に到着した。
木造建築が並ぶ美しい港町。
行き交う人々は着物をまとい、活気に溢れている……ように見えたが、どこか表情が暗い。
そして、私たちが船を降りた瞬間、異変が起きた。
私が抱いていたシロを見て、港にいた人々が一斉に色めき立ち、次々とその場に平伏し始めたのだ。
「あ、あれは……!」
「白い毛並み! 青い瞳! 間違いない、伝説の……!」
「白虎様だ! 守り神の白虎様が帰還されたぞーっ!!」
「えっ? えええっ!?」
私は驚いてシロを見た。
シロは私の腕の中で、「みゃー(バレたか)」と面倒くさそうに欠伸をした。
「白虎様……!? シロ、貴方そんなに偉い猫だったの!?」
「みゃう(まあ、この国ではな)」
土下座する群衆。
呆然とする私とライオネル様。
そして、「やはりそうであったか!」と納得しているサクラ皇女。
ヤマトでの旅は、到着早々、とんでもない大騒ぎで幕を開けた。




