第2話
翌日の朝。
『月待ち食堂』の扉には、一枚の張り紙が掲げられていた。
【お知らせ:店主、東方への食材探求の旅に出ます。当面の間、店主不在となります】
その張り紙を見た瞬間、王都の路地裏に絶望の悲鳴が響き渡った。
「嘘だろぉぉぉッ!? 店主がいない!? 俺の昼飯はどうなるんだ!」
「嫌だ! あのカツカレーがないと、魔力回路が繋がらない!」
「生姜焼き……唐揚げ……私の生きる希望が……!」
騎士、魔術師、貴族、そして近隣の住民たち。
店の前は、この世の終わりのような嘆きに包まれていた。
私は申し訳ない気持ちで扉を開け、彼らの前に立った。
「あ、あの、皆様! 落ち着いてください! お店自体は閉めませんから!」
私が声を上げると、暴動寸前だった群衆が一斉に静まり返った。
「閉めない……とは?」
「はい。私が不在の間は、公爵家から来ているギュスターヴ料理長たちが厨房を預かります。レシピも全て伝授してありますので、味は保証します!」
その言葉に合わせて、真っ白なコックコートを着たギュスターヴが、胸を張って前に出た。
その立派なカイゼル髭を撫でながら、力強く宣言する。
「ご安心を! シェリル師匠の味は、この舌と腕に叩き込みました! カツの揚げ加減、米の炊き方、味噌汁の塩梅……師匠の留守は、我々が命に代えても守り抜きます!」
「おおぉ……! ギュスターヴ殿なら安心だ!」
「よかった、俺たちは飢え死にせずに済むんだな……」
客たちは安堵の息を漏らし、涙を拭い合っている。
大袈裟すぎるけれど、それだけ愛されているのだと思えば悪い気はしない。
これで店の営業は大丈夫だ。
問題は――身内の説得だった。
◇ ◇ ◇
閉店後の店内。
そこでは、ヤマト行きを巡る「選抜メンバー会議」という名の、醜い争いが繰り広げられていた。
「納得いかん」
テーブルをバン! と叩いたのは、父・ガラルド公爵だった。
彼は不機嫌を隠そうともせず、氷のような瞳で私とライオネル様を睨んでいる。
「なぜシェリルが行く必要がある? ヤマトの帝の食欲不振など、向こうの医者に任せておけばいいだろう。……どうしてもと言うなら、私も行く」
「お父様、無理ですよ。貴方は宰相でしょう? 国を空けられるわけがありません」
「有給を取る。ライオネルが取れるなら、私だって取れるはずだ」
「却下です。貴方がいなくなったら国政が止まります」
私がバッサリ切り捨てると、父は「ぐぬぬ」と呻き、まるで親に置いていかれる子供のように拗ねた。
隣では、魔術師ルーカス様がブツブツと言い訳を並べている。
「……ヤマトには独自の陰陽術があると聞く。これは魔術研究の観点から非常に興味深い。よって、筆頭魔術師である私が同行すべき合理的理由が――」
「ルーカス様もダメです。王宮の結界メンテナンスはどうするんですか?」
「そ、それは部下に……」
「イチゴ大福のお土産を買ってきますから。ね?」
「……くっ、大福には抗えん……!」
ルーカス様も撃沈。
やれやれ、と私が息をついたところで、ずっと腕組みをして黙っていたライオネル様が口を開いた。
「諦めろ、お前たち。……今回の旅は、危険を伴う長旅だ。シェリルの身を守れるのは、この俺しかいない」
彼は立ち上がり、私の肩を抱き寄せた。
その堂々とした「俺の女」アピールに、父とルーカス様の視線が痛いほど刺さる。
「それに、今回の旅のメンバーは最小限にする必要がある。……俺と、シェリル。案内役の皇女殿下、通訳のザオ。そして聖獣のシロ。これで定員だ」
「なんだと? 船ならもっと乗れるだろう」
父が食い下がる。
ライオネル様はニヤリと笑い、爆弾発言を投下した。
「邪魔者を増やしたくないんだよ。……せっかくの、シェリルとの二人旅なんだからな」
「「「はぁ!?」」」
父とルーカス様、そして私の声が重なった。
ライオネル様は平然とした顔で続ける。
「船の上は逃げ場がない。朝も、昼も、夜も……ずっと一緒だ。美しい海、満点の星空。……愛を育むには最高のシチュエーションだろう?」
彼は私の耳元に顔を寄せ、甘く囁いた。
「な? 楽しみだな、シェリル」
「っ……///」
顔から火が出るかと思った。
公衆の面前で、しかも私のお父様の前で、なんてことを言うの!?
父の顔色が青から赤、そして土気色へと変化していく。
「き、貴様……! 娘を公務にかこつけて連れ回す気か! 破廉恥な!」
「公務ではない。あくまで『休暇』だと言ったはずだが?」
「ぐあああ! おのれライオネル! もし娘に指一本でも触れてみろ、公爵家の全権力を持って貴様を社会的に抹殺してやる!」
「安心しろ。指一本どころか、全身全霊で愛して守り抜く所存だ」
ライオネル様は、父の脅しを柳のように受け流し、さらに私を強く抱きしめた。
この人、本当に鋼の心臓を持っている。
結局、父とルーカス様は「お土産(ヤマトの珍味と魔導書)」を条件に、泣く泣く留守番を受け入れた。
父は去り際に、「……必ず、無事に帰ってくるのだぞ」と、不器用な優しさを見せてくれたけれど。
◇ ◇ ◇
そして、出発の前夜。
店の片付けを終えた私は、二階の自室で荷造りをしていた。
ヤマトまでの船旅は二週間ほど。
着替えに、常備薬。そして何より、向こうで手に入らないかもしれない調味料や調理器具。
商人のザオが船を用意してくれているけれど、私の商売道具である包丁と、シロお気に入りの鰹節は手荷物に入れなければ。
「……ふぅ。こんなものかしら」
大きなトランクを閉めようとした時、窓の外からコツコツと小さな音がした。
振り返ると、バルコニーに人影がある。
ここ、二階なんだけど。
「……ライオネル様?」
窓を開けると、そこには夜風に髪を揺らした騎士団長様が立っていた。
彼はひらりと部屋に入ってくると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまない。正面から入ると、また親父殿(ガラルド公爵)の密偵に見つかりそうだったからな」
「不法侵入ですよ、騎士団長」
「お前に会うためなら、泥棒にでもなるさ」
彼は軽口を叩きながら、私が閉めようとしていたトランクに手をかけた。
「手伝おう。……重いだろう、これ」
「ありがとうございます。……でも、どうしたんですか? 明日の朝、港で会う約束でしたよね?」
ライオネル様はトランクを軽々と持ち上げて部屋の隅に置くと、私の方に向き直った。
その瞳は、昼間の冗談めかした色ではなく、真剣で、熱い光を宿していた。
「……顔が見たくなった」
彼は一歩近づき、私の頬に触れた。
「明日から、ヤマトへ発つ。見知らぬ土地、言葉も通じない国だ。……不安はないか?」
「少しは、あります。でも……」
私は彼の手のひらに自分の手を重ねた。
「貴方がいてくれますから。……最強の騎士様が守ってくれるなら、何も怖くありません」
私が微笑むと、ライオネル様は嬉しそうに目を細め、そのまま私をゆっくりと抱き寄せた。
広い胸板に顔が埋まる。彼の匂いと、力強い心音が伝わってくる。
「ああ。絶対に守る。……たとえヤマトの軍勢が相手だろうと、お前には指一本触れさせない」
彼の腕に力がこもる。
「だが……俺自身の理性は、守れるか自信がないな」
「え?」
「船の上は密室だと言っただろう? ……俺もお前も、まだ独身だ。美しい月夜の海の上で、二人きり……」
彼は私の顎をすくい上げ、顔を近づけた。
吐息がかかる距離。
その瞳に見つめられて、私は身動きが取れなくなる。
「シェリル。……俺は、お前を――」
唇が重なる、その寸前。
「みゃ〜ん(腹減った)」
足元から、気の抜けた声がした。
バッ!
私たちは弾かれたように離れた。
足元を見ると、聖獣シロが「何イチャついてんの?」という冷ややかな目で見上げていた。
「……チッ。またお前か、猫」
「みゃう(我の夕飯はどうなっている。鰹節を出せ)」
シロはライオネル様の殺気などどこ吹く風で、尻尾をパタパタさせている。
甘い雰囲気は霧散してしまった。
私は赤くなった顔を手で仰ぎながら、苦笑した。
「ふふっ、シロもお腹空いたのね。……ライオネル様も、何か食べていきますか? 冷蔵庫の整理で、余った食材があるんです」
「……はぁ。仕方ないな」
ライオネル様は溜息をつきつつも、どこか楽しそうに笑った。
「頂こう。お前の手料理が食べられるなら、色気より食い気でも悪くない」
結局その夜は、三人(二人と一匹)で余り物の野菜炒めと、冷凍しておいた塩むすびを食べた。
豪華なディナーではないけれど、これから始まる旅への期待と、確かな絆を感じる、温かい最後の晩餐だった。
◇ ◇ ◇
そして翌朝。
王都の港には、一隻の大きな帆船が停泊していた。
東方商人ザオの持ち船、『黒亀号』だ。
「店主様ー! 準備はいいかい!」
甲板からザオが手を振る。
桟橋には、見送りに来た人々で溢れかえっていた。
「師匠! 留守は任せてください!」と叫ぶギュスターヴ。
「早く帰ってきてくれよー! 大福が切れたら死んでしまう!」と嘆くルーカス様。
「……無茶はするなよ」と、素直じゃない言葉で送り出してくれる父。
そして、たくさんの常連客たちが「行ってらっしゃい!」「待ってるぞ!」と手を振ってくれている。
私は胸がいっぱいになりながら、大きく手を振り返った。
「行ってきます! 必ず、美味しいお土産話を持って帰ってきますから!」
隣に立つライオネル様が、私の腰を支えてタラップへと導いてくれる。
その手は温かく、頼もしい。
案内役のサクラ皇女が、船首で高らかに宣言した。
「いざ、出航である! 目指すは日出ずる国、ヤマト!」
銅鑼が鳴り、船が岸を離れる。
潮風が頬を撫でる。
未知の国、未知の食材、そして――愛する人との二人旅。
私の胸は、これからの冒険への予感で、高鳴っていた。
待っていて、お米の国。
この「月待ち食堂」の店主が、貴国の食卓に革命を起こしに行きます!




