第10話
鉄鍋に残ったのは、甘辛い割り下の焦げ跡と、満たされた食欲の余韻だけだった。
『月待ち食堂』のカウンター席で、父、ガラルド・ウォルター公爵は、空になった小鉢を名残惜しそうに見つめ、ほう、と深く息を吐いた。
「……見事だ」
その一言には、もはや娘への侮蔑も、煮込み料理への偏見もなかった。
あるのは、純粋な敬意と、満腹の幸福感だけ。
「焼いた肉の香ばしさと、割り下の煮込み感。そして生卵による温度の魔術……。私の完敗だ、シェリル。お前がこれほどの腕を持っていたとは」
「ありがとうございます、お父様」
私が微笑むと、父は少しバツが悪そうに咳払いをして、ステッキを手に立ち上がろうとした。
その時だった。
東方商人ザオが血相を変えて飛び込んできた勝手口とは逆、表の入り口から、けたたましい音が響いた。
――ジャラララッ!!
ドアベルの可愛らしい音ではない。
鎧や装飾品が擦れ合う、金属的なノイズだ。
扉が乱暴に開け放たれ、夜の路地裏に不釣り合いな、強烈な香水の匂いが流れ込んできた。
「ここかぁ? 我が国の斥候が、『世界一美味い店』などと報告してきた場所は」
現れたのは、豪奢な軍服に身を包んだ一人の青年だった。
燃えるような赤髪をオールバックにし、耳や指にはこれでもかというほど宝石をジャラジャラとつけている。
その背後には、屈強な兵士たちが十名ほど、殺気立った様子で控えていた。
西の軍事大国ガレリアの第一王子、ヴァレリオ・ガレリア。
好戦的な性格と、異常なまでの美食への執着から『暴食の覇王』あるいは『美食王子』と呼ばれる男だ。
「……なんだ、この薄汚い店は」
ヴァレリオ王子は、ハンカチで鼻を覆いながら店内を見回した。
その視線が、カウンターに座る父や、ライオネル団長たちを舐めるように過ぎる。
「狭い、暗い、油臭い。……おい、斥候。貴様は余を謀ったのか? こんなドブネズミの巣のような場所が、至高の店だと?」
「はッ! 間違いございません、殿下! 一度食べればわかります!」
部下の兵士が必死に弁解する。
ヴァレリオ王子はふんと鼻を鳴らし、カウンターの中にいる私を値踏みするように睨みつけた。
「貴様が店主か? 随分と貧相な女だな」
「いらっしゃいませ。お客様、ご予約は?」
「予約? ハッ、面白い冗談だ。余が行く場所に予約など不要。余が座る場所こそが上座となるのだからな」
彼は土足でズカズカと店内に入り込み、一番手前のテーブルにドンと革袋を置いた。
ジャラッ、と重たい音がする。中身が金貨ではなく、さらに高価な白金貨であることを予感させる音だ。
「単刀直入に言おう。この店を買い取る」
「……はい?」
「レシピ、食材ルート、そして店主である貴様自身。すべてをガレリア王国の所有物とする。貴様には『宮廷料理人奴隷』としての名誉ある地位を与えてやろう」
彼はニヤリと笑った。
「悪い話ではあるまい? こんな掃き溜めで一生を終えるより、大国ガレリアの王族に仕える方が幸せだろう。さあ、感謝して跪け」
あまりの暴論に、店内の空気が凍りついた。
ライオネル団長が剣の柄に手をかけ、ルーカス様の眼鏡が不穏に光る。
聖獣シロも、カウンターの上で低く唸り声を上げている。
だが、誰よりも早く動いたのは――父だった。
「……不愉快だ」
父はステッキで床を一つ叩き、ゆっくりと立ち上がった。
その背中から立ち上る「氷の閣下」としての威圧感は、軍事大国の王子さえも一瞬怯ませるほどだった。
「誰かと思えば、西の放蕩王子か。……他国の領土で、随分と大きな顔をするものだな」
「あぁん? 誰だ貴様は……ッ!?」
ヴァレリオ王子は父の顔を見て、目を見開いた。
「ガラルド・ウォルター……!? 宰相がなぜこんな店にいる!?」
「食事に来たに決まっているだろう。……そして今、私は非常に機嫌が良いのだ。娘の手料理で満たされた至福の時間を、無粋な香水の匂いで汚されるのは我慢ならん」
父は冷徹な瞳で王子を射抜いた。
「帰れ。この店は非売品だ。金輪際、敷居を跨ぐことは許さん」
「……ハッ、ハハハ!」
ヴァレリオ王子は乾いた笑い声を上げた。
「宰相ともあろう者が、こんな店を庇護するとはな! 娘だと? ああ、そういえば勘当された悪役令嬢がいると聞いたが……まさか、このあばら家がそうなのか?」
彼は嘲るように私を見た。
「哀れなものだ。公爵令嬢が油まみれになって働いているとは。……おい、ガラルド。貴様も耄碌したか? こんな『庶民の餌』をありがたがるとは、味覚まで腐ったようだな」
ピキッ。
父のこめかみに青筋が浮かんだのが見えた。
父が激昂する前に、私はパン! と手を叩いて空気を変えた。
「お客様。口が過ぎますよ」
私は笑顔(目は笑っていない)で、ヴァレリオ王子に向き直った。
「当店は、食べてくださるお客様を笑顔にするための場所です。味も見ずに『餌』呼ばわりする方には、お帰り願います」
「ほう? 味を見れば文句はないと言うか?」
「ええ。もし、貴方の舌を唸らせることができたら、二度とこの店に手出しをしないでいただけますか?」
挑発に乗った王子は、ギラギラした目で私を睨んだ。
「いいだろう。余の舌は、世界中の美食を味わってきた『神の舌』だ。生半可な料理では満足せんぞ」
「構いません。その代わり、もし満足されたら……代金は倍額いただきます」
「強気だな。……よかろう! 余を驚かせてみせろ! ただし、普通の料理では認めん。見た目も美しく、味も濃厚で、かつて食べたことのない『未知の味』を出せ!」
未知の味。見た目の美しさ。濃厚さ。
難題だ。だが、今の私には最強の食材がある。
先ほど、すき焼きの材料を持ってきてくれたザオが、おまけで置いていった海産物の中に、あれがあったはずだ。
「わかりました。少しお待ちを」
私は厨房に戻り、氷で冷やしておいた木箱を開けた。
中に入っているのは、透き通るような殻に包まれた、大ぶりの『エビ』だ。
東方の海で獲れたばかりの、プリプリのブラックタイガー。
ガレリア国は内陸にあるため、新鮮な魚介類には馴染みがないはずだ。
エビといえばボイルか、スープの具にするのが関の山だろう。
ならば、このエビのポテンシャルを極限まで引き出しつつ、こってり好きの王子の舌を満足させる料理――『エビマヨ』で勝負だ。
まずは下処理。
殻を剥き、背ワタを丁寧に取り除く。
ボウルに入れ、塩と片栗粉で揉み込んで水洗いする。これで臭みが消え、食感がプリッとする。
キッチンペーパーで水気を取り、塩胡椒、そして酒で下味をつける。
ここからが重要だ。
卵白を泡立ててメレンゲ状にし、そこに片栗粉と小麦粉、ベーキングパウダー、そして少量の油を混ぜ合わせる。
これが、カリッとフワッとした衣を作る『魔法の衣』だ。
エビに衣をたっぷりと纏わせる。
油の温度は一七〇度。
――シュワァァァ……!
エビが油の中で踊る。
メレンゲを含んだ衣が膨らみ、一回り大きくなっていく。
色は白く、雪玉のようだ。
揚げすぎないのがコツだ。エビは火を通しすぎると硬くなる。
衣がカリッとした瞬間、引き上げる。
そして、味の決め手となるソース作り。
ボウルに、たっぷりの『マヨネーズ』を入れる。
この世界ではまだ珍しい、卵と酢と油の乳化ソース。騎士団長たちも大好きなアレだ。
そこに加えるのは、『ケチャップ』、砂糖、そして隠し味の『ジン(蒸留酒)』とレモン汁、さらに『コンデンスミルク』。
混ぜ合わせると、ソースは鮮やかなオーロラ色(薄いピンクオレンジ)に変化する。
甘く、酸っぱく、そしてクリーミーな香り。
揚げたて熱々のエビを、このソースに投入する。
手早く和える。
白い衣にオーロラソースが絡みつき、艶やかに輝く。
皿にレタスを敷き、その上にエビマヨをピラミッドのように盛り付ける。
仕上げに、砕いたカシューナッツと、パセリを散らす。
「お待たせしました。特製『大海老のオーロラソース和え』です」
ドン、とテーブルに置く。
ヴァレリオ王子は、その料理を見て目を丸くした。
「……なんだこれは? エビか? だが、赤い殻がない。白い衣を纏い、ピンク色のソースに濡れている……」
「温かいうちにどうぞ。衣の食感が命ですから」
王子は疑わしげにフォークを突き刺した。
ズシッとした重量感。
彼は大きなエビを一口で頬張った。
――カリッ、フワッ……プリッ!!
口の中で、三重奏が奏でられた。
外側の衣はカリッと香ばしく、内側の衣はフワフワ。
そして中心のエビが、弾けるようにプリッと音を立てる。
「むぐッ……!?」
王子の動きが止まった。
噛み締めた瞬間、濃厚なソースが口いっぱいに広がったのだ。
マヨネーズのコク。
コンデンスミルクの甘み。
ケチャップとレモンの酸味。
それらが一体となり、エビの淡白な甘みを極限まで引き立てている。
「な、なんだこの味はああぁぁぁッ!?」
王子が叫んだ。
テーブルをバン! と叩く。
「甘い! いや、酸っぱい!? クリーミーで濃厚なのに、ジンの香りで後味が爽やかだ! 油で揚げているはずなのに、全くしつこくない! むしろ、もっと欲しくなる中毒性がある!」
彼はフォークを動かす手を止められなかった。
二尾、三尾と口に運ぶ。
途中でカシューナッツを噛むと、カリッとした香ばしさがアクセントになり、食欲をさらに加速させる。
「美味い……! 我が国の宮廷料理人が作るエビ料理など、これに比べればゴム屑だ! このプリプリ感、このソースの魔力……これが『未知の味』か!」
あっという間に皿は空になった。
ヴァレリオ王子は、ソースのついた唇を舐め、荒い息を吐きながら私を見た。
その目は、先ほどの侮蔑の色から一変し、狂気じみた執着の色を帯びていた。
「……素晴らしい」
彼は立ち上がり、私に向かって手を伸ばした。
「気に入ったぞ、女! いや、シェリル! 貴様の腕は本物だ! 前言撤回する。奴隷ではない……余の『正妃』にしてやろう!」
「はい?」
「はぁ!?」
私と、そして父の声が重なった。
「貴様のような才能ある女こそ、覇王の伴侶に相応しい! ガレリアに来い! 国中の食材を貴様にくれてやる! 毎日このエビ料理を作れ!」
「お、お断りします! 私はここで店を続けたいんです!」
「断る権利などない! 欲しいものは力ずくで奪う、それがガレリア流だ!」
ヴァレリオ王子が合図をすると、控えていた兵士たちが一斉に抜剣した。
強硬手段に出るつもりか。
だが、ここは『月待ち食堂』。
私の大切な場所を荒らそうとする者を、黙って見ているような常連客たちではない。
「……やれやれ。食後の余韻に浸っていたかったのだがな」
ライオネル団長が、ゆらりと立ち上がった。
その全身から、凄まじい闘気が立ち上る。
「私の研究対象(店)を連れ去ろうなど、万死に値するな」
ルーカス様が指先を光らせ、複雑な魔術式を展開する。
そして、父・ガラルド公爵が、ステッキを構えて王子の前に立ちはだかった。
「……聞こえなかったか、小童。この店は、娘は、渡さんと言ったはずだ」
父の周囲の空気が、物理的に凍りつき始めた。
氷系魔法の使い手である父の本気だ。
「ふん、やる気か? だが、武力で解決するなど野暮なことはせん」
ヴァレリオ王子は不敵に笑い、兵士たちを制した。
「余は美食家だ。食い物の恨みは食い物で晴らす。……シェリルよ。貴様に『料理決闘』を申し込む!」
「決闘?」
「一週間後。この王都の広場で、両国の威信をかけた料理勝負を行う! 余が連れてきたガレリア最強の宮廷料理人団と、貴様一人で戦え! もし貴様が勝てば、この店には二度と手出しはせん。……だが、もし負ければ」
彼は舌なめずりをした。
「貴様も、店も、すべて余のものだ。……受けて立つな?」
断れば、今ここで武力衝突になり、店が壊されるだろう。
受けるしかない。
それに……料理勝負なら、負ける気はしない。
「いいでしょう。その勝負、受けます」
「ハハハ! 良い度胸だ! テーマは『スパイス』! 我が国が誇る多種多様な香辛料を使った料理で、貴様をひれ伏させてやる!」
スパイス。
香辛料。
ガレリア王国は貿易の中継地点にあり、スパイスの扱いに長けているという噂は本当だったか。
だが、私には「あの料理」がある。
数多のスパイスを調合し、国民食にまで昇華された、あの最強の料理が。
「望むところです。……スパイスの何たるか、教えて差し上げますわ」




