第8話
セバスチャンとの「コロッケ対決」から数日が過ぎた頃。
『月待ち食堂』は、またしても奇妙な熱狂に包まれていた。
「おお……これが噂の『半神の恩寵』か……!」
「なんと深淵な色合い。大地の恵みであるジャガイモを、古代の叡智が包み込んでいる……」
「食すぞ。心して食すのだ」
カウンターに並んでいるのは、煌びやかな衣装を纏った貴族の方々。
彼らはナイフとフォークを恭しく構え、目の前のコロッケをまるで聖遺物か何かのように崇めている。
ただの牛肉コロッケなのだが。
どうやら、あの時の勘違い――「デミグラス」を「半神の恩寵」と聞き間違えた件――が、尾ひれをつけて貴族社会に拡散してしまったらしい。
おかげで、「揚げ物は下品」などと言っていた連中が、「これを食べぬは貴族にあらず」とばかりに押し寄せているのだ。
「店主! 私にも『恩寵』を!」
「こっちは『恩寵』の大盛りだ!」
厨房でジャガイモを潰しながら、私は苦笑いを噛み殺した。
「はいはい、ただいま。……まったく、名前一つでこうも変わるものかしらね」
隣で皿洗いを手伝ってくれている(非番の)騎士が、呆れたように肩をすくめる。
「貴族ってのはそういう生き物ですよ。中身より能書きが大事なんです。……ま、おかげで俺たちも堂々とコロッケが食えるようになったんで、感謝してますけどね」
「そうね。ジャガイモ農家の皆さんも喜んでるし、良しとしましょう」
私は揚げたてのコロッケに、たっぷりとデミグラスソースを回しかけた。
ジュワッという音と共に、酸味とコクのある香りが立ち昇る。
これを食べた貴族たちが「おおぉ……!」と感嘆の声を漏らすのを横目に、私はふと、窓の外を見た。
今日も店は繁盛している。
けれど、私の心に刺さった小さな棘が、チクリと警鐘を鳴らしていた。
――『旦那様ご自身が、ここへ乗り込んでくるでしょう』
セバスチャンの捨て台詞。
私の父、ガラルド・ウォルター公爵。
国の宰相を務め、「氷の閣下」と恐れられる厳格な父。
彼が動く時、それは単なる「視察」では終わらない。
◇ ◇ ◇
ランチタイムが終わり、少し遅めの賄い時間。
常連のライオネル団長と魔術師ルーカス様が、私の懸念に耳を傾けてくれていた。
「ふむ。ガラルド公爵か……」
ライオネル団長は、賄いのコロッケカレー(裏メニュー)を頬張りながら、難しい顔をした。
「あの御仁は、一言で言えば『巌』のような人だ。一度こうと決めたらテコでも動かん。俺も騎士団の予算会議で何度かやり合ったが、あの氷のような視線で見下ろされると、歴戦の騎士でも縮み上がるぞ」
「論理的ではあるが、融通が利かないのだ」
ルーカス様も、食後のいちご大福をつつきながら同意する。
「魔術の研究予算を申請した時も、『その研究は国益に直結するか?』の一点張りでな。……だが、不思議なことに、却下されたことは一度もない。厳しいが、正当な理由があれば聞く耳は持っているはずだ」
「正当な理由、ですか」
私は腕組みをした。
父は私が公爵家を出て、市井で料理人をしていることを「恥」だと考えている。
それを覆すには、「この店は公爵家の名誉を傷つけるものではなく、むしろ価値あるものだ」と証明しなければならない。
「セバスチャンの話では、父は『煮込み料理』を親の仇のように嫌っているそうです」
「ああ、それは有名な話だな」
ライオネル団長が頷く。
「公爵閣下は『肉至上主義者』だ。肉は焼くのが至高。煮込むなど、肉の魂を抜く愚行だと公言している」
「肉の魂……」
「この国の煮込み料理は、どうしても肉が硬く、パサパサになりがちだからな。閣下の舌が肥えている分、余計に許せないのだろう」
なるほど。
この世界のシチューなどは、長時間煮込みすぎて肉の旨味がスープに抜けきってしまっていることが多い。出汁文化がないため、ただの水煮に近い状態なのだ。
父がそれを嫌うのも無理はない。
「だからこそ、勝機があります」
私はニヤリと笑った。
「父の嫌いな『煮込み』の概念を覆す料理。焼いているようで煮ていて、煮ているようで焼いている……そんな矛盾を孕んだ、最強の肉料理を用意します」
「ほう? そんな魔法のような料理があるのか?」
ルーカス様が眼鏡を光らせる。
「ええ。でも、それには『肉』が必要です。それも、この国では流通していない、極上の……」
その時だった。
勝手口の扉が、控えめに、しかしリズミカルにノックされた。
「……お呼びですかい、店主様」
タイミングを見計らったかのように現れたのは、東方商人のザオだった。
彼は大きな風呂敷包みを抱え、いつものようにニヤニヤと笑っている。
「ザオ! 待っていたわ。頼んでいた『例のもの』は?」
「へへっ。苦労しましたよ。なんせ、こんな『脂身だらけの肉』なんて、普通の精肉店じゃ廃棄処分扱いですからね」
ザオはカウンターに風呂敷を広げた。
そこには、竹の皮に包まれた巨大な肉の塊が鎮座していた。
包みを開いた瞬間。
ライオネル団長とルーカス様が、同時に「うわっ」と声を上げた。
「なんだこれは!? 真っ白じゃないか!」
「腐っているのか? いや、これは……脂か?」
二人の反応は無理もない。
そこに在ったのは、赤身の中に網の目のような細かな脂肪が入った、見事な霜降り肉だった。
前世で言うところの、A5ランク和牛に匹敵するリブロース。
しかし、赤身肉こそが至高とされるこの国では、これは「脂っこくて食べられないクズ肉」に見えるのだ。
「いいえ、これこそが最高級の牛肉よ」
私は肉の表面を指でなぞった。
体温だけで脂が溶け出し、指先が艶やかに光る。
甘い。生の脂の時点で、すでに甘い香りがする。
「東方の山岳地帯で、ビールを飲ませてマッサージをして育てたという、特別な牛の肉だそうです」
「ビールだと? 俺よりいいもん飲んでやがる……」
ライオネル団長が呆れる中、私はザオに革袋を渡した。
「ありがとう、ザオ。これで父を迎え撃つ準備が整ったわ」
「へえ。あの『氷の閣下』を溶かそうってんなら、こいつの脂はうってつけでしょうな。……武運を祈ってますよ」
ザオはウインクをして去っていった。
霜降り肉。
そして、先日シロ(聖獣)が「隣の養鶏場から失敬……ではなく、対価(ネズミ退治)を払って貰ってきた」という、生食可能な超新鮮な卵。
長ネギ、焼き豆腐、しらたき。
そして、私の伝家の宝刀である醤油と砂糖。
これらを使って作る料理。
そう、『すき焼き』だ。
それも、肉を焼いてからタレを絡める、関西風のスタイルでいく。
これなら「肉を焼くのが好き」な父の美学にも触れるはずだ。
準備は整った。
あとは、その時を待つだけ――。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
空が茜色から群青色へと変わる頃。
『月待ち食堂』の前の通りが、異様な静寂に包まれた。
いつもなら行列を作る客たちが、モーゼの海割りのように左右に分かれ、青ざめた顔で頭を垂れている。
路地裏の空気そのものが、重く、冷たく張り詰めていた。
カポッ、カポッ、カポッ……。
ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる馬の蹄の音。
現れたのは、漆黒の馬車だった。
王家のものほど派手ではない。だが、その艶消しの黒塗りの車体と、扉に刻まれた「獅子と薔薇」の紋章が放つ威圧感は、見る者を畏怖させるに十分だった。
馬車が店の前で止まる。
御者が静かに扉を開ける。
最初に降りてきたのは、先日の執事セバスチャンだ。
彼は無言で店の方を一瞥し、そしてうやうやしく手を差し伸べた。
続いて降り立った人物。
長身痩躯。
髪は白髪混じりのロマンスグレーで、後ろに撫でつけている。
仕立ての良いフロックコートを隙なく着こなし、手には黒檀のステッキ。
そして、その瞳は氷河のように青く、冷たい。
ガラルド・ウォルター公爵。
私の父だ。
「……ここか」
父が呟いた。
低い、地を這うようなバリトンボイス。
それだけで、周囲の温度が二、三度下がった気がした。
父はステッキを突き、ゆっくりと店の扉へと歩みを進める。
その足取りに迷いはない。
店内にいた客たち――非番の騎士や魔術師たちでさえ、思わず息を飲んで背筋を伸ばした。
カラン……コロン……。
ドアベルの音が、やけに虚しく響く。
父が店内に入ってきた。
その鋭い視線が、店内の喧騒を一瞬で凍りつかせ、そして真っ直ぐにカウンターの中にいる私を射抜いた。
「…………」
無言。
ただ見下ろされているだけで、心臓が早鐘を打つ。
かつて王宮で断罪された時でさえ、こんな緊張感はなかった。
これは「親」という絶対的な存在に対する、本能的な畏怖だ。
私は震える手をエプロンの下で握りしめ、精一杯の強がりで微笑んだ。
「いらっしゃいませ。……お待ちしておりました、お父様」
父は無表情のまま、私の頭の先から足元のエプロンまでをじっくりと観察した。
そして、吐き捨てるように言った。
「油と、煤の匂いだ」
その一言は、どんな罵倒よりも重く響いた。
「公爵家の娘が、市井の煮炊き女に身を窶すとは。……シェリル。今すぐその薄汚いエプロンを外せ」
「お断りします」
私は即答した。
父の眉がピクリと動く。
「この店は私の城です。そしてこのエプロンは、私の正装です。お客様に料理を提供するまで、外すわけにはいきません」
「……客、だと?」
父は鼻で笑った。
「私は客として来たのではない。出来損ないの娘を回収しに来ただけだ。……セバスチャン、連れて行け」
「はっ」
控えていたセバスチャンが一歩踏み出す。
店内がざわめく。
ライオネル団長が腰を浮かせ、シロが低く唸り声を上げる。
一触即発。
だが、ここで暴力沙汰になれば、店は終わりだ。
「待ってください!」
私は声を張り上げた。
「ただ連れ戻されるわけにはいきません。……お父様。貴方は合理的な方のはずです」
「……何が言いたい」
「取引をしましょう」
私はカウンターの下から、用意していた鉄鍋を取り出した。
黒光りする、浅底の鉄鍋。すき焼き鍋だ。
「私が今から作る料理を、一口だけ召し上がってください。もし、貴方がそれを『不味い』、あるいは『価値がない』と判断されたなら……私は大人しく実家に戻り、二度と料理はいたしません」
父の目が細められた。
「ほう。……私に毒見をさせようというのか?」
「いいえ。私がこれまでの人生で得た、最高の『答え』を見ていただきたいのです。……もし、私が勝ったら」
私は父の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私の勘当を正式に認め、この店で生きることを許してください」
長い、長い沈黙が流れた。
店内の誰もが固唾を飲んで見守る中、父はフッと冷笑を浮かべた。
「よかろう。……その無駄な自信、粉々に砕いてやるのも親の務めか」
父はステッキをセバスチャンに預け、カウンター席の真ん中に、玉座に座るかのように腰を下ろした。
「作ってみせろ。ただし、私の舌を満足させる料理など、王宮のシェフですら十年に一度あるかどうかだぞ」
「望むところです」
私は鉄鍋をコンロに置いた。
カチッ、と火をつける。
青い炎が揺らめく。
さあ、勝負だ。
氷の閣下 vs 霜降り和牛のすき焼き。
熱々の鉄板の上で、父の凝り固まった常識を焼き尽くしてやる。
私は牛脂の塊を、熱くなった鍋に落とした。
――ジューッ……。
脂の溶ける音が、開戦の合図だった。




