第7話
『月待ち食堂』の入り口に立つ、一人の老紳士。
白髪をオールバックに撫でつけ、仕立ての良い燕尾服を着こなすその姿は、この路地裏の店にはあまりに不釣り合いだった。
セバスチャン。
私の実家、ウォルター公爵家に長年仕える筆頭執事であり、かつては私の教育係でもあった人物だ。
その目は、まるで汚物を見るかのように細められている。
「……セバスチャン。久しぶりね」
「左様でございますな、シェリルお嬢様。……おや、今は『店主殿』でしたか。公爵家の令嬢が、このような油と煤にまみれた場所で下働きとは……。嘆かわしいを通り越して、感動すら覚えますな」
慇懃無礼な言葉遣いは相変わらずだ。
店内にいた数名の貴族客たちが、ざわめき立つ。
「おい、あれはウォルター公爵家の紋章じゃないか?」
「ということは、あの噂は本当だったのか。この店の主人が、あの追放された悪役令嬢だという……」
周囲の視線が突き刺さる。
だが、私はカウンターの中で胸を張った。今の私は、自分の腕で稼いでいる料理人だ。恥じることなど何もない。
「用件は何? まさか、ご飯を食べに来たわけじゃないでしょう?」
「滅相もございません」
セバスチャンはハンカチを取り出し、口元を覆う仕草をした。
「公爵閣下の名代として、現状の視察に参りました。……しかし、酷い匂いですな。酸化した油と、焦げた肉の臭気。このような『餌』を人様に提供しているとは」
「餌、ですって?」
私が眉をひそめると、店内の貴族客の一人が便乗して声を上げた。
「そうだそうだ! 執事殿の言う通りだ! 揚げ物など、鮮度の落ちた素材を油で誤魔化す、下賤な料理法ではないか!」
「それに、今日のメニューは何だ? 『コロッケ』? 聞いたこともないが、厨房に見えるあれは……ジャガイモだろう?」
彼らが指差したのは、私が下準備をしていたジャガイモの山だ。
この世界――特に王都の貴族社会において、食のヒエラルキーは絶対だ。
天に向かって伸びる野菜や果実は「高貴な食べ物」。
対して、土の中に埋まっている根菜類は「泥にまみれた不浄な食べ物」として、平民や家畜が食べるものとされている。
「あんな泥臭い芋、豚の餌にもなりやしない!」
「公爵家の恥だ!」
貴族たちが口々に罵る。
セバスチャンは、それを満足そうに聞きながら、私に冷ややかな視線を送った。
「……お聞きになりましたか、お嬢様。これが世間の評価です。閣下は『これ以上、我が家の名に泥を塗るなら、相応の処置をとる』と仰せです」
「相応の処置?」
「店を畳み、修道院へ入るか。あるいは……」
そこまで聞いて、私はバンッ! とまな板を包丁で叩いた。
乾いた音が店内に響き、貴族たちがビクリと肩を震わせる。
「……五月蝿いです」
私は静かに、しかしドスの利いた声で言った。
「貴方たち、食べたこともない料理を『餌』だの『不浄』だのと……食材への冒涜にも程があります」
「な、なんだと!?」
「セバスチャン。貴方もです。私の料理が公爵家の恥かどうか、その舌で確かめてから言いなさい」
私は彼を指差した。
「今から作る料理を食べて、それでも『不味い』と言うなら、店でもなんでも畳んであげるわ。……でも、もし美味しかったら、二度と私の店に文句を言わないこと。いいわね?」
「……ほう。私に料理勝負を挑むと?」
セバスチャンは呆れたように鼻で笑った。
彼は公爵家の食卓を管理してきた男だ。その舌は王侯貴族並みに肥えている。
「よろしいでしょう。その無駄な足掻き、引導を渡して差し上げます」
「言ったわね。……見てなさい!」
私は厨房の火力調整ダイヤル(魔石式)を最大に回した。
相手はジャガイモを「泥臭い」と蔑む連中だ。
ならば、そのジャガイモこそが主役の、最高に「ハイカラ」な洋食で黙らせてやる。
――本日のメニュー、『牛肉コロッケ』。
まずはジャガイモの下処理だ。
皮を剥き、適当な大きさに切って、たっぷりの湯で茹でる。
竹串がスッと通るくらい柔らかくなったら、湯を捨て、再び火にかけて鍋を揺する。
『粉吹き芋』にするのだ。こうすることで余分な水分が飛び、ホクホクとした食感になる。
マッシャーで丁寧に潰す。
完全にペースト状にするのではなく、少しゴロゴロとした塊を残すのがポイントだ。食感のアクセントになる。
次に具材だ。
フライパンにバターを溶かし、みじん切りの玉ねぎを炒める。
透き通って甘い香りが立ってきたら、牛挽肉を投入。
これは昨日、騎士団の皆様が剣技で完璧なミンチにしてくれた最高級の赤身肉だ。
塩、胡椒、そしてナツメグ。
肉の色が変わったら、先ほどのジャガイモと合わせる。
全体を混ぜ合わせ、バットに広げて粗熱を取る。
ここまでは、ただの「マッシュポテトの肉混ぜ」だ。
貴族たちは「ふん、やはり泥芋料理か」と冷笑している。
だが、本番はここからだ。
冷めたタネを、小判型に成形する。
小麦粉を薄くまぶし、溶き卵にくぐらせる。
そして、パン粉の海へダイブさせる。
このパン粉も、パン屋から廃棄予定のパン耳を安く譲り受け、フードプロセッサー(風魔法の応用)で砕いた生パン粉だ。
乾燥パン粉よりも油切れが良く、サクサク感が段違いなのだ。
揚げ油の温度は一八〇度。
私は成形したコロッケを、静かに油の中へ滑り込ませた。
――シュワァァァァ……ッ!
軽やかな音が店内に響いた。
泡がコロッケを包み込み、踊るように揺らす。
パン粉の香ばしい匂いと、バターと牛肉のコクのある香りが立ち上る。
「……む?」
セバスチャンがピクリと眉を動かした。
貴族たちも、扇子で鼻を覆うのを忘れ、クンクンと匂いを嗅いでいる。
「焦げ臭い」と言っていた彼らの表情が、「香ばしい」へと変わっていく。
きつね色に揚がったところで引き上げる。
油切り網の上に乗せると、余熱でチリチリと音がする。
完璧な黄金色。小判のような美しい楕円形。
皿に盛り付け、千切りキャベツを添える。
そして仕上げに、特製の『ソース』をかける。
赤ワイン、トマトケチャップ、ウスターソース(東方商人ザオの持ち込み品)、そして肉汁を煮詰めた、濃厚な茶色のソースだ。
「お待たせしました。特製『牛肉コロッケ・デミグラスソース風』です」
ドン、とセバスチャンの前に皿を置く。
揚げたての熱気。黄金色の衣の上を、艶やかな茶色のソースが流れ落ちる様は、もはや芸術的ですらある。
「……これが、あの泥芋ですか?」
「食べてみればわかります。火傷しないように気をつけて」
セバスチャンは疑わしげにナイフとフォークを手に取った。
周りの貴族たちも、固唾を飲んで見守っている。
彼がナイフをコロッケに入れた。
――サクッ。
その場にいた全員の耳に届くほど、軽快で、小気味良い音が響いた。
薄い衣が砕け、中から白い湯気がふわっと立ち上る。
「……!」
切断面から現れたのは、真っ白なジャガイモと、散りばめられた牛肉。
セバスチャンは一口大に切り、ソースをたっぷりと絡めて口へ運んだ。
ハフッ、サク、ホクッ……。
咀嚼音が響く。
セバスチャンの動きが止まった。
能面のような無表情だった彼の顔が、みるみるうちに紅潮していく。
「な……なんだ、これは……!」
彼は目を見開き、口元を押さえた。
「衣は羽毛のように軽いのに、噛めば心地よい歯ごたえがある。そして中身だ! これが本当にジャガイモなのか!? 泥臭さなど微塵もない! まるで裏漉ししたクリームのように滑らかで、それでいてホクホクとした大地の甘みが広がる!」
「牛肉の旨味はどう?」
「素晴らしい……! 淡白な芋の味を、肉の脂とバターのコクが支えている。そして何より、この『黒いソース』だ!」
彼はソースを指差した。
「酸味と甘み、そして深いコク。揚げ物の油っぽさを、このソースが鮮やかに切り裂き、次の一口を誘ってくる! これは……魔法薬か何かですか?」
「いいえ。『デミグラスソース』よ。煮込み料理の基本ソースをアレンジしたもの」
「デミグラス……?」
その言葉を聞いた貴族客の一人が、ハッとして叫んだ。
「デミ・グラス……!? 聞いたことがあるぞ! 古代語で『半神』の『恩寵』を意味する言葉ではないか!?」
「な、なんだって!?」
「半神の恩寵……まさか、神代の時代に失われた幻の調味料か!?」
「そんな高貴なものが、この店にあるというのか!?」
貴族たちが勝手にざわめき出した。
え、違うんだけど。フランス語で「煮詰めた(demi)」「凍らせた(glace)」みたいな意味なんだけど。
でも、訂正するのも面倒だし、彼らがそれで納得するならいいか。
「そ、そうですわ! これは古代の叡智を結集したソースなのです!」
私が調子を合わせると、貴族たちは手のひらを返したように色めき立った。
「すばらしい! 店主、私にもその『半神の恩寵』のかかった料理をくれ!」
「私にもだ! 金なら払う!」
さっきまで「餌」呼ばわりしていた連中が、我先にと注文を始めた。
ゲンキンな人たちだ。でも、これでジャガイモの地位も向上するだろう。
一方、セバスチャンは無言でコロッケを食べ続けていた。
一つ、また一つ。
優雅なナイフ捌きだが、そのスピードは明らかに速い。
付け合わせのキャベツまで綺麗に平らげ、彼はナプキンで口元を拭った。
「……完敗でございます、お嬢様」
彼は深々と頭を下げた。その表情には、もはや侮蔑の色はなく、料理人への敬意が浮かんでいた。
「ジャガイモがこれほど高貴な味になるとは。私の認識が古かったようです。……これならば、誰も文句は言えません」
「わかってくれたならいいのよ。で、お父様……公爵閣下にはなんて報告するの?」
私が尋ねると、セバスチャンはスッと表情を引き締め、真剣な眼差しで言った。
「ありのままを報告します。『シェリル様は、王都でも屈指の美食を提供しております』と。……ですが」
彼は声を潜めた。
「お嬢様もご存知の通り、旦那様(ガラルド公爵)は、私以上に食に対して保守的で、頑固であらせられます。特に『煮込み料理』に対しては、『肉をゴムのようにする愚行』だと嫌悪しておいでです」
「ああ……お父様、ステーキ至上主義だものね」
「近いうちに、旦那様ご自身がここへ乗り込んでくるでしょう。その時は……コロッケ程度のインパクトでは、納得されないかもしれません」
セバスチャンは忠告を残し、代金として金貨を置いて立ち去った。
帰り際、小声で「……また非番の日に、個人的に伺います」と言い残していったのを、私は聞き逃さなかった。
店は再び大盛況となった。
「半神の恩寵」を求める貴族たちと、いつもの定食を求める常連たちでごった返している。
私は追加のジャガイモを茹でながら、来るべき最大のボス――実父との対決に思いを馳せた。
頑固親父。ステーキ信者。煮込みアンチ。
そんな父を黙らせるには、どんな料理がいいだろうか。
煮込んでいるのに、焼いている。
柔らかいのに、肉の味が濃い。
そして、貴族のプライドをへし折るような、圧倒的な「ご馳走感」。
(……そうだわ。あれしかない)
私の脳裏に、ある鍋料理が浮かんだ。
甘辛い割り下。霜降りの牛肉。そして生卵。
文明開化の音がする、あの料理。
父上、覚悟していてください。
貴方のステーキ至上主義を、この路地裏の食堂がひっくり返してみせますから。




