第4話
東方商人ザオが嵐のように去っていった直後のことだ。
深夜の『月待ち食堂』の勝手口から聞こえた、カリカリという控えめな音。
そして、「みゃあ」という、どこか聞き覚えのある尊大な鳴き声。
私はハッとして、勝手口の扉を開けた。
そこにいたのは――。
「……猫ちゃん?」
一匹の白猫だった。
だが、開店初日に焼き魚をねだりに来た時の、あの薄汚れた姿ではない。
月光を浴びてプラチナのように輝く毛並み。夜の海を閉じ込めたような、深く澄んだサファイアブルーの瞳。
その体からは、微かに神聖な光の粒子が漏れ出している。
そして何より奇妙なのは、その口に、自身の体ほどもある「濡れた昆布の束」をくわえていることだった。
「みゃう(開けるのが遅いぞ、娘よ。重かったではないか)」
猫は脳内に直接響く声で文句を言うと、スタスタと厨房に入り込み、くわえていた昆布を私の足元にドサリと落とした。
――ボトッ。
海水を含んだ重たい音がした。
同時に、厨房の中に濃厚な潮の香りが広がる。磯臭さではない。もっと上品で、奥深い、生命の源のような香りだ。
「これ……まさか」
私は床に落ちたその物体を拾い上げた。
分厚い。私の腕ほどもある幅広の葉。表面には白い粉が吹き、魔力を帯びて青白く発光している。
間違いない。これはただの海藻ではない。
「にゃーん(東方の海までひとっ走りしてきた。ザオとかいう人間が『幻の深海魔草』と呼んでいたやつだ)」
猫はカウンターの椅子に軽やかに飛び乗ると、後ろ足で耳の後ろをかきながら、こともなげに言った。
「と、東方の海まで!? ここから馬車で一ヶ月はかかる距離よ!?」
「みゃう(我にかかれば一月の道のりなど散歩のようなものだ。……まあ、少し泳ぐのは骨が折れたがな)」
猫はフンと鼻を鳴らした。
そうか、消えていた一ヶ月間。
この子は私の店に来なくなったのではなく、**「食材の調達」に行っていたのだ**。
それも、人間には絶対に手が出せない、伝説級の食材を求めて。
「どうして、わざわざこんなものを?」
「みゃあ(あの焼き魚は美味かった。だが、何かが足りなかったのだ)」
聖獣様は、グルメ評論家のように目を細めた。
「塩気も焼き加減も完璧だった。だが、お主の記憶にある『和食』とやらには、もっと根本的な『深み』があったはずだ。……それを再現するには、この国の市場にある干からびた海草では役不足だろうと思ってな」
驚いた。
この聖獣様、私の前世の記憶(料理の味)を読み取っていたのか。
そして、その味を再現させるために、自ら産地へ飛んだというのか。
なんて食い意地……いや、食への探究心だろう。
「ありがとう。最高のプレゼントだわ」
私は昆布を水で洗い、その表面を指でなぞった。
ぬめりと共に、指先に感じる強い弾力。
これは、前世でいう『利尻昆布』や『羅臼昆布』の上位互換だ。グルタミン酸の含有量が桁違いに多いのが、魔力感知でわかる。
ちょうど今、寸胴鍋にはザオに出した「鶏ガラスープ」が残っている。
鶏のイノシン酸と、この昆布のグルタミン酸。
二つが出会えば、何が起きるか。
「……ふふっ。猫ちゃん、お腹は空いてる?」
「みゃう(そのために帰ってきた)」
「よし。じゃあ、とびきりの一杯を作るから待ってて」
私は深夜の厨房で、再び火を入れた。
寸胴鍋とは別の小鍋に水を張り、持ち帰ってもらった昆布を一枚、贅沢に投入する。
沸騰直前までじっくりと加熱し、昆布の旨味を抽出する。
――フワァァァ……。
湯気と共に立ち上る香りが、劇的に変化した。
先ほどの鶏ガラスープが「力強いパンチ」だとしたら、この昆布出汁は「優しく包み込む抱擁」だ。
黄金色に輝く昆布出汁。
そこへ、寸胴の鶏ガラスープを合わせる。
動物系と、魚介系。
二つのスープが混ざり合った瞬間、厨房の空気が変わった。
香りが「丸く」なったのだ。
尖っていた鶏の脂の匂いが、昆布の品格ある香りに中和され、互いを高め合っている。
これぞ、ラーメンの極意『Wスープ』。
「仕上げは、これね」
ザオが置いていった醤油ダレを丼に入れ、Wスープを注ぐ。
麺を茹で、湯切りをして投入。
トッピングは、先ほどと同じチャーシュー、煮玉子、メンマ。
そして今回は特別に、出汁を取った後の「深海魔草」を細切りにして添えた。これもまた、歯ごたえがあって美味しいはずだ。
「お待たせ。聖獣様特製、『極上Wスープの醤油ラーメン』よ」
私は猫用の皿ではなく、人間用の丼でそれを出した。
相手は聖獣だ。床で食べさせるわけにはいかない。
猫はカウンターの上に座り、目の前の丼を見下ろした。
その青い瞳が、揺らめくスープの輝きを映し出す。
「みゃう……(ほう。香りが、変わったな)」
猫は鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。
そして、器用に前足……ではなく、魔力で箸を操り(!)、麺を持ち上げた。
「いただきます」
今度ははっきりと、声に出して言った気がした。
ズルズルッ!
豪快な音が響く。
猫舌ではないらしい。熱々の麺を吸い込み、スープを飲む。
その瞬間。
猫の全身の毛が、ボワッと逆立った。
「にゃっ……にゃんだこれはぁぁぁッ!?」
脳内に響く声が裏返った。
「美味い! なんだこの調和は! 鶏の力強さを、海藻の滋味が支えている! 口に含んだ瞬間はあっさりとしているのに、喉を通った後に押し寄せる旨味の津波! いつまでも舌の上に余韻が残る!」
猫は猛烈な勢いで食べ進める。
「麺も良い! この縮れた形状がスープを絡め取り、口の中で踊るようだ! チャーシューの脂身がスープの熱で溶け出し、さらに味を濃厚にしていく……計算され尽くしている!」
ハフハフ、ズルズル。
聖獣の威厳などかなぐり捨てて、猫はラーメンに没頭した。
ザオの時と同様、あるいはそれ以上の食いつきだ。
やがて、スープの一滴まで飲み干すと、猫は「ぷはぁ」と息を吐き、満足げに腹をさすった(ように見えた)。
「……見事だ、娘よ。我が一ヶ月かけて海を渡った甲斐があったというものだ」
「気に入ってもらえたなら良かったわ。それに、貴方が昆布を持ってきてくれなかったら、この味は出せなかった。半分は貴方の手柄よ」
私が言うと、猫はニヤリと口角を上げた。
「謙虚だな。……気に入った。ザオと言ったか、あの人間が『金貨』で取引するなら、我は『加護』で支払うとしよう」
「加護?」
「うむ。この店は美味いが、少し不用心だ。小虫やネズミ、あるいは悪意を持った人間が入り込む隙がある。……これだけの宝(料理)があるのだ。守りがなくてどうする」
猫がスッと立ち上がり、その青い瞳を光らせた。
――パァァァン……!
店内に、淡い光の波紋が広がった。
天井、壁、床。店の隅々にまで、青白い魔力の膜が張り巡らされていく。
それは一瞬で消えたが、空気中の埃すら消滅し、店全体が清浄な空気に包まれたのがわかった。
「これは『聖域』の結界だ」
猫は誇らしげに言った。
「害虫、害獣は二度と近づけん。汚れもつきにくくなる。そして何より、お主に明確な害意を持つ者は、この暖簾をくぐることすらできなくなるだろう」
「す、すごい……! 自動セキュリティに、防虫防汚コーティングまで!?」
繁盛店の悩みである衛生問題と防犯対策が、ラーメン一杯で解決してしまった。
これで皿洗いや掃除の手間も激減するはずだ。
「礼には及ばん。……その代わり」
猫は私の足元にすり寄り、ゴロゴロと喉を鳴らして見上げた。
その目は、完全に「餌付けされた家猫」のそれだった。
「これからは毎日、この店で飯を食わせろ。我の席(指定席)を用意しておけよ?」
「ふふ、もちろんよ。歓迎します、聖獣様」
「……『シロ』でいい」
「え?」
「名前だ。昔、人間にそう呼ばれていた気がする。……この店にいる間は、ただの猫『シロ』として扱え。よいな?」
シロちゃん。
伝説の聖獣にしては可愛すぎる名前だが、本人が良いなら良いのだろう。
「わかったわ、シロ。これからよろしくね」
私はシロの頭を撫でた。
プラチナの毛並みは驚くほど柔らかく、温かかった。
こうして、『月待ち食堂』は最強の用心棒を手に入れた。
騎士団の労働力、魔術師の知識、商人のコネクション、そして聖獣の結界。
私の店は、いつの間にか要塞のようになりつつある。
だが、そんな鉄壁の守りを誇るこの店に、翌日、もっとも厄介な「客」が訪れることになろうとは、この時の私はまだ知らなかった。
その客は、害意を持っているわけではない。
ただ純粋に、甘いもの(・・・)と酒を求めてやってくる、あの偏屈な男だ。
朝になり、開店準備をしていると、店の前にふらりと現れた人影があった。
目の下にくっきりとした隈を作り、しかし目は爛々と輝かせている、紫のローブの男。
「……店主。朝からすまないが、糖分を補給させてくれ。脳が……脳が焼き切れそうだ……」
筆頭魔術師ルーカス。
彼の手には、なぜか酒瓶のようなものが握られている。
朝から飲酒? 仕事は?
私の新たな疑問と、次なるスイーツ開発の幕が開ける。




