第11話
トロトロと流れ出した半熟卵が、ケチャップライスを黄金色に染め上げていく。
その光景は、飢えた王太子ジュリアン様にとって、王家の宝物庫にあるどんな宝石よりも輝いて見えたに違いない。
「い、いただきます……!」
彼は震える手でスプーンを差し込み、卵とライス、そしてデミグラスソースを一度にすくい上げた。
大きな口を開け、パクリと頬張る。
――んぐっ……!
その瞬間、彼の動きが停止した。
カトラリーが皿に触れる音さえしない静寂。
やがて、彼の肩が小刻みに震え始めたかと思うと、その瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……あ、あぁ……」
「お味はいかがですか?」
私が尋ねると、彼は呻くように答えた。
「味が……する……!」
当たり前の感想だが、彼にとっては切実だったようだ。
「濃厚な卵のコク! バターの背徳的な香り! そしてケチャップライスの甘酸っぱさが、舌の上で踊っているようだ……! 野菜の青臭さは微塵もなく、炒められた玉ねぎと鶏肉の旨味が、噛むたびにジュワリと溢れ出す!」
彼はさらに一口、また一口とスプーンを動かす速度を上げていく。
「このデミグラスソースも何だ!? ただの煮込み汁ではない。赤ワインの渋みと肉の脂が煮詰められ、奥深い苦味が卵の甘さを引き立てている。……美味い。美味すぎるぞ、シェリル!」
リナさんの「素材そのものの味(調味なし)」に慣らされた彼の舌に、バターと油と塩分という「文明の味」が直撃している。
栄養素としてのカロリーではなく、魂を満たすカロリー。
人は、清らかな水だけでは生きられない。時には泥臭く、脂ぎったエネルギーが必要なのだ。
「うっ、うう……俺は、俺はなんてものを食べていたんだ……」
ジュリアン様は泣きながらオムライスをかきこんでいる。
半分ほど食べたところで、彼はハッと顔を上げ、充血した目で私を見つめた。
「シェリル。……俺は間違っていたのかもしれない」
「はあ」
私は冷めたお茶をすすりながら相槌を打つ。
「リナは……確かに『聖女』だ。彼女の料理は体に良いのだろう。だが、俺が本当に求めていたのは、こういう料理だったんだ。疲れた体に染み渡る、ガツンとした味。明日への活力が湧いてくるような、力強い食事だ」
「それはようございました」
「なぁ、シェリル」
彼は突然、カウンター越しに私の手を掴もうとした。
私はサッと半歩下がって回避する。
「戻ってきてくれないか?」
「……はい?」
「王宮に、俺の元に戻ってきてくれ! 婚約破棄は撤回する。いや、今すぐお前を正妃として迎え入れよう!」
彼はスプーンを握りしめたまま、熱烈に訴えかけてきた。
「お前の料理が必要だ! 毎日このオムライスを作ってくれ! 唐揚げも、その豚汁とやらも食いたい! リナには……そうだな、彼女には別の離宮を与えて、そこで野菜を育てていてもらえばいい。だからシェリル、俺とやり直そう!」
……呆れた。
この男、胃袋を掴まれた途端にこれだ。
リナさんのことは「愛している」と言っておきながら、食事が不満だからと手のひらを返す。その程度の愛だったのか。
それに、私を「都合の良い料理人」としてしか見ていないのが丸わかりだ。
私は扇子を取り出し(厨房なので持っていないが、心の中で)、パチンと開いて口元を隠した。
目だけは笑わずに、冷ややかに彼を見下ろす。
「お断りいたします」
「な、なぜだ!? 公爵令嬢のお前が、こんな路地裏で油まみれになって働くより、王妃として贅沢な暮らしをする方が幸せだろう!?」
「いいえ、殿下。今の私は『公爵令嬢シェリル』ではありません。ただの『定食屋のシェリル』です」
私は厨房を見渡した。
ピカピカに磨いた鍋。使い込んだ包丁。
そして、昨日は騎士たちが、一昨日は魔術師が座っていた椅子。
「私は今、自分の手で稼ぎ、自分の好きな料理を作り、それを『美味しい』と食べてくださるお客様に囲まれています。……王宮で、冷え切った料理を食べていた頃より、今のほうがずっと幸せで、ご飯が美味しいのです」
「そ、そんな……」
「それに、一度破棄された婚約です。覆水盆に返らず。焦げたオムレツが元に戻らないのと同じですよ」
私は伝票にサラサラと金額を書き込み、彼の前に突き出した。
「というわけで、お代を頂戴いたします。特別メニューですので、金貨一枚になります」
「き、金貨一枚!? ぼったくりではないか!?」
「『元婚約者に復縁を迫られた精神的慰謝料』と『閉店間際の特別対応費』が含まれております。……払えませんか? 王太子殿下ともあろうお方が」
私がニッコリと微笑むと、ジュリアン様は「ぐぬぬ」と唸りながらも、財布から金貨を取り出して叩きつけた。
「……覚えておけ! 俺は諦めんぞ! また来るからな!」
「お客様としてなら歓迎しますよ。列に並んで、大人しく食べて帰るなら、ですが」
ジュリアン様は捨て台詞を吐いて、逃げるように店を出て行った。
皿に残っていたオムライスは、米粒一つ残さず完食されていたのが、なんとも彼らしい。
「ふぅ……やれやれ」
私は重いため息をついて、空になった皿を下げた。
復縁なんてお断りだ。
けれど、彼が通ってくるとなると厄介なことになる。
なぜなら、彼の背後には――嫉妬深い「聖女様」がいるのだから。
私の予感通り。
翌日の昼下がり。
今度は王家の馬車ではなく、ピンク色の派手な装飾が施された馬車が、路地裏の入り口を塞ぐように止まった。
「ここね……ジュリアン様をたぶらかす、泥棒猫の店は!」
金切り声と共に降り立ったのは、ふわふわのピンクブロンドを揺らす聖女リナ。
彼女の背後には、「正義の鉄槌を下す」という名目で集められた、彼女の取り巻きの貴族たちが控えていた。




